7月 16th, 2010 Posted 12:00 AM
レトリックとしてブルバキ
私が最後に開発し商品化し、
東芝での決定的な製品開発成果は、イコライザーアンプでした。
SZ-1000です。今なお、オーディオマニアには「語られるアンプ」です。
ヤフーのオークションでは使うこともできないのに取り引きされています。
そして、初めてデザイン系の専門誌にこの開発背景を書きました。
その背景に、当時、本当に思いきって、「ブルバキ」に触れました。
以後、私が飛び込んでいく世界観とデザインの学際性の基盤になっています。
しかし、ブルバキという集団が成し遂げたことは今ではそれほどでもなく思い出にすぎません。
けれども、若い頃夢中になったことの「意義」は大事であり、
生涯を決定づけているということでは、
私にとって、マルクスに傾倒しなかった「論理」があったことは確かです。
悲しいかな、同世代が70年代学園闘争に走り、
その挫折を今頃、権威主義を隠避しているのを見ると、
没落する日本はわが世代の責任と思います。
さて、「美しい花、花の美しさというものはない」を前回例示しました。
用語を取り替えれば、この入れ替えは一つの言い方にはなりますが、
これはもっとも近代において峻別されているレトリックにすぎず、
最も低能な表現手法を自己表現しているにすぎません。
この構造を多用する職能は建築家が多いようです。当然なことです。
しかし、彼らの手法には、ほとんどが対クライアントに対して、
「一品制作」であるために有効性を高度にしなければなりません。
その意味では相当のレトリック能力が求められます。
そのレトリックを使いこなす職能家として「建築家」を自称できるのだと私は判断しています。
なぜなら、その論理は彼らの設計、デザインは「一品制作=特殊解」ですが、
社会性としてのコンセンサスを得るには、
特殊解を一般解とするレトリック性が必要だからです。
したがって、構造主義や記号論などでは、このレトリックが、確実な手法論になっています。
私が美大生の頃、「造形」を論理として認識していこうとするなら、
建築家の著作しかありませんでした。
無論、バウハウス時代には、建築に集中してプロダクトデザインが位置づけられていました。
そして、まったく、建築領域でブルバキの論理を見つけた経験は皆無です。
理由は、建築には「構造学」という数学的な論理があり、
それがブルバキの論理などはまったく無視することができたからだろうと推察しています。
私は、資本主義の逃走の「場」の設定に、
感傷的ですが、ブルバキにもどることにします。
それは特殊解と一般解をつなぐレトリック納得に最適ではないかと考えるからです。
そして、ブルバキから、デザインの「付加価値論」否定を行いたいと思っています。
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5月 1st, 2010 Posted 2:51 AM
スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。
歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。
デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。
求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。
しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。
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4月 7th, 2010 Posted 12:01 AM
商
殷・紀元前17世紀頃・と呼ばれた王朝の国名です。
紀元前11世紀に周王朝によって滅ぼされたといわれています。
この国の人を「商人」と呼び、
彼らが取り引きした品物を「商品」と言ったことから、
「商売」=経営となりました。
私はBusiness Modelの破綻に対して、Designにより、
美学性+倫理性=知財権を「経営仮説」=「商売仮説」とし、
二つの企業体によって、そのコラボレーションを
Business Design Modelとしました。
この図式はそのまま、現状の日本の将来に対しての経営システムです。
日本は知財権=知的頭脳集約産業としての貿易立国をめざします。
そして、この知財権には美学性+倫理性というデザインの本質を配置。
この頭脳集約での「モノづくり」は「製品化」をねらいます。
当然、「製品化」での経営仮説は収益構造を持っています。
そして、この「製品化」を「商品化」にしていくことで、
二つの経済サイクルの二重構造性を派生させていくわけです。
経営仮説は、「製品」と「商品」、それぞれが収益構造から、
その製品・商品を存在させるための社会還元化が生まれます。
この社会還元化は、二つの企業体あるいは組織体の「存在理由」を明確化、
この存在理由=アイデンティティは、
必ずしも、今流行の「ブランディングマーケット論」ではありません。
私の意図は、二つの経営仮説によっての二重のサイクル性、
すなわち、「循環論」がイノベーションであるということです。
「景気」はこのサイクル性を常に活性化できるかどうかということです。
製品化・商品化
すなわち、「製品化」と「商品化」ともに、
イノベーション=循環論が構造化されることが、
利益獲得と社会還元を、
二重サイクル化する時代になっているのが現代だということです。
あらためて、「製品」と「商品」の分担と協同が、
これからの国際的な循環論=イノベーション国際化をうながすことです。
よって、一企業体だけの独占的な利益獲得、
あるいは、国際的な企業存在性のための社会還元こそ、
国際還元として、国際間の格差性を補完することになると考えます。
「デザインが世界を革新する」という私の提言は、
このBusiness Design Modelの実践、具現化にほかなりません。
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12月 18th, 2009 Posted 10:00 AM
「生産」と「消費」の世界で、
大量生産と大衆消費の構造に私は生息していました。
私はすでに資本主義に何の疑いもためらいも無く、
大企業で社会人デザイナーとなりました。
ただ、その企業が儲けるよりも、
自分の提案デザインが、
「商品化」されることに驚喜していました。
そんな私ですら、「生産」と「消費」の構造の中で、
「デザインは付加価値」ということに対して
やり切れない憤りがありました。
もっと賢明なデザイナーとしての発言力を持ちたい、
その想いをぶつけたのが、
構造主義、記号論、マルクスの形態価値論に出会います。
ミシェル・フーコーに出会います。
ジャン・ボードリヤール
の批判に、「かたち」で、
この思想と対決したい。
ソシュールやモーリス・メルロー=ポンティ、デリダ、のとめどなく
深い思考の森の中に入っていきました。
この森の中でも、せっせと「モノのデザイン」は、
決して、「付加価値を生み出しているのでは無い」という
直感を信じていました。
おそらく、私にその啓示がめぐってきたのは、
「言葉と物」、「物の体系」をはじめとするどこかで、
マルクス臭のある論策でした。
結果、
結論は、「デザインは付加価値では無い」ということ。
「デザインは全体価値」、
だから、
であったデザインをどう解放し、
その証拠立てをしていくことだったと思い返しています。
point of contactという「生産」と「消費」の結合点に、
デザインを配置し直そうとしましたが、
すでに、時代は、「生産」して「消費」することが、
どれほど、今度は私たち自身の「存続」、
地球環境の破壊が私たちを取り囲んでしまったわけです。
それでも
●「欲望」あるいは「フェティシズム」は、誘惑的です。
●「希望」あるいは「ダンディズム」は、魅力的です。
そうした私が障がい者になって、思い知らされたことは、
「喜怒哀楽」でした。
には、「医学」と「デザイン」によって、
「生」と「死」を
根底から見つめ直すことでした。
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