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Posts Tagged ‘解釈’


『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


   


     4月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

おそらく、「コンシリエンス」という新造語を作成した
ウイリアム・ヒューエルは「silience」という言葉を原型に、
con+silience=consilienceとしたのではと辿りつきました。
「silience」というすでに英語でも死語化している意味を探りました。
しかし、これは単なるデザイナーの戯言的な解釈と考えてください。
「silience」には、日常何も考えない、つまり無意識ながら、
あるとき、ハッとするほど重大な、
それこそ隠れていた宝石のようなキー単語に辿り着くことがあるという、
そんな発想の言葉が「silience」だということです。
たとえば、自分の進路がゴミだらけだとしても、
そのゴミの中に、突然キラリと光るダイヤモンドがある、かもしれない
そんな柔軟性をゴミだらけの道筋でも発見できる能力=言葉です。
だから私はデザイナーとして、
18世紀のウイリアム・ヒューエルからエドワード・オズボーンによって、
「知の統合」=コンシリエンスに至ったのなら、
paraとmetaを加えることで、さらにコンシリエンスとレジリエンスを
思考拡大していきたいと考えています。
これはかつて、アルキメデスが「メタ理論」をまとめたことを応用可能?
と考えているからです。
少なからず、レジリエンス=re+silienceとは、
redesignのごとく、silienceの否定ですが、
それこそ、積極的な否定という意味での、ストレスやプレッシャーを
「無意識の知性」で克己するという重大な意味になるからです。
パラシリエンスは、知的前提でのプライミング性があり、
メタシリエンスは、知的拡大を図ってエフェクト性があるということです。

*『芸術で学術は語り切ることができる』
*『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


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『思考の「思う」という象形文字からの意味』


   


     1月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」をことば、そして概念として再考するには、
まず、「思考」その「思う」:「思」について、
この漢字の由来=象形文字からの系譜とその意味獲得を見直してみます。
かつて著名な国語学者が新書で「思考」について、
その記述は間違いだらけだったことを僕は覚えています。
理由は簡単で、まず、漢字であることには
二つの意味があることを全く無視していたことです。
現在も僕はこの二つの意味が確認されることなく、
「思考」=THINKINGという訳語が生まれて当然だという認識に
疑問ありです。
二つの意味とは、「思考」というのは古典中国的には
見事な陰陽説が裏付けになっていること、
つまり、陰陽説を適合すれば、THINKING一言に決してなりません。
まず、僕は陰陽説では「思」は、陽であり、
これは全く感性的な思考を意味していることを語るべきです。
その根拠は象形文字に見事に的中していることです。
「思」は「田」と「心」から成り立っています。
そして、「田」という漢字要素は、頭蓋骨をシンボルにしています。
しかも、この頭蓋骨も乳児の頭蓋骨、
その「泉門」を含んで解釈が成立します。
「泉門」は、胎児がすでに羊水に居る頃に、
感性で受け止める反応・認知がスタートするということです。
そしてもう一つの「心」も、心臓をシンボルにした象形文字です。
血管+形態としての袋体、そして2つを明示しています。
この2つの明示は、かつては右心房右心室+左心房左心室だと、
中国時代は解釈されていたのかもしれませんが、
心臓は他の臓器とは大きく異なり、感情がそのまま反映するところです。
それは、ドキドキしたり、不安になったり、喜びで高鳴る、
これは明らかに自律神経の交感神経、
もっと専門的にはβ1とβ2という神経回路が心臓を制御していることです。
確かに、感情が心臓には大きな影響を与えていることになります。
生まれてすぐに働き始める感性と、感じて動き出す感情が表す、
行動が「思う」という意味を与えているとみています。
結局、「思う」という意味には感じとる生来の感性と、
感じ取って生理的な感情が心臓を制御しているということです。
したがって、「思考」の「思」だけでは、
THINKING一言には至らないことは明らかです。
僕はあらためて、「思考」の「思」については、
思いつきこと思い込むことが生まれてすぐに
「思う」という行動に直結していると「思います。


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『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』


   


     11月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

「KK塾」スタートは米国から、すでに大阪大学招聘教授である
濱口秀司氏の講演と私との対談、観客からの質問により、
予定時間を大幅に超える熱気の中で行われました。
講演内容は、林信行氏が、
会場から同時間のままSNSアップをしていただきました。
この実況があったためか次回参加者の申し込みが殺到しました。
したがって、ここでは私が彼との対談や観客への回答を
記述しておきたいと思います。
私からの対談テーマというか質問は、
IoTの今後、特に人工知能の可能性でした。
私は彼のプレゼンテーション映像や彼が認知している、
特に彼は「Bias的手法での成功例」や、
阪大親友・石黒教授との合作である2体のロボット会話、
その会話に、人間が加わるだけで、
2体ロボットには、全く人工知能化はいらないことを説明。
そこで、私の持論となりつつある「人工知能無理説」、
つまり、DNAと神経がロボットに実装されない限り無理を
人工心臓デザインの実際や、エボラ出欠熱がRNA破壊など
そうした実例での人工知能の無理説、無謀論を述べました。
人間細胞を決定している遺伝子=DNAはすでに解釈されていますが、
DNAを制御しているRNAを破壊するエボラ出血熱は
ほとんど医療治療は不可能です。
これは100億人を地球環境がとても支えられないことへの
自然淘汰なのかもしれません。
濱口氏の回答は明解でした。
ともかく仕事としての問題があれば最適解を必ず出しますという姿勢。
これこそ、私がデザインを学術性と芸術性を統合出来る能力者、
こうした次世代を大阪大学大学院の私の講座、
「コンシリエンスデザイン」で育成したいテクノロジストです。
そのお手本がまさに濱口秀司氏でした。
観客からの質問は二つに集約できました。
濱口氏は「ともかく練習・訓練が必須」でありその方法論紹介でした。
そして、私にも向けられた質問は、
自分の提案が拒否された場合は?でした。
これは私がデザイナーとしての40余年間の生き様でした。
私の提案が拒否されたなら、
「拒否する人物の社会的存在そのものを総否定する」ことです。
この意見には濱口氏も賛同をしていただきました。
理由は簡単です。
私はデザインからのイノベーション定義こそ必要と考えます。
イノベーションの提唱者であった
「社会階級論」著者・シュンペンターは、
革新ではなく、コンバイネーション(独)、
「新結合」でした。
これこそ、コンシリエンスであり、
これも18世紀の造語であり、対語であったレジリエンスを
現在の大学機構、特にデザイン系大学では
この教育が無いことです。
だからこそ、
私は「KK塾」でも一般的な認知論を開講したのです。
次回からこの講演レポートを配布します。

講演実況 by林信行氏*http://togetter.com/li/893475


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『デザインは解である』


   


     8月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザインの本来の意味として、
通常の理解である装飾性との距離感を主張してきました。
デザインと言えば、大きな誤解が薄く張り付いています。
一つがデザイン=装飾性がファッションデザインに起因し、
もう一つが機能的とかシンプル性が、さもデザイン核心という話です。
デザインはその造形によって「答」を出す実務です。
それゆえに「答」には、三つの「答」があるという深度性に及びます。
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solutionの三つの答を出すことであり
最もデザイン力が発揮されるべきは、問題解決に集約します。
私はデザインが問題解決であることから、
最も的確に説明を与えるには「解」という象形文字を例示します。
象形文字であることから角ある牛に刃物でこの文字は構成されています。
そこで解決には三つの段階が明快になってきます。
解体・解剖・溶解するなりして対象を分解することから始まります。
次にはその分解された要素を一つずつ、解釈・解説をして理解をします。
この理解によって、人は納得をして解放されるということになります。
さて、そこで問題は、答それぞれにはどこに装飾性や機能性が、
一般の理解では、デザインによる解放感は得られません。
デザインが応答的や回答的なことであれば、
論理性を欠いた機能性は説明がとても困難だと言えます。
現在のわが国の産業でのものづくりが、応答や回答ではとても、
国際的な競争力を持つことはできません。そのまま経済に反映します。
私は、問題解決によって、性能性と効能性が完備され、
ようやく機能性を確保できることを、教育・研究・開発に伝え、
デザイン実務で、人間は解放されると主張してきました。
その解放とは、「美しさ」が解答の造形であるモノとコトというのが
私のデザイン=解の結論です。


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『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』


   


     8月 18th, 2015  Posted 12:00 AM

学問・教育の領域を図解化したのはバウハウス時代が鮮明でした。
私は大学人になって以来、芸術工学という学術と芸術に、
デザイン、その実務性、職能性、デザイン学、デザイン工学を整理。
私自身は美大での産業美術学科からプロになっての経験母体と、
大阪大学大学院では、
デザイン理工学・デザイン医工学・デザイン文理学・デザイン政経学と、
四つにそれぞれの学域を設定し、なおかつ、より大きな統合化を目標。
それは、安全・安心・防災・防犯で健康と生命を囲んできました。
周縁に配置した学域も、信頼学・価値学・保健学・防衛学になりました。
そうして、学術と芸術、文科系と理科系、その統合も、
機能的統合・伝達網的統合・規模的統合・文化的統合で解釈を可能にし、
コンシリエンスデザインにて、直接的には看医工学を焦点にしました。
名古屋市立大学に芸術工学部が新設され、芸術工学研究科完成にて、
私は大阪大学大学院で、この体系化を積み上げてきたと思います。
この大きなきっかけは、March 11.2011・東日本大震災でした。
現代日本は、戦後70年であっても自虐史観とともに拉致問題を抱え、
それでも2020年のオリンピック・パラリンピックに期待がありました。
しかし、東日本大震災どころか、気候異変と感染症増大など、
本当は学術も芸術もコンシリエンスされ、しかもデザインが主体でした。
しかし、性悪説に陥った連中には、日本の問題は破壊されています。
私は、性善説がインターネットの誤ったコミュニケーションや
マスコミの商業主義で台無しになっていることへ喧嘩をしかけます。
その大前提に、学域の体系化をこれまでのプロ経験から組み立てました。
あくまでも、この学域論理に従って私は自分の活動に経緯をもたせます。
それがプロフェッショナルなデザイナーであり大学人だと思います。


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『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』


   


     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「点・線・面」はデザイナーのバイブルです。
「造形思考」はテキストです。
「点は限りなく正方形になる」と記したカンデンスキーは、
現代の液晶ピクセルを予想していたと私は確信しています。
線と曲線の関係性は、カオスに響く音楽論で、
パウルクレーは、デザイナーの教科書にしてくれました。
幅ある縦線と円形には、「ヘアーライン」という視覚補正が必要です。
オリンピックのエンブレム、そのデザインは、
盗用という極めて失礼千万な批判あるいは非難が取り憑いていて、
デザインはその平面図形の比較で「似ている、似ていない」を喧噪。
そして盗用というのは何事でしょうか。
ベルギーの劇場マークは、デザインの「応答」作品にすぎません。
東京オリンピックのエンブレムデザインは、
デザイナーの言説から「回答」作品ですから、
盗用というのは職能への大侮辱です。
釈明という失敬さをマスコミは平気で乱用していることは許せません。
ただし、私はプロとして、「ヘアーライン補正」という技能を
それぞれに解釈と解説と批評を与えてしまえば、
ベルギーの単なる劇場名と場所名の組み合わせは、
確かに、ベルヌ条約の無方式主義の著作権で訴訟をしてくる事、
それは補償金目当てでしょうか。
エンブレムデザインをマドリッド協定議定書での
商標権と対決させるのではデザインを応答作品でしかない
ベルギーデザインの幼稚さを保護しただけに過ぎません。
比して、
わが国の回答作品を商標権で護ることには正直大きな不利があります。
著作権と商標権での対立は
八百屋と魚屋のどっちがおいしいかの議論でしかないからです。
が、応答作品と回答作品では
デザインの職能倫理性は日本に正当性があります。
無念なことは、釈明会見というマスコミの姿勢はデザイナー虐めです。
「盗作」とはもっと別次元にあることは確かですが、
日本のデザイナーの正当性を私たちは護り抜くべきだと、
私は思っていますし、ベルギーの言いがかりなど無視すべきです。
そして、日本もベルギーも、バイブルそしてテキストも勉強不足と
「ヘアーライン補正」訓練不足があることは否めません。
本来、デザインは解答作品を審査委員会のたとえギルド性があっても
日本人デザイナーを著作権から護りぬくべきでしょう。
なぜなら、世界中がローカルなマークを知ったと言う話題でしかない、
つまりベルギーの応答作品が告知広報しただけのことです。
この応答と回答の対立でオリンピックは遠くなっているのは事実です。


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『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』


   


     1月 13th, 2014  Posted 12:00 AM

「技術革新=イノベーション」は大間違いだと述べてきました。
それはイノベーションを提示したシュンペンターに戻れば、
一目瞭然です。だから、わが国の解釈が歪んだのです。
たとえば、4KTVが話題になっていますが、
これは「応答商品」にすぎず、TVメーカー業界の技術進化、
そのものが誤った方向に進もうとしながらも、これを、
デザイン職能=デザイナーが是正出来ないほど企業腐敗症例です。
少なからず私の自宅のTV環境は最も先進的だと自負しますが、
これらはほとんどが東芝とSONYと海外AUDIOで構成しても、
かつて私がEIZO(液晶TV事業撤退)でのデザインには及びません。
このペーパーモデル=製品提案と商品を見比べても明らかです。
すべからくTVデザインはTV本体裏面とリモコンデザイン、
この対照化をすれば、技術革新とデザイン解決、
すなわち、応答商品=市場意識と解答商品=真の実装技術が瞭然。
私のデザインでは、放熱口などありません。
すべてアルミでの放熱効果性とコードマネージメントと、
ディスクプレーヤー造形での可搬形態づくりまで昇華しています。
無論、このリモコンを超えられるモノは未だに存在していません。
したがって、東芝最高級品の液晶TV造形・システムも、
SONYの商品を付加し、なおかつオーディオは海外高級品です。
これらをくみ上げてようやく、私なりに納得せざるをえません。
真の「技術進化」を目指すなら、まず、デザイナー造形
この造形提案を技術回答から解答を造形実現の実装技術が必要。
こうしたことの意志決定できうる経営陣の能力、
特に、「美学的解決」知識不足、いや皆無性を指摘しておきます。
多分、こうした経営者は日常的にも「見づらいTV鑑賞」でしょう。
美しい高解像度の映像と音響を知ってほしいものです。
このTVデザインを「技術進化」の踏み台にしてほしいのです。


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「デザインは問題解決!・この本質の再整理」


   


     8月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

デザイン=designare→design。
ラテン語からアングロ・サクソン語になりましたが、
この本質を伝えるには、漢字一語がその本質を表しています。
「解」文字、この一字です。
牛には角があり、それを刀で・・・ということは、
解体し解剖し、あるいは溶解します。これが第一段階です。
次に、解体して分解したものを、解釈し解説することで理解です。
これが第二段階になりますから、解説されて理解に及べば、
第三段階は、解放されることになります。
つまり、目の前にある問題・課題・話題となっていることに対して
応答し回答し、そして解決することで、人はホッとするのです。
人は、常に問題を抱え込みますが、なんとか解決してこそ、
やっと解放されることになります。
そのために、人は、問題意識となっていることを
より明解にするべく、問題点に目印=signを付けるわけです。
この目印を付ける行為=do+sign=designareと断言できます。
問題解決された応答・回答・解答はいづれも「答」です。
「答」という漢字も優れて良く完成された文字になっています。
竹冠が「合っている」ことは「箱」という文字と対照できます。
それは箱には竹で編まれた蓋が付いていることと同義なのです。
「答」は最適解でなければなりません。
デザインは、問題点を明確にしていく思考過程に目印をつけて、
その分解・解体・解剖・溶解をすることで、
なんとか解釈をつけ、解説をすることで、理解を促します。
充分に理解できれば、人は解放されて人心地をつけられるのです。
私が、designが問題解決のための思考をめぐらしていくには、
具体的にはスケッチを描く=do+signを思考工程にしています。
たまたま、その目印が装飾的に見えるからこそ、
一般的には安易にデザインは装飾だと思い込んでいるのでしょう。
しかし、「解」・「答」という漢字とdesignareまでを
問題解決の思考に配置していけば、本当に「明確」な、
designの本質にたどり着けるものと確信しています。


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「リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う」


   


     5月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

現在、出版界は相当に難しい時代になったようです。
自分のインタビューが掲載されています。
だからというわけでは無いのです。
が、この著作「リアル・アノニマスデザイン」は労作です。
私もこの本の企画の人たちから、ホテルで質問を受けました。
企画者は、次世代のデザイン評論では定評があった人物。
そして、幾度か、校正もさせていただきました。
無論、私の独断は、「発言すれば問題発言、という風潮」には、
きわめて正直にプロとしての受け答えをしています。
私なら、そこまで言うかもしれないということも重々承知です。
そしてあれからの編集時間を思うと、
これだけの専門家、それも次世代、次・次世代ですから、
デザイン・都市・建築・メディアの担い手に、
恩師であった柳宗理氏の「アノニマス」をキーワードにして、
専門家、それぞれの解釈が述べられています。
私などは、インタビューされた最長老の中に入るでしょう。
編集ではきっと気を遣われたのではと思います。
「アノニマス」無名性、あるいは匿名性です。
「ヴァナキュラー」土着的な全く無名性との関わりを同世代、
ある建築家の意見も真っ当でした。
デザイナーや建築家にとって、それぞれの活動、
その成果としての製品・商品、作品にとってはその存在性では、
作り手の社会的な位置を確認するには、
誰もが悩む大きな問題だと私は思っています。
私は、金沢美術工芸大学入学直後に、
柳宗理先生にはこのキーワードは強調された体験があります。
それ以後も数回、「アノニマス」については、
自分でも記述したり、インタビューを受けたり、
「自分が考えるアノニマスデザインのモノ」を提示しました。
だから、私には明確に自分とアノニマスの関係では、
すっかり整理がついています。
それどころか、アノニマスを強調する脆弱さとその反発力も、
理解し終わっている課題にすぎません。
ところが、次世代の専門家の様々な解釈を読めば、
もう一度、「アノニマス」とデザインの関係について、
私の再洞察を要求されました。
再考を教示されるということが、私は「労作」ゆえに、
新たな課題、問題を与えられたと判断したことになります。
この著作の冒頭には、
まだ歩いていた頃の自分の写真が掲載されていました。
それを眺めると、私はもはや、
この世界に二度やってきているという印象があります。
「アノニマスデザイン」はこれからもおそらく、
職能家の社会的な存在性に深く関与していくと思います。


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「『MAKERS』の正しい受け止め方」


   


     5月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

「資本」の解釈を決して誤ってはいけません。
自然資本主義という認識を鵜呑みにしないことを
私はプロのデザイナーとして、大学人として記載しました。
そして、ここまでをもう一度書き残します。
「MAKERS」という現代流行の読み方です。
この本に多くの人が騙されています。
オバマ大統領の演説にまで出てくれば、なおさらです。
やはり米国の民主党では政治は無理だと断言しておきます。
彼がこの著作で語られた具体的な3Dプリンターで、
「産業は決して革新されません」。
案の上今、光造形データを3Dプリンターでの具体化を見ています。
大統領は、米国中西部・オハイオ州のブルーカラーからの
「票集め」の戦略だと考えておくべきです。
そして、彼の演説にまで登場したわけですから、
英国での政策評論などは踊らされています。
日本には、もともとの光造形発明があったわけです。
勘違いしている国外国家政策を傍観しながら、
「わが国独自の未来づくり」を地道に創成すればいいのです。
先般、NHK批判を私はブログで記載しました。
想像以上の人たちが、この番組をまったく信じていませんでした。
私はあらためて、日本人のバランス感覚と正当な知識判断を
心から敬愛します。
ずばり、言い切れば、「MAKERS」を下敷きにします。
そして、次のことを提示します。
● 3Dプリンターのデメリットが光造形のメリットだろうか?
● 光造形のデメリットが3Dプリンターのメリットだろうか?
この最も具体的なデザインとその造形をいずれ提示します。
そうすれば、おそらく、このメリットに未来への革新があります。
光造形にしろ、3Dプリンターにしろ、
基本的には「精度はまず求めません、特に廉価シリーズは」。
ただし、高額商品なら「精度と仕上がり、さらに造形素材質」は、
当然に必要です。
とりわけ、小玉博士発明の光造形の進化は、
日本のナノテクノロジーでは、進化の真実を歩んできています。
私は現在、3Dプリンターで「MAKERS」に刺激されて、
そこの未来を想像するならば、
わが国独特の手法と実務を、欧米に惑わされずに、
正当な進化を「これからの革新」のための要素にするべき、と、
考える次第です。


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