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Posts Tagged ‘形態論’


『人工腎臓のFirst Model15年後現在・ここからまた出発』


   


     3月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

私がCG研究で米国で出逢った光造形の原型を忘れられなくて、
結局、名古屋市立大学での教授になり、光造形システム装置から、
私はトポロジー(位相空間論)さらに、空間・形態論としました。
そのトポロジー空間論は今も批判する輩には、
すでに人工心臓は3つのモデルと実働モデルを動物実験しています。
そして、人工臓器の中でも腎臓のネフロン単体の人工化は、
すでに15年この考察を続けていて、この5月には本格的に
医療機器メーカー・ショールームにて展示計画が進行しています。
その最初の人工腎臓初期モデルがようやく、
現在のダイアライザーを変革するものと確信しています。
当然、ここに掲載した造形言語はあくまでもデザイン意図形態ですが
この造形言語に対して、新素材アイディアを具体化していきます。
先般も、放送大学の「産業とデザイン」最終回では、
これからのデザイン方向として、私の人工臓器が事例でした。
デザインにとって、これまでは人体外部の製品・商品でしたが、
私は人体内部の臓器そのもののデザインを対象化しています。
まだ正確ではありませんが、この人工腎臓の素材も私なりに、
その素材メーカーのアプローチに入っています。
いわゆる人工透析という医療システムはすでに私は破綻していて、
その原因は「使い捨てのダイアライザーとその一式」です。
すべてが医療廃棄材であり、それはゴミにすぎません。
私のコレまで15年とこれからの研究開発も私世代では、
とても完成には至らないかもしれませんが、
すべてを書き残し、次世代デザイナーに残しておく覚悟です。
しかし正直には、なんとしても私自身でここからの人工腎臓も
すでに人工心臓はじめを完成させたいと考えています。
そのためには、これまでのデザイン教育の限界を打ち破る、
「コンシリエンスデザイン看医工学」、その講座と
産学協同プロジェクトを開始しています。

 


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『「ぬいぐるみ」の意味する現代軽薄感覚主義の再熟考』


   


     5月 1st, 2014  Posted 12:00 AM

「かわいい」=「kawaii」は現代の感覚主義として風潮を制御し、
国家戦略にまで投企==現代風潮的な理解になっています。
「かわいい」という感覚が政治戦略化されることについては、
相当の準備が必要であるものと考えざるをえません。
私流の形態論では、「かわいい」には、形容詞要素は明快であり、
決して人間には脅威や凶暴性を与えないかたちがあります。
それは獰猛な動物をモデルとしても、受け入れられる形なのです。
したがって、私が最も危惧することは、
モデル化されて消去された獰猛さ=かわいさと直結していることは
再熟考をしなければなりません。
ところが、「かわいさ」には社会的に大容認されている安心さ、
そのものが担保化されて風潮を超えた曖昧性まで消滅しています。
私は、軽薄さまでを受け入れる感覚の程度を、
敢えて全世界のバランス感覚であると論理化しておきます。
このバランス感覚こそ「度量衡」の「度」と「衡」、なのです。
それが結局はファッションの軽薄さを裏付けているものでしょう。
この軽薄さには実際は勇気の源泉があるものと考えるべきです。
たかだか「かわいいライオン、そのぬいぐるみ」には、
凶暴性も獰猛性もまったくありませんが「かわいさ」があります。
結局、このかわいさは勇気を真に裏付けているからこそ大切です。
人間世界が知的な軽薄さを見過ごしている勇気の存在こそ、
実は、自分をかわいい存在にしたいという、
ぬいぐるみを所有し顕示する軽薄であたかも無知的ささえ、
実際は大きく擁護していることを制度だと断言すべきことです。
私が問題にすることは、無知な軽薄さに耽溺している感性です。
そのような感性の対象に流れているぬいぐるみの効用性です。
つまり、知的で風潮化されている軽薄さに「かわいい」が、
明白に勇気となっていることの制度化を再容認すべきでしょう。

『キャラクターのデザイン=かわいいデザインの再定義』
「アイドル・キャラクターのメタ・アンビエントへのコンテクス」
「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」
「『きれい』にすることが『美しい』こと」
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


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『神仏像をもっと知っておきたいと考える』


   


     2月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

久しぶりに「新TV見仏記」をテレビで観ました。
私が宗教を知ろうと思ったのは、
ふるさと福井でこの二つが不明だったことです。
生まれた里には永平寺曹洞宗がありました。
しかし葬式では浄土真宗があり仏教に種類がある不思議さでした。
一時期、宗教という思考領域とは無関係で生きたいと思いました。
土門拳の写真で仏像や神仏混合のアイコンを見て、
その美しさに惚れ込んで以来、仏教神道に興味がありました。
仏像や観音像などのいわゆる歴史的なフィギュアに潜むこと、
これを徹底的に知りたいと思うようになったのは、
これにも私が車椅子生活を余儀なくされたことがあります。
ぞっこんこのフィギュアアイコンのかたちに惹かれたのは、
ロボットデザインでの「身体論」と「形態論」でした。
しかも今年は森政弘先生から、改めて「華厳経」を教えてもらい、
松岡正剛氏は「維摩経」で年末を過ごしたことや、
いとうせいこう氏とたまたま出会って「不気味の谷」の話や、
彼とみうらじゅん氏の「TV見仏記」が今年から大阪でも放映とか、
彼にはロボットと仏像の話を希望している次第です。
いづれにしても、宗教を表現する神仏像については、
これからさらに興味を持つものと考えています。
宗教といえば、信教、信仰、信心を自分の中で再確認の対象です。
正直、宗教における経典はきっと心の物語りなのでしょう。
私はともかく神仏像の「かたち」に徹底的に入り込みたいのです。
多分その「かたち」には具体的にはロボットの「かたち」があり、
象徴的には、心が期待し確認する何かがあるものだと想像します。
いづれにしても、仏教にはその他の宗教よりも興味があります。
そして「新TV見仏記」の次のテーマが楽しみです。
少なからず、仏教の「かたち」には何かがあるものと考えます。

【ブログの関連記事】
『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』
『「舞の霊性」出版とともに思い知る』
『今年早々、最高の講義を受ける・森政弘先生の仏教論』


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『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』


   


     1月 6th, 2014  Posted 12:00 AM

年末年始は、ロボット学者とロボットベンチャーとの
忘年会と新年会で今年はスタートをしました。
昨年末、いわゆる「玩具」である「オウム返しするおもちゃ」を
私は見つけて、それなりにワイフとこのおもちゃに対して、
二人で言い合いをしていました。
私自身、ロボットに関わってきて、
「ロボットデザイン基礎学」をいくつかの大学カリキュラムを
書き上げて提示もしてきました。
私のロボティクスには、AIBOをGマークにするかどうかで、
哲学者・中村雄二郎先生からの教えが基本になっています。
わが国は世界的にもロボット先進国と言っていいでしょう。
しかし、ロボティクス学には私は三つの間違いがありました。
それが明白になったのは、人災であった3.11原電事故があります。
● 膨大な研究費でのロボットは原電事故に全く未対応
● ヒューマノイドとメカノイドでのロボット研究に分離
● デザイン介入に大きな過ちが入り込んでいた
これが私の見解でした。
幸いに、メカノイド系とヒューマノイド系は、
現在はアンドロイド系とナノマイクロ系に分離しながら、
私も大学人にて「ロボットデザイン基礎学」を蓄積してきました。
その結果は、「身体論」と「形態論」、
さらには、「モノの体系」で指摘されたロボット言論があります。
そして、今では「玩具としての具体」は、
「おもちゃゆえの安心的な存在」に至って商品化されてます。
この二つが私はその象徴的な「モノ・ロボット風存在」です。
一方は単なる景品であり、一方は「リピート」存在です。
さて、問題は結局、玩具から兵器までが、
果たしてあの「不気味の谷」での論理と、
これから人工物としての人間あるいは人間社会との関係性です。
だから、環境デザイン=ロボティクスデザインであることを
わが国は根本からの再構成が必然だと確信しています。


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『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』


   


     11月 15th, 2013  Posted 12:00 AM

高校時代は「倫理社会」その中の哲学が最も好きでした。
大学入試の模擬テストでも、この科目だけは全国トップでした。
「哲学」を本当に深く知るようになったのは、
中村雄二郎先生と直にお目にかかり、いくつも勉強しました。
だから、この本棚には特別の想いがあります。
あるとき、「このナイフのデザイナーは?」ということで、
先生自らが福井に来訪され、以後は、なんでも聞きました。
先生の新聞連載のイラストを任されたこともあります。
先生は、考え方をフランス語で打ち込まれるので、
フランス語のキーボードを用意したこともあります。
先生は、明治大学退任直前には、
アップル日本法人の新聞全面コマーシャルにも出演されました。
デザイン・デザイナーの批評はとても子細なコトまで熟知。
かつては日本のグッドデザイン賞の思想を教示してもらいました。
先生を囲んでの勉強会は素晴らしく楽しいものでした。
現在日本のデザイン界に哲学的な支柱が無いと私は思っています。
「デザインは難問解決である」とか、
ロボットデザインにおいての理論的背景も教えられました。
デザイナーは、「形態論」だけを語っていてはいけない、
「身体論」での論議性を懸命に解説をしていただきました。
この秋、フランスとカナダが共同してのプロジェクトにおいて、
私は、医療・原子力・ロボットがテーマになっていますが、
ロボットデザインでは、中村先生からのヒントを紹介します。
先生は今は加療中ですが、この本棚には先生がおられます。
私はこの本棚の前で佇むときにはいつも想い出すことが出来ます。
私の著作にも一文書いていただいたこともあります。
つまり、デザインにはこうした哲学の先生が最も必要なわけです。


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「3Dプリンターの真実と真贋を見分ける!」


   


     4月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システムを知らないユーザーに警鐘を与えておきます。
安価であろうが高額な装置であろうが、
真実で真贋を見極められる「技」がなんとしても必要です。
この画像を見て、3Dプリンターの機種、
当然ながら市価が区別出来ることが真贋を決定できるでしょう。
光造形システムから3Dプリンターという系譜で、
何が可能になってきたかを知る人以外は、まさかこれが出来るとは・・・、
ということになるでしょう。
これらの現物が出来る人物は、
たった一人しか日本には居ないと思います。
最近、TVや雑誌にしても、この人物だけが真実を成し遂げています。
今日知りました。彼とは面識があったそうですが、
今は個人情報もあることから、Mさんだけが可能ですと断言します。
3Dプリンターがあの「MAKERS」という著者の指摘は当たっています。
ただし、彼の思いが本当はどこから今日にいたったかは
何人かが牽引していく必要があるでしょう。
これからの日本の産業構造を変えるには、
私はYさんとMさんがそのリーダーになると確信しています。
もちろん、私自身も1996年には、
彼らが居てくれたからデザイナーとして出来た経験があります。
一昨日私は、「クラインボトル」の形態と擬似形態、
そして空間論・言語論・形態論の可能性を提示しなければと記載しました。
昨日は、この画像の現物をじっくりと見ながら、
1980年代後半に、
私が、プリンストン大学と共同研究していた「歯車」を米国で再び見た思いです。
今や廉価であっても「技」が必要だから「革新の技術」が必要です。
なんと言っても見ていただきたいのは、
TOKYO Maker」のwebsiteです。
なぜ、3Dプリンターが自宅のキッチンに置いてあるのでしょうか?
私は、名古屋市立大学時代は、
おそらく最高の「光造形システム」がレーザー違いで二台在りました。
しかし、当時はその部屋に入ることは避けていました。
危ないと思っていたからです。
つまり、3Dプリンターが世界を革新することは確実ですが、
それを何としても成し遂げるのは
この日本からに絶対にしたいと思っています。
Mさん、Yさん、これからもよろしくお願いします。
私のノウハウはすべて提供します。


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「初音ミクが象徴している近未来はアンドロイドなんだ!」


   


     12月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

同じ大学に居ながら同僚にもかかわらず、
マスコミ報道やTV番組などで、その活動を知ることの方が多いものです。
いつも何らかイベントでは、
阪大同僚である教授と同席することがよくあります。
阪大ロボット学者の石黒浩教授とは、
昨日も、
医学系研究科MEIセンター(澤 第一外科教授センター長)の講義で、
研究内容を間近に見、そして本人に質問まで出来ました。
しかも、今日は兵庫県立美術館でまたご一緒するのです。
石黒教授といえば、世界的ヒューマノイド系ロボット、というより、
すでにアンドロイド開発者として国際的な第一人者です。
授業として、
石黒教授の講義を受講し、質問をして確認できたことがあります。
ロボット工学では、「不気味の谷」論というのがありますが、
その具体例での論説に感銘を受けました。
そして、すっかり疑念が解消されたのは、
「なぜ、初音ミクが218カ国に受け入れられているのだろうか」、
納得できました。
この言わば、漫画とは言い切れないアニメーション・キャラクターは、
非在しつつも、確実にアイドルとして驚喜する感性がどこまで世界的に、
飛び回っていることの理由であり、開放感覚です。
明らかに、不気味さは皆無であり、
消去できうることや、聴覚映像の詳細な表現技術の進歩そのものが、
まさに、アンドロイドということです。
そして、最も重大なことは、
「攻撃性皆無の安全性と安心感」を受け止められる感性、
それが情報時代の中で
若者の感受容体に育まれてきたということになります。
私は、これを「形態論」と「身体論」で、デザインテーマとして、
どのような意図すべき「造形言語」を創成すべきだろうか、
意味されてしまう「形態言語」への
デザインアプローチを求めようとしている自分、
すなわち、これが自我なのかも知れないと気づくのです。
デカルトの言葉、
「我思う、ゆえに我有り」は、
近代の認識論としての一つの源流であったかもしれませんが、
「初音ミク」という具体的存在のアンドロイド性には、
もはや、
そうした思考制御などは皆無になっていると言ってもいいでしょう。
すでに認識論的な哲学は、
消去されていると考える時期なのかもしれません。
今日、あらためて石黒教授の講演で確認してみるつもりです。
私のテーマは「あさっての美術館」?!
ん、何?とこれからプレゼン制作に入ります。


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10月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 9th, 2012  Posted 6:09 PM

10月9日 癸卯(先勝)

私が、デザイン形態学を造形実例し、
解釈し、
かつデザインでの形態学の論理を
打ち立てようとするなら、
このクラマタの「Umbrella Stand」
になるだろう。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』12 造形形態学の必然性


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10月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 8th, 2012  Posted 10:45 PM

10月8日 壬寅(赤口)

形態論もしくは形態学がどんな領域でも
科学的であるのか。
そこには、
形態論を成立させる要因や要素があり、
かつ、
そうした因果性に美しさとか機能的で
使い勝手いうことが
何かデザインの手がかりの学理にないものかと
考え続けている。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』12 造形形態学の必然性


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9月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 19th, 2012  Posted 3:00 PM

9月19日 癸未(大安)

形体論としての点と
形態論としての点との関係は、
これまでほとんど
学際的に論述されてこなかった。
この論述が可能なのはデザインという
フィールドにおいてである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』11 造形元素としての点


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