kazuo kawasaki's official blog

『資本主義からの逃走』
  「貨幣価値の再確認は、ちょっとうれしい」


   


     12月 11th, 2009  Posted 10:00 AM

私は、28歳で車倚子。
入院中に、お札やコインのデザインが変わったのです。
だからまったくお札のデザインでの価値判断不能です。
それで、それから30代になってから500円硬貨を見て、
なんだかとてもうれしかったのです。
幸か不幸か、
私はまったくお金を持ち歩いたことがありません。
世間離れ甚だしいと思います。

ところが、
金銭感覚というより財務感覚では、
「企業や産地や行政」の収支決済と市場性について
デザイナーとしての予測値反応は鋭いと自負しています。
しかし、
私の日常の金銭感覚はまるで駄目だと自覚しています。

コインは、1949年モノ、
私の生年のコインが大好きなので時々持ち歩きます。
500円硬貨もなかなかいいです。
それはモノとして魅力的なだけなのです。
先日から、
私は「日常的なお金」を持ち歩けるようになりました。
それがたまらなくうれしくてうれしくてたまりません。
とても、資本主義から逃走なんてできない!と、
言われそうですが、まったく違うのです。
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edyカード付きのマイレージのクレジットカードです。
もう使うことのできないモノとしてのコインと、
プラスチック貨幣であり、
「サービス産業」メディアとしての価値貨幣カードです。
ここがポイントです。
「資本主義」に入り込んでしまっている産業、
すなわち「サービス産業」に立ち入ることです。
そこでの人間関係・業態関係・価値体系関係は、
社会と時代の関係が連鎖系であることを一変させます。
ここから、「逃走する逃げ道」への交換体系を、
デザイン」出来そうな気がしてなりません。
edy・マイレージ・クレジットカードも、
私にはうれしい日常的なモノですが、
そこからも、資本主義の消失、
その要因が変容どころか喪失していく予感がします。


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『資本主義からの逃走』
 *「学問が決着するべきは行学・実践でしょう」*


   


     12月 10th, 2009  Posted 9:00 AM

私は1994年に「PKD」を文章で提示しました。
大学人になってから、
この活動に取り組むには、まだ環境不足でした。
ようやく、阪大にて環境が出来て開始しています

その具体的なモノとして、
iPhone-アプリの三つ目を発売しました。
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この活動資金にしていくためです。
私はデザイナーだから、デザインを学問としてよりも、
実学としてのデザイン、
これを「行学」と称しています。
「行学」というのは、
日本では「道」という精神論と美学性があります。
したがって、デザイン道と言うのは、ややセンス無し。
大学人になって、多くの教授や准教授を見てきました。
退官したら、「大学という不可思議な場と人間」を
書き残すつもりです。
それこそ、人生最大の過激性と攻撃性でまとめます。
訴訟も辞しません。そのような覚悟もせずに、
自らの美学などは公表ならずが、
「行学の志」でしょう。

というわけで、今回は、
「黄金比を計算することができます」。
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http://www.design.frc.eng.osaka-u.ac.jp/info/iphoneapp/GRC.html

しかし、これを運用するには、「知識」が必要です。
その知識は学問という、問いかけの解答です。
設計する実学のツールに、是非傍らに置いてください。
何かモノを購入するときに、
「これって、美しいかな・・・」って迷ったら、
高さとか幅とかの寸法比を、このアプリで割り出せば、
「なるほど」ってことになればいいわけです。
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Peace-Keeping Designは徐々に拡大し、
今ではクリントン財団のプロジェクト・アフリカ支援
そのプロジェクトに一つになっています。

来年早々にアップルストア銀座(1月22日・無料)、
国際文化会館の支援事業で講演(2月26日)です。
「行学」・「学問」がめざすところ、
「1日に5000人の子供が死んでいます」という現状を
「ジャンボジェット機が毎日10台墜落しています」、
この直喩によって「問題解決」を実務実行のはずです。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵には、景観論の要因に花鳥風月あり」


   


     12月 8th, 2009  Posted 11:49 PM

私が、「花鳥風月」に心酔していくとは思わなかった。
「花・鳥・風・月」が、日本人デザイナーとして、
本当に真剣に取り組み出したけれども、
まだ、それらを自分のデザインに取り入れてはいない。

しかし、私には独立すぐに、ある連載がありました。
「流行通信」でした。
二回で降ろされました。
MusicとAudioのページをいただいていました。
1980年です。
これを覚えていただいている人がいました。
当時は、赤坂にstudioがありました。
匿名的なデザインで、
かなりのヒット商品を出していました。
Musicもレコード会社から新譜が届き、
AudioはすでにMusic Synthesizerに取り囲まれて、
JBL4343も手に入れていました。
それは今も4回半、チューニングして使っています。
「流行通信」で、「景観論」を書いてしまい、
編集部から、すぐに、連載はストップでした。

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さてこの当時に私は「花鳥風月」に入っていきました。
景観は、「風」と「月」の異変に、
本来の意味があることに辿り着いたのです。
そこから、私は「景気」という言葉と「景観」に、
大きな「花綵の体系」が伝統美学となっていると
確信をしました。

「月」には満ち欠けがあります。
「月食」は、古代にはとても恐怖だったことでしょう。
「風」は、花綵の国には微風から台風まであります。

「景観論」と「景気論」は、
ある連関方程式があると思っています。
それを、「美しい方程式」とすれば、
私のデザイン造形=造形言語は、
「デザイン数理学」の一つになるでしょう。
もし、私がそこまで行き着ければ、
マルクスの「資本論」を絶対に、
「デザイン」という手法で
「モノのデザイン」で超越してみせます。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵を断ち切った、都と鄙
           けれどもNetwork社会に希望」


   


     12月 8th, 2009  Posted 10:00 AM

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米国に従属してしまった日本は分断された。
戦後生まれの私には、
米国のあらゆるモノが眩しかったのです。
大きな冷蔵庫、自家用車、電化製品、・・・
そして、「アイビースタイル」で、ファッションを、
それこそネクタイの結び方まで学びました。
正直、60年代の「安保闘争」を田舎のTVで見つめる時、
日本が壊れていく、そんな東京でのデモ行進の異様さは、
とても、悲しかったのを覚えています。
70年代には、まさに、私も大学生になっていました。
完全なる「ノンポリ」でした。
むしろ、学生運動に走る連中を殴っていました。
それよりも、音楽やデザインに、心惹かれていました。

やがて、知るのです。
三島由紀夫の切腹が訴えようとしていたことに、
私は目覚めました。「日本が壊れていく」と・・・
明らかに、東京一極集中は日本を分断していきます。

私は、北陸の地方都市から東京を「対象化」しました。
そして、「雛美人文化論」を心底にしながら、
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伝統工芸産地に、「デザインの導入」に関わります。
やがて見えてきます。
「鄙」と「都」の関係です。
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明らかに、唯一の「都」=「東京」には、
「クロノフィリア(時間偏狂者)」が集中していきます。
一方、日本全国の地方都市は「鄙」と化します。
そこでは「トポフィリア(場所偏狂者)」で、
「土地自慢」こそ「地方の活性化」だという偏狂さです。
今なおこれは歴然とした、
「資本」としての「土地」感覚そのものです。
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「都」での金融資本と、「鄙」での土地資本が意識分断、
すなわち「花綵の国」は、金融資本も土地資本も、
価値を喪失して、私たちの心まで分断しました。

ところが、
情報時代=ネットワーク社会」は、この分断を、
新たな「花綵」にしてくれるのかもしれません。
すでに、「都」も「鄙」も、
ネットワーク社会=意識社会によって、
「bit資本」が、金融・土地・資材・食糧に至るまで、
「花綵ネットワーク社会」が創出されるでしょう。
私は「逃走」します。
それでも明らかに私の「希望」は、
このネットワークが、再び「花綵の国」へと、
デザインが導いていくものと確信している次第です。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵の国のことばには「ち」、
            土地と価値がある」


   


     12月 7th, 2009  Posted 10:00 AM

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日本は、花、その美しさが遺伝子にあります。
無論、花への想いは、どのような民族でも伝統美です。
すでに、忘れられた言葉に、
日本は「花綵の国」と自称していました。
華緤・花綵、まさにこの島国は春には花で絆がり、
四季の花々への愛惜と作法は、日本美の伝統です。
そして、花の美しさとともに、
「日本語」の美しさにも、愛惜と哀惜があります。

私は、「いのち」・「きもち」・「かたち」を
海外でも常にその成り立ちや言葉の要素を語ります。
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それは、「ち」という言葉で決定づけられていることです。
「ち」は、漢字でも、血・智・値・地・・・・と、
いっぱいあります。
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そこから、ち+から(空)=力があり
(空)から+た(田)=体が成り立っていると紹介します。

そこで、
資本論にもどれば、
重要重大なキーワードに、「土地」と「価値」があります。
いずれにも、「ち」があります。
それは、
「土地」と「価値」に資本関係が強く連関しています。
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「土地」=「場」と「価値」=「貨幣」の体系が、
「日本語」では資本主義を借用したり引用するまでもなく、
伝統的、民族的、国家的に、息づいていたのです。
何も、「資本論」も「資本主義」も不必要だったのです。
「花綵の国」の「土地」と「価値」との体系には、
花への愛惜のごとく「思想」だったのです。


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『資本主義からの逃走』
  「政教一体と政教分離は民主主義とは無縁」


   


     12月 5th, 2009  Posted 7:54 PM

戦後の日本は、
金科玉条のごとく「政教分離を遵守」してきました。
その意味と意義、機能性と効能性はあったのでしょうか。
私は、まったく無かったと思ってきました。
政教分離を唱えつつも、
 ● 宗教団体をバックにした政党もあり、
 ● 仏教も神道もすべからく飲み込んできた政党と
 ● 宗教排撃ごとき思想によりそっている政党も存在します。
したがって、こうした玉石混淆の政教に関する論理は、
「全く社会的効能性は無かった」ものと考えるべきでしょう。

すなわち、
私は、政教一体であろうが、政教分離であろうが、
そこに公然と唱えられてきた民主主義は、
いわば先進的な資本主義国家体制の共同謀議にすぎません。
ここから、先の私の思想はペンを止めることにします。
なぜなら、
私のペンが私自身を社会的に抹殺、自死へ誘うと思うからです。

私が注目し、
「宗教」を洞察してきた対象の「宗教」は2つあります。
「禅宗」と「シェーカー教」です。

□「禅宗」は、私のふるさと福井であり、
その総本山である「永平寺」です。
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なんとも私の育った環境に大きな影響があったからです。

もうひとつは、
 □「シェーカー教」です。
ボストン郊外に何度か訪ねました。
実際にはすでに観光地化していました。
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それは、「家具」であり「車椅子デザインのためでした。
しかし、「シェーカー教」の教義とその実践である
共同生活、手仕事、労働への敬虔さ、
そのデザインに心奪われました。

そして、
この二つの「宗教哲学」とその「実践」に、
まったく、民主主義は皆無だということがわかりました。
そこから、「いのち」を支えうる「宗教」と「政治」は、
その人間個々の「いのち」の系譜は完全に断絶します。
宗教での「死生観」は、
「政治」どころではない思想が、連綿と連鎖し、
そして、「生きる人格」を決定づけています。
この断絶を受け入れられる強固な「生涯」を
私は選択しました。
結果、
私は民主主義は無効だということを認識しました。
  もっとおおらかで、
  もっと高潔で
  もっと品格のある
「集団的な意志決定=生き様」があります。
私はそれを分別しています。
だから資本主義を静観し、
決して巻き込まれない「生き方」を
デザインに配置したのです。


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『資本主義からの逃走』
  「資本論の、指摘不足と現代性との剥離」


   


     12月 4th, 2009  Posted 9:38 AM

「資本論」はとても魅力あふれる論理です。
その魅力はマルクスとエンゲルスの才能の成果だと思います。
しかし、私は、「資本論」では、
重大なキーワードでまったく皆無な言葉があることと、
この言葉への深い洞察があってほしかったと思います。

たとえば、「生産」という言葉は重大なキーワードです。
しかし、
「生産」と技術の関係では「設計」の論理が皆無であり、
「精神的生産」という重大な言葉に「安価」な生産、
その記述がありますが、思量不足を感じています。
それはなぜかということになります。
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最近、経済学者や経済評論家の方々は、
とりわけ、日本は「モノづくり」の国家論を喧伝します。
しかし彼らに、
「モノづくり」の根本や経験が欠落しているのですから、
それは「空論」になることは当然です。
私は、「資本論」の魅力を十分に感じるのは、
マルクス、エンゲルスが、結局指摘不足だったことです。
モノづくり=生産にとって、
現代性との剥離を見つけるたびに、
私のデザインを強化することができるのです。
なおかつ、
私のデザインが、必ず、「資本主義から逃走」可能、
そのことを強く認識しているのです。
明らかに、モノづくりには「安価」なモノは必要です。
この「安価」な生産性を「資本論」は、
指摘しているのですが洞察不足過ぎるのです。
その周辺論理への思考は、
「モノづくり」の無経験さが満ちあふれているだけに
私には魅力的なのです。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義の偽善さと善良さの対決」


   


     12月 3rd, 2009  Posted 8:00 AM

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経済の偽善さは「資本主義」を纏っています。
そして、見事に展開していくのです。
「ドバイ・ショック」が今度は襲いかかってきました。
日本人は、国内は「性悪説」の国家となりつつも、
国際的には「性善説」、
それを演じて生き延びるつもりなのでしょうか。
これは、見事に、「資本主義+民主主義」の
まことしやかに「敗戦」をひきずっているからです。
逃れる策略=designが不可欠です。

さて、「ドバイ」は、黄金の国家というイメージ戦略が、
成功していました。
しかし、あの国は「貿易商品の廃棄場」だったのです。
もし、あの国に貿易商品が流れついたら、
それは、もう、「廃棄品」という烙印を押されたということです。
そのことに詳しい経営者が、
なんとわが国には少ないことだったでしょうか!

サブプライム・ローンは、貧しい労働者をだましましたのです。
そこで、リーマンショック!です。
ドバイ・ショックは、富める有資産家への詐欺でであり、
彼らの動向はまったく不明ですが、
あらたな恐慌の形式と質が変容したのです。
このハリケーンがトルネードのごとく
襲いかかってきている日本では、
「デフレ・スパイラル」に善良な市民は巻き込まれています。

「偽善」と「善良」を分別するには、
「民主主義」を見直すことでしょう。
その基盤が、「資本主義」に乗っかっていることに、
もう一度、目を向けない限り、
わが国のこのささやかな資源無き領土で、
私たちは息絶えることになります。

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私のまなざしはいつも、
デザイン」という理想主義で、
「偽善」と「善良」を分別することにしています。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義、逃走した後の文明と文化の対象」


   


     12月 2nd, 2009  Posted 9:00 AM

「資本論」にもどれば、それは文明論にすぎません。
やはりその著作当時の想像力の限界を知ってしまいます。
残念ですが、「文化論」としては、読めません。
まず文明は、「飢えと寒さ」への産業の進化だと思います。
「飢え」は、食べることが叶わない人間の欲求です。
「寒さ」は、体が冷えるから寒いことには耐えきれません。
だから、
食べるための「器」が必要になります。
寒さをしのぐために「機」織りで衣服が必要になります。
「機」と「器」なのです。

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まさに現代の「機器」を生産していく産業ということです。
「資本論」では、衣服に関するたとえ話があります。
無論、人間にとっての「衣・食・住」は、
文明の基本でした。

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私は、文明からさらに資本主義が成し遂げたことは、
文化」だったと思います。
それこそ、
衣はファッションとなり、
食がグルメとなり、
住はヴィラとなるほどの
豊かさを資本主義下の一部は掌中にしました。

私は、
「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」が、
さらに、文明と文化によって、
これからの人間社会、人生、生きがい、働きがいに
不可欠だと言い続けてきました。
最近、「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」を

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自分が、あたかもオリジナルということを
論文にまでしている人を散見します。
しかし、そうした人には「医・職・趣」の解釈がまるで
間違っているのです。
その最大の理由は、
「医・職・趣」の

  ●「医」は、健康だけではありません。
  ●「職」は、職能だけではありません。
  ●「趣」は、趣味だけではありません。
 
実は、「資本主義から逃走した後の文明と文化」論は、
生産」や「産業」では語り切れないのです。
明確に、「モノづくり」での文明文化論が必要なのです。
つまり、「資本主義から逃走」という問題解決に、
デザイン=Solutionの対象に、
「衣・食・住」と「医・職・趣」のマトリックス化を
策略化=designする能力が必要なのです。


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『資本主義からの逃走』
 「資本主義、その逃走の基本方程式」


   


     12月 1st, 2009  Posted 7:39 PM

デザイン」は、「問題解決の方法」だとこれまで、
ズッーと私は、一般に、学生に、企業に伝えてきました。
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それも「問題解決」でありしかも「難問解決」なのです。
その唯一の方法だとさえ確信しています。
ただし、宗教ではありません。奇跡は起こせません。
まして、科学・技術・芸術でもないのです。
科学と技術とを接着・融合させるたった一つの方法です。
ところで「科学技術」という日本語は大きな間違いです。
哲学者・中村雄二郎先生は、
「科学」は「分科学」の略語にすぎないと教えられました。
デザインの難問解決という論議から、
問題解決の簡潔な方程式を、
私はデザイン思考の基本と基準にしてきました。

つまり「問題」には、
  ●「話題」=Topics
  ●「課題」=Question
  ●「問題」=Problem
があります。

この解決は、
  ■  Topics – Reply
  ■  Question – Answer
  ■  Problem – Solution
ということまでが、本来の方程式=equationです。

この方程式は、デザインでは次の二つになります。
AlgorithmとProgramです。
そこで、「資本論」のために、
マルクス(数学に関する遺稿集)が、なぜ導関数を
エンゲルスに教えたのかがわかるはずです。
数学的思考は、応答と回答は、
「算数」や「数学」で学ぶことができます。
芸術も、応答的な作品と回答的な作品しかありません。
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本来、「問題解決」・「難問解決」によって「解答」が
創出されるのです。
創出されるから、クリエィティブでなければいけません。
しかも「解答」は美しさが必要です。
私は、「逃走する方程式」はかくあるべきと考えています。
そして、デザインには、
「デザイン数理学」というAlgorithmとProgramが、
「分科学」として「技術」を支え、
造形言語によって美しさが創出されるのだと思います。
「資本主義から逃走できるデザイン」、
その時代を牽引できるデザイナーは限られているのは、
多分、「仕分けられた」才能でしょう。


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