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『資本主義からの逃走』
「サイバー空間の分離は分断される危険性がある」


   


     9月 20th, 2010  Posted 12:00 AM

術語・「分離」
apheresis=分離という言葉だけを焦点化。
分離は、心理学と遺伝子学にて学理的に術語化されています。
その解説や解釈をここで述べれば、
それはアナロジー的な私なりの理解にとどまってしまいます。
私的アナロジーとしてメモしておきます。
むしろ、私は、心理学にしろ遺伝子学にしろ、
それぞれが原因としての分離と結果としての分離になっていることに注目します。
まず、心理学では、自我の統一性が分離して、結果が問われることです。
遺伝子的には、生命が発生する分離構造がすでに科学としては成立しているということです。
こうした術語「分離」を一端、分離の意味理解としておきます。
そこで、もっと大きな問題を探し出しておく必要があります。
それはすでに、サイバー空間が「分離」し始めていることです。
私は、ここではあくまでも「資本主義が分離してしまっている」と断言していると思っていますが、それ以上のことは、理想主義で語られたきたサイバー空間は、
資本主義の経済機構に適合して進化してきましたが、その分断と分離が始まっていることです。
地球は確かに、web空間化しています。
それが「クラウド」化することも自明のことと理解可能です。
しかし、あくまでも経済論理がこの「クラウド」化を推進していくとするなら、
web空間=サイバースペースは分断されるどころか、
分断される危険性を孕んでいることを指摘しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「Media Allianceへのアフェレーシス」


   


     9月 19th, 2010  Posted 12:00 AM

「界面」=インターフェイス
医学術語ならアフェレシスなので、
私は、コンピューター用語にしていくために、アフェレーシスと呼称しておきます。
ところで、apheresis=分離は、元来コンピューター用語では成立していたのです。
油と水は分離します。化学的な現象です。
その分離している油と水の境界面、これを「界面」と呼びます。
この「界面」をインターフェイスと呼び、そのままコンピューター用語になっているわけです。
しかし、私が意図しているアフェレーシスは、情報を分離していくことで、
それぞれの分離された情報系=情報システムが協働する=アライアンスしていくことです。
その情報系システムを構成しているのは、
コンピューターとロボットです。
無論、ロボットにはコンピューターが内蔵されています。
しかも、私はこの時、
コンピューターも「消えている」=見えない=クラウド化していることを詳細に示しています。
したがって、あらためて問題は「分離」=アフェレーシスを成し遂げるハードとソフトです。
そしてこのハードとソフトは、不可視なのです。
水や空気のように、在って当たり前ですが、
日常的には存在していない社会基盤になっているということです。
あらためて再度、情報は「情勢報告」という戦争論にあてはめて熟考し直すことができるでしょう。
分離・アフェレーシスの協働
二つのことが考えられます。
■ 分離する方法や処方
■ 分離した成果同士を協働させること
この二つを考えていこうということです。
これは、エンゲルスが、大戦学理とまで邦訳された論理に注目しておくべきだと
マルクスに進言した内容につながっていると考えています。


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『資本主義からの逃走』
「Media Integrationからアフェレーシスを経るだろう!」


   


     9月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

「情勢報告」=情報
「情報」という日本語に向き合ってきました。
いつごろからだったかと考えると、明確には東芝入社時に、
FORTRAN とCOBOLの研修を受けた時からだと思います。
そして、ポストインダストリー=脱工業化社会論は、
ドイツから出版された「意識革命」だったと思います。
そして、情報が森鴎外の邦訳語説に出会いました。
ところが、超有名大学教授から猛烈な「反撃」を受けました。
ちょうど、私が名古屋市立大学教授になった時でした。
驚愕し無論この教授がこのような方だったと愕然とし、私も反撃してこの発言をし続けてきました。
しかし、私はこの反撃が直感で誤りだと感じていました。
森鴎外のクラウゼヴィッツ・戦争論の翻訳・「大戦学理」にある
「情勢報告」を「情報」としていると金沢での第15回日本VR学会で教えていただきました。
しかも、私が講演で「情報は情に報いる」という事自体が大きな過ちだという指摘には
大賛同をしていただきました。
情報が情に報いるなら、表記は「報情」でなければなりません。
しかも、「情」には古代中国の文字定義意味があるので中国古典書定義からは、外れてしまいます。
「情」とは心に中に流れ込むどろどろとした「青」(中国ではこれは黒です)ですから、
人間の策略や謀略を意味します。

apheresis

したがって、戦争での情勢とは戦略の動勢を探って報とし伝達するという意味になります。
そこで、これまで一部で語ってきたのは、「アフェレーシス」でした。
これはギリシア語・aheresis=「分離」を意味しています。
現在、アフェレシスは医学術語で「血液分離」として人工透析などの基礎用語になっています。
そこで、私は、「ユビキタス」=どこでもコンピューターとの対話環境がある、
となれば、「情報の分離」が必須になるということで、アフェレーシスという段階が必至であり、
このステップ経なければならないということを若手ベンチャーの指導者にその話をしてきました。
「情勢報告」=「情報」も分離して、プライオリティが必要だということです。
そこで、「情報社会」ではアフェレーシスが重大になると自信をもって発言します。
私がMedia IntegrationからMedia Allianceへのステップにaphereis、
その分離ダイナミックスが重要になるという提案です。
「戦争論」は資本論にとってもエンゲルスが絶対に参考にすべきと言われた論理でしたが、
クラウゼヴィッツは、「戦争論」を書き上げることはできなかった論理でした。
私は、情勢の分離が知識と意識にどのように影響していくかは、
当時はまだ熟考不足があったものと考えます。
戦争論理でいえば、「孫子の兵法」が見事に言い尽くしているというのが私の判断です。


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『資本主義からの逃走』
  「Media Allianceが果たしてくれそうなこと」


   


     9月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

コンピュータが消える日
マイクロソフト社が、Windows7の発売を前に、
この私に講演を依頼されました。
Mac派の私を、なぜ?とまで思いました。
そこで「コンピュータが消える日」という講演タイトルでは、議論に議論でしたが、
タイトルと内容が大きな見通しということでOKしていただきました。
ユビキタス・クラウド、では次は?、ということになります。
ユビキタスを追いかけているもうすっかり著名なベンチャーには、
あるコンセプトを話してありました。これはまたここでまとめていきます。
そして、Media IntegrationからMedia Allianceへというところに私の発想はたどり着いています。
ちょうど、金沢での日本VR(Virtual Reality)学会にて講演をしました。
その準備で、Ambient=情報空間までの系譜を、調べあげました。
そして、ちょうど阪大で浅田教授のVo-Calという「音声発生ロボット」のデザイン、
これも私の研究室の大きなテーマですが、
VR学会で浅田教授の講演にその内容がまとめられていました。
研究室では、無駄話ばかりしていたと思いましたが、それがやっとまとまった気がしています。
Mediaには、ロボットの存在も大きく介入してきます。
ロボットとの協働・情報空間
したがって、すでに、空気のような、水のような、日常まったく無意識ながら、
人間を取り囲む情報空間で、提携や協働=Allianceするのは、
非在化したコンピューターとロボットになっていくことは間違いないでしょう。
「情勢報告」=情報・森鴎外の邦訳
「情報」もかねてより、森鴎外の訳語であり、
決して「情に報いる」という解釈は間違っていると主張してきました。
この発言は、ある有名教授にFAXでも、散々にやられましたが、わたしも相当やりかえしました。
「情報とは情に報いる」という解釈はまったく間違いです。
森鴎外が翻訳したクラウゼヴィッツ「戦争論」に明確に、
「情勢報告」を「情報」としているということを教えられました。
リアルな存在としてのロボットとバーチャルなコンピュータの協働=アライアンスを、
これから私は、焦点化していく決心がついたということです。


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『資本主義からの逃走』
  「Ambient=情報空間に向かうMedia Alliance」


   


     9月 16th, 2010  Posted 12:00 AM

起動音
Ambientを、音楽環境と定義、
いやそう呼称したのは、1970年代のブライアン・イーノです。
マイクロソフト社がWindows95の3秒間の起動音は、
ブライアン・イーノに依頼をしています。
そして、このいわばジングル的な音響が、新しい情報化その進化を伝えることになりました。
実際、彼の作品には”Going Unconcious”というのがあります。
しかし、この起動音は「コンピューターのある空間」へのAmbientだったという意識は
当時はまったく無かったと思います。
むしろ、MacOSのGUIを引用していたことの方が私の記憶にあります。
これらのGUIによって、世界中がパソコンを日常の道具となり、
ユビキタスの概念も登場してくるわけです。
ところで、大阪万博では、クセナキスが日本をテーマとした「響き・花・間」も、
すでにAmbientの先手だったと私は認識しています。
クセナキスはもともと建築家でしたが、
現代音楽と環境、サウンドやレーザー光線などのインスタレーションは、
情報空間を予知して表現だったと思っています。
この作曲ではIBM360が使われていたと記憶しています。
情報空間に音楽空間が結びつくことを、私は「Media Alliance」とひとまず呼ぶことにします。
これは、「Media Integration」からの進化形となっていくでしょう。
私はこれを「Media Alliance」としてのデザイン文脈づくりをしていきたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「Ambient・情報空間への系譜」


   


     9月 15th, 2010  Posted 12:00 AM

無音環境
TACETという小休止という形式があります。
オーケストラ演奏での楽章演奏間で、一端休み時間を設けるという形式です。
TACETは「無音」になります。
この無音時間を4分33秒とした楽曲を提示したのがジョン・ケージ(1951発表)でした。
それは音楽シーンに無音状況=無音環境も音楽環境ではないか、
という様々な議論が開始されました。
これは日本的、禅宗思想「成すがまま」が全面的な背景だという解釈も可能です。
無音環境とは、音楽環境の音楽が、必ずしも劇場空間で演奏されるものではなくて、
あたかも休憩時にロビーやその空間と同等のものであってもかまわないという提案は
1920年には提案されていました。
「家具の音楽」がAmbient源流
「家具の音楽」(1920)とまで題名とされたエリック・サティでした。
この楽想の系譜は、やがてロックにまでつながっていきました。
ブライアン・イーノは、ずばりAmbient=音楽環境(1970)へと理論と実践曲が生まれました。
そして、現代、情報環境は音楽環境の系譜をプロットしています。
Ambientという呼称が引き継がれています。
これまで、「情報化の潮流」は、
ニューメディア・ハイパーメディア・マルチメディア・ユビキタスなどのキーワードによって、
マイルストーンが構造化されてきました。
クラウド、そしてアンビエントへの系譜が文脈化されるでしょう。
そして、問題は、アンビエントの次のキーワードが何になるかということです。
ユビキタス→クラウド→アンビエントという系譜が、
資本主義を終焉させる要因になると私は確信していますから、その次のキーワードを探します。


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『資本主義からの逃走』
 「資本主義に動物が革命蜂起し始めているのかも」


   


     9月 14th, 2010  Posted 12:00 AM

動物たちの革命蜂起
ふるさとの深山からイノシシやサルが、
食糧危機で実力行動していることをあらためて知らされました。
そうしたら、神戸では登山客を襲うイノシシの存在をTVで観ました。
明らかに自然破壊の大きな話題です。
彼らは、人間不信で「革命蜂起」しているのです。
さて今、「レアアース」や「サスティナビリティ」、エコロジーやリサイクルも、
こうした概念と連鎖しています。
もっとも、「サスティナビリティ」は欧州で発言された英語です。
したがって、日本人はまったく素直にこの言葉を受け入れています。
しかし私は、この言葉があくまでも、
「欧州だけが経済の生き残り戦略語」であることに注視しています。
彼ら欧州が、経済的な「富の独占化」を、この言葉の背後にしていることは、
疑念の持ち過ぎかもしれませんが、ある意味では熟考用語であると思っています。
それは、なぜ、「ISO」規格が、欧州からあたかもグロバール標準になりながらも、
その規格取得費支払いを義務化されているのかを再熟考するべきだと考えます。
それこそ、サスティナビリティはエコロジーよりさらに強力な世界標準化規格になっています。
これらの世界標準化規格こそ、資本主義経済体制にはある歪みがあるものと判断しています。
世界規格など、本来は無用です。人類が大切にすべき暗黙の常識了解だとすべきでしょう。
その最大の歪みは、「生産と消費」の背景文脈には、
自然との関係はすべからく無視されてきたと判断してかまわないでしょう。
ISO27001=Infomation Security Management Systemをあらためて読み直しながら、
資本主義経済体制は明らかに「情報社会」でさらに強化されるでしょう。
しかし、情報環境と自然環境の世界標準規格は、
わが国こそ創出していくべきだと思った次第です。


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『資本主義からの逃走』
「自然崩壊と資本主義終焉が同時進行しているのでは」


   


     9月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

ふるさとの自然崩壊
私のふるさと福井県は、人口80万人です。
日本では、もっとも目立たない忘れられている県だと言われています。
しかし、私の生まれ育った大事で大切な場所です。
大阪から最終特急で帰郷すれば、もう駅前は閑散としています。
昼、福井市のささやかな中心街を見ると、
本当に高齢者が増えているなーとつくづく思います。
すでに、ふるさとには父母のお墓しかありません。
友人、知人はいっぱいいます。だから、私が帰郷し講演をすればみんな来てくれます。
盛大に受け止めてもらっています。そして様々な相談を受けます。
伝統工芸産地、地場産業、商店街の疲弊、ドーナツ現象と、
日本の典型的な「産業経済の疲弊」を目の当たりにするのです。
ところが一方では、抜きんでた先進的技術産業と次世代ベンチャーは、
東京に進出しながらもふるさとをベースとして、「活性化」を目指しています。
私は、これまでの産業経済=資本主義背景が確実に終わったと思えてなりません。
とうとう、「ペイオフ」制度が発動されました。
マスコミの寵児とされていた経営者による新銀行スタイルの発足時に私はこの崩壊を直感しました。したがって「ああ、やっぱり」という納得しかありません。
すでにもう確実に、小さな地方都市は高齢化=痴呆老人の増加と、
次世代が目指している新たな企業形式は対照的に、現代日本の困惑が象徴的です。
今年の猛暑で、ふるさとでは「ねむの花」が二度も咲いたと聞きました。
深山にいるべき、イノシシやサルが親子づれでもう市郊外の農地に出てきているというのです。
霊峰白山のブナ林
福井県に奥越山脈がありその最高霊峰白山があります。
全国には「白山神社」はおおよそ1800はあると言われています。
この神社は日本列島で、白山を中心に「結界」を成しているのです。
それは、白山周辺のブナ林深山の神を守護していると祖父から教えられました。
つまり、このブナ林の自然破壊が起これば、
日本列島そのものの自然崩壊・動植物の存続、ひいては日本人の生存にも関わるでしょう。
自然崩壊と人為的崩壊、つまり小さな集落県の資本主義崩壊となるかも知れません。
私は沈思黙考してしまいます。


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『資本主義からの逃走』
「実力としてのデザイン・デザインとしての実力を考える」


   


     9月 12th, 2010  Posted 12:00 AM

A as B, B as A
「AとしてのB・BとしてのA」という連語考察は、
その相対論となり、 
『A as B, B as A』は、AとBを深く洞察し、
その「核心さ」を明確にする手法だと考えています。
「・・・としての・・・」という連語で、
デザインと実力を考えてきました。
まず、実力について考えることは、「何が実力?」という自問です。
実力、それは「実行力・実現力・現実化力」などを
一言表現にしていることばでしょう。
その前に、「力」というのは、こんな風に習ったことを思い出します。
「力」の定義
「作用点・大きさ・方向」で定義づけられたベクトルだということです。
つまり、どこから始まり、
どの方向に向かって、どの程度の大きさがあるのだろうか、
ということが「力」、それも古典的な力学の定義でした。
だから、「実力としてのデザイン」というのは、
実行力や実現力がデザインの方向やその大きさを示しているのでしょう。
また、「デザインとしての実現力」といえば、
それはデザインが実行力で現実化させる作用点・大きさ・方向を確実に、
デザインで決定づけることだと考えます。
そして、「デザイン」と「実現」を相対化することができる
思考を幾たびも繰り返しながら、
結論は、デザインに何が出来るのか、ということと、
何がデザインに出来るのかということ、
この再考に再考をしていく工程を
自分の中に組み込んでいくことになるでしょう。
それは、作用点にデザイン、
あるいは実行力を配置するのかということにもなります。
もともと、デザインの大きさや方向を
実行力で照らし合わせることも可能になります。
結果は必ず、「デザインの実力」あるいは「実力のデザイン」、
いづれかが浮かび上がってくるわけです。
「自分の実力」は義務を確認する勇気
それは、「自分の実力」とデザインの関係を常に、
ループ状で思索し続ける「自分自身」を見詰め直すことになるはずです。
とりわけ、デザイナーとしての自分、自分が実行し実現していく「義務」を確認できれば、
自分を最も勇気づけられます。
私が最も意識化してきたは、「・・・としての・・・」職能思索手法です。


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『資本主義からの逃走』
   「 AとしてのB・対・BとしてのA、という連語考察」


   


     9月 11th, 2010  Posted 12:10 AM

・・・としての・・・
私が、「かたち」の考察方法を学んだのは、現代美術論と建築論でした。
美大時代、「デザイン」に関わる書籍は、当時本当に僅かでした。
したがって、最も、設計・造形・思想などの思索方法は、
自分で掴み取る必要がありました。
大学ではひたすら「造形実習での実技習得」でした。
実技をさらに活かしていく思想・思索は独習しなければと考えていました。
建築論、特に、日本では数名の建築家の著作、
その中で引用されたり、再検討される国内外の建築評論や建築論を読みあさりました。
一方で、正直、美大生なのに「絵画」や「彫刻」、
さらには「現代美術」との接し方すらまったく無知でした。
ところが、衝撃を受けたのは、宮川淳氏がちょうど登場し、
その論文で、「いかに芸術、特に、造形を捉えるか」という方法論の提示は、
建築論にも適用され大きな影響を残しました。
したがって、今なお私の大切な思索方法になっています。
彼は夭逝し、三冊の著作を残してくれました。私の思考に影響力を与えた支柱的な人物です。
その中で、「・・・としての・・・」という表現があります。
それも、「AとしてのB・BとしてのA」という連語考察は、その相対論となり、 
『A as B, B as A』は、AとBを深く洞察して「核心さ」を明確にする手法だと思います。
それは、「としての」ということばは、
格助詞「と」、あるいは助動詞「たり」となるサ変動詞「す」の連用形「し」に、
「て」が連結されています。
「として」という一語となって、助詞的になっていることばです。
私は、この方法論が、禅宗の現成公案にもあることを知って以来、
この思索方法を自分流にしようとしてきました。
まず、連語が助詞的に、二つの概念・観念が双方性から相補・相関・相対思考を支援することを、
私はいつも意識しています。
これは、古来の「金剛界曼荼羅」、「マトリックス思考」に見事につながっています。
「デザインとしての実力・実力としてのデザイン」をこの連語考察に持ち込みたいと考えています。


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