kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘かわいい’


12月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 19th, 2011  Posted 7:15 PM

12月19日 戊申(大安)

どこかで技術とデザインへの
不安感から癒されたいと
思う若者の感性が
「かわいい!モノ」に
飢えていくことは当然である。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』1 クピトが放とうとした矢


目次を見る

「問題解決なのに「応答」商品の氾濫」


   


     12月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本のデザインは方向を間違っています。
誰かが指摘しておかなければならないでしょう。
私は、「応答商品」が氾濫し過ぎていると思います。
デザインは問題解決の手法です。
そして、問題には三つの種類があります。
話題・課題・問題です。
だからそれぞれに「答」がありますが、
これも三種類の答があることを認識すべきです。
話題に対しては「応答」
課題に対しては「回答」があります。
もちろん、話題に対する答としてのデザインは、
造形として、かわいいデザインであったり、
その商品存在が話題になるべき流行やファッション性、
これは不可欠のことです。
社会的な課題になっていることの「回答」商品も必要です。
そして、元来、根本、極めつけは、
何が問題であるかを見つけ出し、その解決「解答商品」が最も重要です。
どこか日本のモノづくりが歪み出しているのは、
「解答商品」を新商品で見かけることが少なくなってきました。
まだ、課題に対して「回答商品」ならば、
国際的な競争力があります。
しかし、ともかく社会的な「話題」だけを追い求め、
あたかも共時性があると錯覚している商品は、
「応答商品」にすぎません。
そのような商品づくり・モノづくりは、
頭脳集約産業の「答」商品ではないことを確認しておくべきです。
どの分野のどの領域かは明言できますが、
まずは、「応答商品」を話題にしている産業は、
確実に国際的競争力を喪失するのです。
私は自分が「買う」と判断するときには、
必ず「問題解決」を果たしているモノを選びます。
日本の再生として、ともかく「問題解決」がデザインであり、
その答としての「解答商品」づくりに
集中させなければならないと考えます。

目次を見る

「『きれい』にすることが『美しい』こと」


   


     5月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

美しいかたちのデザイン。
私の職能デザイナーの大命題です。
かたち=形式・形体・形態です。
このところ製品開発から商品化まで、
やっとたどり着いた商品のかたちは、
美しくあってほしいと願いを込めてきました。
もう40年も「かたち」にこだわってきました。
そして美しいということは本当に難しいことだと悩んできました。
そこで、私の方法論は、まず、「きれい」かどうかです。
サングラスは、顔の表情をさらに綺麗にしてくれるモノだろうか。
キーボードは、打鍵している指先やユーザーにとって、
本当に、大げさに言えば「働きがい」から「生きがい」、
その周辺に存在しているかたちになっているかどうかです。
いつも説明してきたのは、「きれい」と「美しい」には
ある隔たり・近さの概念が明確に横たわっているのです。
「きれい」は形容動詞ですが、
「美しい」は形容詞です。
これを距離感覚、近さという概念で検証し直してみることです。
まず、「きれい」にしないと「美しく」はなりません。
だからまず「きれい」なサングラスを創ります。
最近は「かわいい」という形容動詞が氾濫していますが、
私はあくまでも「きれい」なサングラスです。
具体的には、いくつかの目標を立てて、
目的である顔の表情はもちろん愛用してもらえるかたちです。
キーボードは素材開発が叶った時に、
素材の鏡面がすでに綺麗でした。
問題はここから実装です。
実装という日本語そのものが美しいことばです。
米国で私はConfiguration Layoutと言っていました。
筐体や機構設計では、Configurationになり、
回路設計や回路配置では、Layoutでしたから、
Configuration Layoutがデザインの主目標と説得していました。
さらに綺麗であることの基本は清潔であることです。
キーボードはそのまま、衛生的な清潔性を実現できました。
「きれい」の基本は掃除をすることです。
それこそ、女性が綺麗になるためにお肌の手入れということです。
ところで、「かたち」ということばから、
私は「いのち」・「きもち」・「ここち」の「ち」、
この語源から、さらに拡大することばに注視し集めてきました。
「まち」=町・街や「とち」=土地などがあります。
ともかく、今回の被災地は片付けや掃除や除染をして、
「きれい」にすることから始めなければなりません。
新しい「まち」を「きれい」にしてから、
それが必ず「美しいまちづくり」になるはずです。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


   


     5月 25th, 2010  Posted 12:01 AM

モノ価値
モノ=人工物質を私は意味しています。
が、このモノは製品もしくは商品です。
そしてこの製品価値・商品価値は、「形容」されること、
あるいは価値の形容というのは現代性の社会観、
その価値付けが最も重大になってきています。

かわいい
たとえるなら、「かわいい」という価値感があります。
私は「かわいい」というのは価値観にはまだ至っていない、
この認識が明確にあります。
つまり、「かわいいモノ」と「モノのかわいさ」が、
そのまま商取引・資本投下での投資効果になるわけです。
この投資効果こそ、経済活動の活性度になっています。
この活性度が、資本主義経済の現代性になっています。
特に、先進国家や自由資本主義経済体制が整備された市場では
顕著な価値感覚になっています。
まず、「かわいいモノ」というのは、
物欲に対して「好き」という感覚のある意味では、
直感的であり、幼稚さや、所有感覚の素直さに連動しています。
それに対して、
「モノのかわいさ」というのは、
そのモノと自分との対照性を顕示する物欲になっています。
そのモノを所有することで、
所有者自身にかわいさを反映・反射させることに連動しています。
あらためて、その「かわいい」という形容価値には、
モノ価値論を、「形容」という付加性があるということになります。
そこで、もう一つの「形容」をあげておきます。

品
それは「品のいいモノ」と「モノの品性の良さ」です。
これもほとんど、「かわいい」と「品」が、モノに対しての関わり方、
構造性につながっていることは明らかです。
この構造性こそ、デザインの本質につながっています。
そして、私がデザイナーとして目指すべきは、
「品」・「品格」ある品質を「形容」できるモノのデザイン。
デザイン設計による「品のあるモノ」・「モノの品格」です。
無論、「かわいい」という形容にも、
「品性」があることは充分に理解し容認する姿勢です。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・2」


   


     5月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

形容
「容」。
かたち、としたのは立原正秋でした。
彼の文体は、まさに形体でした。
形体とは、立方体や四角錐といった規定ある形態です。
したがって、文体は、作者の規定という思念定義があるのです。
立原作品には、女性・庭・能・作庭・樹木・陶磁器・刀剣などへの造詣、
彼のの著作深度は、学者以上であったと思っています。
私が、樹木や作庭については、幼心に祖父の一言一言があり、
陶磁器・刀剣は、父に連れられていった道具商の市でした。
しかし、当時私はそうしたモノは傍観していただけです。
「きれいだな」と思う程度でした。
それから、美大を出てようやく気づきました。
伝統工芸の産地と先祖の書き残してあった図面で、
私は、これらのモノと日本人について考えることになったのです。
それは年齢とともに、蓄積されてきた知識や感受性に深みが
やっと出てくれたのだと思いたいわけです。

綺麗
そして、ひとまず、日本的そうしたモノが「きれいだ」と思うこと。
この「きれい」という言葉と「美しい」との距離感に私が放置されたのです。
それは絶対に一直線上にあるものではないということです。
なぜならば、
● きれい・・・形容動詞
● 美しい・・・・形容詞
すでに、言葉の領域、その次元がいわば異次元だということです。
しかし、たとえば女性たちが望む「きれいになりたい」欲望は、
「きれい」になることから「うつくしい」、
あるいは「かわいい」次元に
ワープ=超光速航法を切望するということです。
はかない夢想だと、私は思います。無論大切なことですが。

トランスレート
むしろ、「綺麗」から「美」へトランスレートすることが論理性があります。
なぜなら、綺麗という形容動詞はネットワーク層があるのです。
ところが、その層からトランスレートすれば、
「綺麗になる・綺麗にする」動作の蓄積が
「美」という層へ運びこんでくれるでしょう。
「形容動詞が形容詞になる=綺麗が美になる」述語解です。
私のこのまなざしでは、決して、日本の伝統ですら、
「綺麗」なモノやコトで終わっているのは、
「美しい」とは言い切れません。
Media Integrationへは、形容動詞から形容詞として、
「形容」の世界観を、私はめざしたいと考えています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”かわいい”という印象を引き込む危険性・2」


   


     4月 12th, 2010  Posted 12:01 AM

kawaii
「かわいい」という日本語はすでにkawaiiという世界語。
kawaiiは、日本文化として世界の若者に発信できる文化語です。
私はこれは素晴らしいことだと評価してます。
しかし、「かわいい」を
designしかもappropriationに結びつけることに意義があります。
まず、「かわいい」の意味を吟味しておくべきでしょう。
「か」という接頭語は「蚊」という生物名からも、「小ささ」を表します。
「川」すら、小さな「水分や渦」+わ「和」=大きさです。
幼さや小さなものへのいとしさが形容詞になっていることです。
愛らしさや愛らしいこと、愛情をもって大切にしたり、
殊勝さから、労しさ、痛々しさなど不憫さや可哀想だ
という形容動詞にまで連続している感情用語だということです。
この感情用語であることに、
まず、評価言葉としての不安定さを認めておくべきだと思います。
なぜならば、感情用語というのは、
感性を陰陽学でいうところの「陰」の世界観があるからです。
感情を単純に言い直すと、
「感性にドロドロとした汚れが流れ込んでくる現象」という解釈があります。
感情がきわまるというのは心が哀しみや怒りという理性では
留めようもないことが流れ込んでいっぱいになることです。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しい」という、
ジェームス・ラング説があります。
不気味の谷・論
だから、「かわいい」という愛しさと悲しみには
連鎖性が心理的にあるということです。
ロボット表情学として、私の学生が修士論文で分析した、
「笑っている表情」、
その分析には、「怒りから悲しみ」が見事に分析され、
いわゆる、ロボット学での「不気味の谷論」をさらに詳細化しました。
私は、「かわいい、かわゆーい」というモノを所有する意識根底には、
「自分顕示」の置換性、転用性が起こります。
さて、私はこのことを非難しているわけではありません。
本質論としてのアブダクション的なデザイン面を語り切る論理が、
この「かわいい」から「きれい(形容動詞)」、
そして「美しい」へという手続きを明確にしたいからです。
ところが、この手続きやアブダクション性を転用するのに、
「盗用性」が加われば、これはさらに強化されることは明白です。
この「盗用的表現」+「かわいい」=欲望の刺激強化です。
そのことを私は指摘しておきたいと考えます。

無論のこと、私自身、キティちゃんからドラエもんまで、
「かわいい」と言われるアイコン性は、
日常への愛しさの反射対照性として容認し、
かつ、私自身がまず大好きです。
しかし、プロのデザイナーとして、
どこまで「かわいい」と「盗用と思われる表現」、
その隔絶性と融合性の線引きは、職能義務と考えています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「*準から外れ始めた日本のデザイン解*」


   


     3月 13th, 2010  Posted 1:20 AM

最適解
一般解と特殊解がデザイン応答・回答・解答にはあります。
デザイン解というのは、一般解であれ特殊解であれ、
「最適解」を求めなければ、それはデザイン解ではありません。
私もすでに40年もデザインと向き合ってきて、
常に、それこそ1日たりとも「デザイン」が体中にあります。
血液にデザインが入っているという感覚に襲われます。
準
水面に風が吹けば、波立ちます。
その波立ちが大きく揺れているのがまったく穏やかになる、
それを「準」と言うそうです。
基準・水準・標準
基準・水準・標準がその準の状態を定義しています。
そこで、私は「準解」という言葉を自作して、
「最適解」はこの「準解」、
三つのどれなのかと再考することにしています。
「最適解」は、基準解・水準界・標準解になっているだろうか、
自分に突きつけるのです。
● 基準解というのは、もうこれで基準=basisは成果だろうか。
● 水準解は、たとえ特殊解でもaverage /levelは保っているだろうか。
● 標準界は、とりわけ一般解では、これがstandardだろうか。
特殊解なら、必ず標準解として一般解へと展開してくれるだろうか。
こうしたことを考えぬいています。
ところが、最近の日本のデザインには「最適解」がありません。
デザイン解が「かわいい」とか「きれい」とかだけに、
寄りかかっていたり、単なるパロディやギャグは、
ガジェットだからそれでいい、なんていうことが目立っています。
これを「デザインの多様性」だということは大間違いです。
だから、日本のデザイン、その質が低下してきたのです。
経験を積んできたデザイナーとして、
警告をしておかなければなりません。
デザインの本質=最適解
デザインの本質=問題解決の解答=最適解は、
本当に「難問中の難問」を解いていく作業であり、手続きです。
頭脳、頭の中に汗をいっぱいかくほどの作業です。
だから、川崎和男のデザインは好きになれないとも言われます。
それは、形態の好き嫌いはあるでしょう。
好き・嫌いでの判断は第一段階であり、
自分の価値観に、最適解を判断力を欠如している疾病があるのです。
多分、数理的判断が大欠落していると最近は診断しています。
最適解には、「清潔」・「簡素」・「簡潔」・「明快」・「快適」が
ふさわしいと思っています。
かわいくても不潔であり、
きれいでも不明感があり、
かっこよくても、「不快感」があるデザインが増えています。 


目次を見る