kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘情報化社会’


1月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 24th, 2022  Posted 12:00 AM

1月24日 先負(丁丑)

『修辞学としてのデザイン』

情報化社会は
すでに
情報社会化に
移行してしまった。

artificial heart:川崎和男展


目次を見る

9月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 26th, 2020  Posted 12:00 AM

9月26日 大安(壬申)

『技術としてのデザイン』

さて、
さらに現代の技術の極点は、
高密度情報化社会ヘの方向を
明らかにしてきている。

artificial heart:川崎和男展


目次を見る

「商品価値の読み違いだった」


   


     11月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

英国作家のアーサー・ヘイリーの代表作に「自動車」があります。
1971年の超大作と言ってもいいでしょう。
この本は、まさに「自動車」が主人公であり、
当時の自動車産業界が
「商品としての自動車」をどのようにみていたのだろうか、
そのことが克明に描かれています。
はっきりと言えば、アーサー・ヘイリーは、
「商品価値」としての自動車を語り過ぎていて、
少なからず、特に米国の自動車産業が、
次の情報化社会から情報社会で変革されてしまうことに、
全く気づいていませんでした。
まさに70年代、
米国が日本の自動車をどれほど
見下していたかということが歴然と描かれています。
「竹と紙でできた住居そのままの自動車なんぞ」
という表現に象徴されているわけです。
ところが、この出版からすぐに日本の自動車産業は、
米国自動車産業界との「貿易摩擦」にまで追い込み、
経済的な戦争が開始されました。
それは、小型車が圧倒的な性能によってその商品性を高め、
欧州車であっても、
小型自動車や排出規制での性能合戦に
「商品価値戦争」へと巻き込んでいきます。
そして、
自動車産業は未だにこの「商品性」に縛られたままだと言っておきます。
ところが、ユーザーの消費行動は、
確実に「記号的存在としての自動車」に特に所有感を置いています。
ハイブリッド車はそのまま、
地球環境をことのほか大事に考えているという「記号としての自動車」
まさに記号選択を明言しています。
米国の子どもたちの
自動車の絵が変貌してしまったことが報告されています。
彼らは今すでに、
「自動車のかたちは三角形のおむすびに四輪がついている」のです。
すなわち、子どもたちにとって車の記号は、
すでにハイブリッドカーである
「プリウスのかたち=形態言語」になってしまったのです。
したがって、アーサー・ヘイリーのその他の作品においても、
記号論的な意識レベルがありながらも、
消費社会の題材は、
未だにかつての社会的な価値論に呪縛されています。
それは
まさに、わが国の産業経済でのリーダーたちの意識レベルそのままだと
断言しておきます。
「商品というモノはすでに存在していません」
「記号=コードとモード」から
産業的な経済効果に私たちは取り囲まれていることを熟知すべきなのです。


目次を見る

「 Facebook、ましてBlogにも未来はないだろう」


   


     6月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

最近はすっかりTwitterを離れています。
やはり、信頼感ということではFacebookです。
基本は、Facebookの「実名主義」にありますが、
これとて、いくつかの名前を使い分けていることなど、
それは容易く見極めることができます。
少なからず、自分なりのコミュニティ設定は、
ハンドルネームで誹謗中傷する輩との厄介な接触は不能です。
Twitterという「ツブヤキ情報」=条件反射記述、
このいい加減さは、ハンドルネームにも顕れていますが、
要は人間性・人格性を、
この情報化社会=劇場社会での実際は、
自分自身の「存在性・アイデンティティ」を
ハンドルネームで自己否定する程度ゆえ、
ほとんど、社会的な発言性の重量感はあるはずがありません。
しかも、こうした発言者と発言内容などは、
ほとんど街中に氾濫している監視カメラ的に徹底監査されています。
私は、もうすでにBLOGという形式も「自己表現」としては、
時代遅れになりつつあることも自覚していますが、
どんなにバーチャル空間であっても、
そのバーチャル空間での「役割=自己存在」と「自己統一性」とは、
つまり、それは「誠実性」を自分自身へ問いかけるものです。
これこそ、
自分を決して見失わない最良(最適ではなく)の方法と手段でしょう。
国学の始祖である本居宣長にまで、
私たち日本人は、その人間的倫理性=誠実さの希求法が大事です。
本居宣長に遡及すれば、
「学問とは誠実さを鍛錬する最良の方法」ということになりますから、
現代、学問・知識・良識への情報化に差し向ける自分存在の確認、
すなわち、
自分への誠実さはSNSという形式にも埋め込めるかも知れません。
それならば、SNSという形式とは、まさにその内実・内容です。
だとするなら、「実名主義は確かにその一つに近接」しています。
けれども、
おそらくBBS(電子掲示板・Red Ryderが創設した理想はもう皆無)や、
TwitterそしてFacebookも形式でしかなく、
その内容はまだまだ
人生夢うつつ=空虚なる空間と断言しておくべきでしょう。
ましてこうしたBlogの形式もいわゆる自筆筆記ではなく、
記録された形式にはなりえないかもしれないと思い始めています。
こうした思いに囚われ出したのは、
すでに私に残された時間がささやいています。


目次を見る

12月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 23rd, 2010  Posted 7:54 PM

12月23日仏滅(丁未)

情報「化」社会ではなくて、
情報社会「化」に
なっていることを
見過ごさないでほしい。

『デザイナーは喧嘩師であれ』事代主神


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「用間=インテリジェンスの核心、その操作効用」


   


     9月 23rd, 2010  Posted 1:07 AM

二つの用間フィクション
私は、資本主義は終焉していると考えています。
だから、情報は情勢報告、すなわちインテリジェンスであり、
策略・謀略があまりにも見事な「情報化社会」だったということです。
それは国家市場主義であり、一党独裁、
大衆をあたかも情報操作で資本主義とみせかけているものかもしれません。
となれば、資本主義そして自由主義、それらを裏付ける民主主義の否定論理が働いています。
これはフィクションと考えてください。
なぜなら、ここには私が創作しようとしてる二つの矛盾仕掛けがあります。

一つ目は、私自身、資本主義・自由主義・民主主義には大きな疑念を持っているからです。
自由主義という情報操作が、あたかも民主主義を理想主義の上位概念にしてきました。
それは本当に正しかった=正義だったのだろうか、と考え込んでしまいます。
自由主義は拘束主義を、自由主義保全として正当化しています。
自由主義に裏付けられている平等主義も、明らかに社会差別を制止することはありえません。
民主主義を防衛するための戦闘=暴力行使への異議申し立ては当然の事実として
現代史をつないでいます。

二つ目は、以上のことをそのまま、新たな社会主義としての国家的な統制論としています。
それは民主主義的な資本主義ではなくて、あたかも資本主義的で自由経済性的な策略操作です。
さて、私のこのフィクションが、現代日本を取り囲んでいるのかもしれません。
だとするなら、情報=インテリジェンス=用間の戦略論がとても活性化している、
こうした想像力をあなたも持っておられるでしょうか?、ということです。
わが国の「情報」=インフォメーションから隔絶してみる必要性を
このフィクションに託しておきます。


目次を見る

2月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 6th, 2010  Posted 9:00 AM

2月6日 仏滅(丁亥)

情報化社会が
高度になるからといって、
コミュニケーションが多様化し、
民主主義が
力を強化するというのは
虚構にほかならない。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「なぜ、ここまで私の
  コンピューターcontextを記述するか、です。」


   


     1月 26th, 2010  Posted 1:00 AM

My Context of Computing Interaction
少なからずBit資本が情報化社会の基盤要素、
Bit資本が情報時代となってきた「要因」を
考えつくしてみたいからです。
だから特にソフトウエアとの関係を
私自身が1970年代からの実体験は、批評と評価を
語り尽くさねばならないと考えています。
批評は時として「非難」になります。
毒舌、悪口でもあります。
ただし、悪口を陰でコソコソと言っているのでは無く、
正眼の構えで、私自身が非難される覚悟をもって、
語るのです。
それは覚悟であって、勇気ではありません。
覚悟と勇気もその差異性を明確に志しであるべきです。
ブログという形式は、悪口の形式になることも
しばしば起こります。
「ブログ炎上」というのがその実例でしょう。
私のブログは、「数学」に触れると、
アクセス数は激減します。
どれだけ私たちが学校で「数学」がつまらなかったか、
ということでしょう。
ところが、「数学的思考」を根底でとらえて、
日常のツールとなったのがパソコンです。
すなわち、bit=1or 0=on or offのdigital世界を
隠されたレイヤーの後ろに「数学」というか、
「数理的思考」があることを認めて真正面で、
受け止めれば、パソコンにまつわる情報・情報化、
そして、
Bit資本を定義化して、
資本主義の変革、革新、
その手法を早く発見できるでしょう。


目次を見る