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Posts Tagged ‘商品価値’


『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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『デジタルペンは効能性の再考である』


   


     5月 23rd, 2015  Posted 12:10 AM

iPad画面と身体性=手の感覚は、絶対にトレーニングが必要です。
と同時に私はデジタルペンにも、「慣れる」という感覚も
それなりに取り組んできたと思っています。
しかも、デジタルペンも初期に競べれば、まあまあ万年筆程度ですが
とても万年筆と同等のモノはありませんが進歩しています。
ただし、この進歩はデジタルでのモノ仕上げ観の限界でしょう。
だからこそデジタルそのモノの限界性を露わにしていると考えます。
この二種のデジタルペンは、共に、専用のノートが必要であり、
Padとの関係でもアプリのアルゴリズム性とプログラムが必須です。
これこそ、デジタルには、専用性とプログラム性がいるのです。
デジタルの人間との相性が求められているというわけです。
端的に断言すれば、不必要性をすでに表しているということです。
デジタルの効能性が試されているということに注視すべきです。
それこそ、Apple Watchやドローンなども、
デジタル性能以上に、
効能性=存在価値そのものが求められていることを証明しています。
つまり、デジタル性とは、まず、効能性そのものが
人間生活との存在価値性になっているということです。
おそらく、この製品は商品価値そのものが限定され、
不必要性と格闘しない限り、社会的な価値性が問われるということです。
したがって、私はこれらの存在価値性をなんとか見い出すべきです。
つまり、デジタルモノの効能は性能以上に重要だということなります。
おそらく、これらのペンの未来はほとんど無いと断言すら出来ます。
しかし、私にとって重要なこと、いや、デザイナーにとって、
デジタルの言語性をデザインしていく必要条件を再考するには
こうしたデジタルペンのあるべき存在性を生み出すことだと思います。


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『忘れるなかれ、デザインは正面にあらず』


   


     7月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

このテーマは二度目ですが、もう一度書かざるをえません。
最近の4Kテレビ、そのデザインを確認していても、
正直、デザインの力量不足甚だしく低いと評価します。
4Kテレビの実装性では、液晶フレームがほとんど無くなるほど、
狭額縁液晶ディバイスになりましたし、省電力性も向上しました。
それならば発熱性解除という問題には、デザイナーの発想が
とても魅力的な問題解決が叶ったはずですが、
テレビ背面デザインは全く進化していないようです。
私は発熱性の低減には、技術より造形言語=デザイン意図を深く、
込めて、素材選定や発熱拡散により、内部実装を守れるはずです。
しかし、そうした創意工夫が無いことに落胆し、再度記述します。
私のデザインでは、正面性と同等に背面スタイリングでの
性能性を重視し、放熱口を皆無にするために全面をアルミ素材とし
コードマネージメント=各種コード接続のカバーは、
プラスチック重量で、万一の落下にも対処するデザインをしました。
アルミ素材で発熱を空気接触のみで発熱防止拡散をしています。
背面には唯一、リモートコントロール収納だけを残しました。
性能性補完をデザインで支持し、結局、その造形言語は、
形態言語として、背面の存在性=効能性も確立しました。
おそらく、未だに背面では、発熱性・防音性・コード処理だけが
機能性であり、この形態言語が商品の価値性を決定しています。
私にとってもこのデザイン言語=造形言語と形態言語こそ、
自分の造形力を技術基盤にしたものと今でも自負出来るものです。
私自身、テレビやモニターデザインの経験がありますから、
その視点=どこからどこを視ているかは明確に商品価値が分かります。
だからこそ、敢えて、現状のテレビは背面ですら進化していなくて、
単なる狭額縁やスタンド設計をデザインと呼ぶことは不可能です。
あらためて正面性も額縁デザインから解放されるべきであり、
再度、背面デザインを進歩させるべきと提案しておきます。

『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』


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「たとえ『市松模様でも』デザイン戦略の妙技」


   


     5月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

これは単純には市松模様にすぎません。
しかし、著名ブランドがしたたかに商品シリーズに加えると、
それですっかりそのブランドの決定的な商品価値、
いや記号価値になってしまいます。
私自身もこのブランドのこの記号価値を日常に取り込んで、
どこまで自分のアイデンティティと重ねられるのだろう、と、
取り組んで使ってみています。
もちろん、それは弱点も少なからずありますが、
現代の流行現象に覆い被さっていて、
元来は「市松模様」であったことが、
すっかりこのメーカーのオリジナリティに変化しつつあります。
しかし、日本刺繍での「市松模様」とは
明確な違いには至っていません。
私の祖母は日本刺繍を教えていました。
刺繍というのは世界各国にありますが、その国独自の手法です。
その手法は、中東・アジア・オセアニアに根付いたモノです。
とりわけ、わが国は自然界と幾何学系に独特の図柄があります。
祖母が残してくれたとても分厚い見本帳が見つかりません。
ほとんどが私の記憶の中にあります。
したがって、刺繍のそれも幾何学模様で、
「市松模様」には常に注目をしてきました。
そしてこの市松模様が、
実は現代テクノロジーで見事に開花したのです。
それはコンピュータ・モニターの液晶での
ピクセルであり、2009年には英国でついには、
「Bits from Bytes」で、これは点から線になりました。
私が、光造形で発見した、
「点(ピクセル)はやがて正方形に至る」というのは、
実際上は、この「市松模様」だったわけです。
私がこの模様をデザインで現代に持ち込んだのは、
一人のインテリアデザイナー、デザインチームと、
このブランドだったと思ってます。
このブランドのシリーズを日常化のモノに適用するたびに、
次世代にもこの「模様」そのものが、
新技術・新素材・新記号になると思っています。


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「商品価値の読み違いだった」


   


     11月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

英国作家のアーサー・ヘイリーの代表作に「自動車」があります。
1971年の超大作と言ってもいいでしょう。
この本は、まさに「自動車」が主人公であり、
当時の自動車産業界が
「商品としての自動車」をどのようにみていたのだろうか、
そのことが克明に描かれています。
はっきりと言えば、アーサー・ヘイリーは、
「商品価値」としての自動車を語り過ぎていて、
少なからず、特に米国の自動車産業が、
次の情報化社会から情報社会で変革されてしまうことに、
全く気づいていませんでした。
まさに70年代、
米国が日本の自動車をどれほど
見下していたかということが歴然と描かれています。
「竹と紙でできた住居そのままの自動車なんぞ」
という表現に象徴されているわけです。
ところが、この出版からすぐに日本の自動車産業は、
米国自動車産業界との「貿易摩擦」にまで追い込み、
経済的な戦争が開始されました。
それは、小型車が圧倒的な性能によってその商品性を高め、
欧州車であっても、
小型自動車や排出規制での性能合戦に
「商品価値戦争」へと巻き込んでいきます。
そして、
自動車産業は未だにこの「商品性」に縛られたままだと言っておきます。
ところが、ユーザーの消費行動は、
確実に「記号的存在としての自動車」に特に所有感を置いています。
ハイブリッド車はそのまま、
地球環境をことのほか大事に考えているという「記号としての自動車」
まさに記号選択を明言しています。
米国の子どもたちの
自動車の絵が変貌してしまったことが報告されています。
彼らは今すでに、
「自動車のかたちは三角形のおむすびに四輪がついている」のです。
すなわち、子どもたちにとって車の記号は、
すでにハイブリッドカーである
「プリウスのかたち=形態言語」になってしまったのです。
したがって、アーサー・ヘイリーのその他の作品においても、
記号論的な意識レベルがありながらも、
消費社会の題材は、
未だにかつての社会的な価値論に呪縛されています。
それは
まさに、わが国の産業経済でのリーダーたちの意識レベルそのままだと
断言しておきます。
「商品というモノはすでに存在していません」
「記号=コードとモード」から
産業的な経済効果に私たちは取り囲まれていることを熟知すべきなのです。


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「世界の伝統工芸技術を取り込むブランド姿勢」


   


     9月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

ちょうど私自身が伝統工芸に取り組み出した頃、
このブランドはアフリカのゴム素材、
その伝統的な工芸技法を取り入れて商品化しました。
1980年代の話ですし、その時の「商品」です。
それには三つの理由がありました。
2050年以後の地球環境の大異変をすでに予測していました。
だから、この時代から「環境産業への投資」、
そして「特許権獲得」を開始していたブランドです。
それは、このブランドの最も得意とする動物皮革が枯渇し、
かつ皮革表面が当時から品質低下が起こり始めていました。
ところが、動物皮革以外の天然素材であるゴムの研究に、
アフリカのゴム加工方法が伝統的な工芸技法として残っていました。
この技法をブランド工房で製品化を成功させました。
しかし、ゴム素材ゆえに皮革よりは低価格であり、
このブランドらしさのデザインは、
認知度アップが困難だったようです。
天然皮革と同等に天然ゴム技法の確立を目指した「商品化」でした。
それは、アフリカのあらゆる表現技法を総ざらいしていたことは確かです。
私自身、自分が伝統工芸産地への「デザイン導入手法」のために、
このブランド試行は参考になりました。
もちろん、ゴム素材と皮革やファブリックとの接着や縫製技術は、
以後の新商品に活かされています。
このとき以来、
様々な素材と動物皮革との縫製技術は格段に進化したと見てきています。
この商品のゴム素材部分は、
傷つきやすい素材ですが、その傷補修によって、
さらに使いこなしていく経年変化を留めてしまっています。
本来、皮革製品なら経年変化こそ商品価値とするものですが、
天然ゴムゆえの経年変化を停止させるというのが伝統的な工芸技法を、
このブランドは自社技術にして企業資産にしています。
ブランドとは、常に「革新的」でなければならず、
その革新性が特に、技法や技術であるなら、
その保全存続は世界各地から学び取る姿勢が必要だということです。


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「iPhoneとmemoの関係が進化し始めている」


   


     5月 21st, 2012  Posted 12:00 AM

多分生涯、メモ帳と自分の関係は変化の連続でしょう。
メモ帳はどれだけ様々なモノを使ってきたことでしょうか。
最近では、iPhoneとメモ帳にある関係が生まれてきました。
とりあえずですが、
SHOT NOTEとKYBERを使い始めています。
断言できるのは、KYBERはコストパフォーマンス的には、
それほど推奨できるモノではないと思います。
Smartpenというマーカーで、メモや切り抜きを囲んで、
iPhoneに取り込むというのも試してみましたが、
私には日常的なツールにはならないでしょう。
まあまあ簡単で使えそうなのは、SHOT NOTEでしょう。
そして、私にとって重要なのは、
その時に使うボールペンです。
それは私のコレクションの中では
カルティエ「パラジウムフィニッシュ・ブルーレジンカボション」です。
結局、ボールペンのペン軸は、純正よりも国内のあるメーカーが、
そのインクが最も優れています。
SHOT NOTEという商品化に対して、
このボールペンについては、
現代の「商品価値・価値商品」を見つめ直す
一つの重要なモチーフだと考えつつ、
iPhoneで変化するであろうmemoがまた変貌していくことでしょう。


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「日本のモノづくりが構築すべきこと」


   


     5月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

私は夏には、時計ベルトは革製は避けます。
最も軽い時計からいわゆるブランド時計を前にすると、
3000円から100数十万円という商品価値のある時計たちですが、
最も、性能・機能が優れているのは、
G-SHOCKとルイ・ヴィトンになります。
G-SHOCK(赤)は、ソーラーで電波時計ですが、
ルイ・ヴィトンの丁度10分の1の価格です。
G-SHOCKはすでにブランドは確立していますが何かが欠落、
いわば、昨夜の「消えるボールペン」と同位の価値商品。
時計とは「目に見えない時刻」を測定と告知してくれる機器です。
企業の経営戦略論では決まって、
「ブランド構築論」が最も重大な経営論として流行しています。
しかし、わが国の企業全体に「ブランド」=商品存在価値=市価、
この図式はまったく未完成と言わなければならないでしょう。
ソーラーで電波時計の正確さは、「時計の最大重要事」です。
にもかかわらず、機械式であることが存在価値としていることは、
「物語り性」と「出自系譜の信頼性」に他なりません。
G-SHOCKはもっと高価にする戦略があるべきです。
私なりには、それぞれの時計を手に入れてきた自分史がありますし、
それぞれの時計の「物語りと自己証明」の演出道具にしています。
だから、夏は金属ベルトやシリコンベルト、プラスチックが
効能性を持っているのです。
人間が身体に装着するのは、時計・眼鏡・指輪などであり、
こうした小道具に自分の自己存在を投影することになります。
その演出性は、海外ブランド力が支援してくれるということです。
ファッションであり、モードであり、
フォーマルなのか、カジュアルなのかも時計一つが、
私を代弁してくれるのです。
私は、時計に限らず、日常生活を支えてくれているモノ、
そのモノの体系には、必ず「効能」としての、
「物語り性」と「存在の証明性」を、
作り手側に、それは「焼き印・刻印」としてのブランドが、
商品価値と価値商品を相補的に「語っている」のです。
そのしたたかな智恵・戦略が、
わが国に今最大に欠落していると言っておきます。


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「消える?という精美さ・日本のモノづくり」


   


     5月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

先般も評価しました。
わが国の文房具、そのモノづくりは最高です。
この「消えるボールペン」という発想と商品化は、
日本人のモノづくりゆえの繊細さと気配りが、
とても行き届いていることを証明しています。
日本の筆記具は西洋的な影響の中で進化してきました。
つまり、西洋は「指先より硬いこと」=スティルスが
原型=STYLEになっています。
しかし、東洋は「指先より柔らかいこと」=筆形式です。
まさにボールペンの発明は、
万年筆を超えた物だったと言っていいでしょう。
そして、万年筆にしてもボールペンにしても、
そのインクは消えること無くペン方式だけが進化。
それを日本人は「消す」という形式を付加したわけです。
文房具の中でもインクは、
地方でも優れたインクが開発されているというわが国です。
このことはマニアなら熟知していると思いますが、
私はこの「消えるボールペン」は、
世界の筆記具の歴史を覆す事件だとさえ思います。
そして、問題はここに潜んでいます。
たかだかボールペンですから、
その市価は限定されて安価なままです。
もっと商品価値を高めていく戦略が欠落しているのです。
4色の消えるボールペンを見つめながら、
私はしみじみと考え込んでしまいます。
このボールペンをタキシードの胸ポケットには入れられません。
ボールペンと言っても、
ブランドモノなら数十万円の物もある商品価値世界です。
私は改めてこれからの日本のモノづくり=商品価値づくりに、
この商品価値世界判断づくりが必要だと考えます。
たかが「消えるボールペン」の価値幅をされど拡大するべきでしょう。
ボールペンに限らず、
日本のこうした詳細で緻密で精美なモノづくりを
再考する時期にきていると判断しています。

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「プラチナ・ミラーリングのティーカップ」


   


     3月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

有田焼はこの2年研究をしてきました。
それは日本の陶磁器産地、その現状をしっかりと確認したことになります。
コーヒーカップの製品化を、
今度はティーカップにも新たな展開デザインを試みた結果、
Platinum Morphological Reflectionという手法で、
基本的な3パターンを押さえました。
ドット・ストライプ・チェックというグラフィックです。
そして、PMRはAnamorphosis的にどこまで可能かを追い求めました。
コーヒーカップもソーサーのグラフィックが
ミラーリング的に反射効果をしますが、
ティーカップは、曲面や曲率から、
正当な反射になるようにするためには実験をしました。
結果、デザイン設計として産地にグラフィックも提供し、
その基本となる釉薬から焼成での平滑度を
製陶工程に組み込むことがやっと出来ました。
講演前夜にその確認をするということになりましたが、
もし、私なりの評価が私の基準に達しなければ、
産地側にも決断をしなければと思っていましたが、
デザイン仕様どおりにモデルは完成していました。
そこで、詳細な工程も含めて講演内容に、
PMR-Methodの話を盛り込むことが出来ました。
その夜はうれしくてうれしくてたまりませんでした。
しかも宿泊したのが「嬉野温泉」でした。
まさしく地名どおりに
「お湯につかれてウレシーノ」を実感した次第です。
有田と伊万里は磁器産地であり、唐津は陶器産地です。
三つの産地の現在の商品価値は、国内外と比較して見てきました。
これは今後、
日本の陶磁器産地すべてに共通する問題を私なりに提案し、
なおかつ国内各産地毎の解決を求めたいと思っています
CGで見ていただければ納得してもらえると思いますが、
多分、この手法を模倣することは困難です。
そして、
陶磁器業界も模倣を繰り返すことで発展してきたはずですが、
私の判断評価は、
この400年ほど「陶磁器産業の高密度化」は停止していたと思います。
絶対に「革新」がかなった商品開発ができたと自負しています。
まだ次々と革新的な手法を国内、特に有田から出発させる覚悟です。

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