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Posts Tagged ‘40歳’


『71歳になります』


   


     2月 26th, 2020  Posted 12:00 AM

本日、71歳になりました。
28歳で交通被災し車イスの生活を余儀なくされました。
重傷当時には40歳までが生涯だと言われました。
金沢美術工芸大学を卒業し、東芝からデザイナーになりました。
その後、東芝を辞めて赤坂で独立し、そしてふるさと福井に戻りました。
寿命の40歳を過ぎて、41歳の時に、「毎日デザイン賞」を
故・倉俣史朗先生から推薦を受けて、受賞しました。
そして、気がつけば名古屋と大阪で22年間も大学人でした。
事故や病気の重篤から4回はあの世から戻ってきました。
かなり無茶苦茶な人生を送りながら、デザインには清廉潔白を通し、
デザイン界では、かなり激しい生き方をしてきました。
自分と正反対の思想と行動であれば、
その人を敵というように見なしてきたようです。
私にとっては、敵でも無いのです、
デザイン哲学を最優先してしまいました。
私の父は、70歳で全ての仕事を辞めましたから、
自分もと思っていましたが、そもそも計画を綿密に立てないし、
アクシデントだらけで、私の人生は予定調和ではありません。
「やりたい仕事」として書き残したいことがあります。
ようやく、一冊目を書き始めました。
カーボンファイバーのイスは、今年ドバイで発表します。
次世代のケイ炭素素材も見つかっています。
製品開発をしてきたモノを商品化すること。
いろんなことの引き継ぎとかを終えて
79歳で亡くなった父より、
少し伸ばして80歳の生涯だったらと願います。


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『古代希なり・70歳です』


   


     2月 26th, 2019  Posted 12:00 AM

私が2月26日、ワイフも2月生まれを祝いに、
2月14日に、日本でも有名なシェフのお店に初めて行きました。
いつも、国際的には日本代表となるシェフのお店です。
以前から紹介されながらも、行けずにいました。
去年は4度も入院・退院、医療制度をかなり見ました。
安定しない健康と、あたえられた仕事への責任との
バランスをとるのに、力戦奮闘した1年でした。
ゆえに、それが明けた今年は、
感謝と更なる景気づけにと徹底的なこだわりを元に
腕のあるシェフのお店しか思い浮かびませんでした。
さて、私は古希・70歳です。
40歳までと言われながら、「ここまで生きてきた」のです。
41歳で毎日デザイン賞をいただき、バブルの頃には、
クパチーノで、Apple 社のコンサルタントをやっていました。
モノづくりの知識を網羅し、
国内の産地や、企業との産業と文化の仕事で、研鑽を重ね、
大学での研究では、生命や環境や平和といったデザインで解決をめざす
広範な領域まで手掛けました。
今年は、「古希・70歳」を年賀に気持ちを強くしたためました。
47歳で亡くなった母には「がん」という病名も余命も伝えなかったのですが
私への遺言書に「世界一のデザイナーになって」と書いてありました。
大学卒業後、ふるさと福井にでも戻ろうと考えていた私は、
そこから心を新たにし、母の遺言に、何としても応えたく、
毎日母への恩返しを誓いました。
「古代希なり」の70歳です。


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『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』


   


     1月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

「Back to the Future」というSF映画を観た直後に、
これは映画の題名というよりは、ホメロスの叙事詩に登場していると、
この話は小説家・堀田善衛氏の指摘で、
ホメロスの叙事詩である「オデッセイ」を知りました。
それは日本書紀・古事記にも登場する、いわば国づくりというか、
国・国家という存在が世界共通にあるということから、
私はホメロス・オデッセイを追いかけていたら、
ずばり、「Back to the Future」そのものの書籍にぶちあたりました。
そして、未来は決して目の前に広がっているのではなくて、
背中に未来を背負っていることは米国のそれもSF映画の根底でした。
古来、日本では人は生まれて死んでいくまでに「背負い水」があること。
人は一生に飲む水を宿命として携えて生まれてくることだと知りました。
私自身28歳で車椅子、リハビリテーションの病院では40歳までが一生、
このことを担当医から言われたのですが、そんなことを聞かされたら
人は絶対に投げやりになるものです。
それは40歳までの背負い水を持っているということです。
ところが40歳寿命など忘れていた時に、
私は毎日デザイン賞をいただきました。
したがって、私が未来・将来は自分が背負ってきたことからしか創れない、
このことを強く意識し始めてきました。
しかし、背負っていることは経験や歴史だけではありません。
ここがBack to the Futureをホメロスはどのように未来を招待するのかを
経験・歴史を超えて非常識さあふれる想像力の受容力かと気づきました。
そこでの大問題は想像力そのものも実は背負っていて、
この想像力こそ、個性・感性であり、宿命的に背負わされているのです。
人はすべからく想像力を持っているということは大間違いでした。
この事実をホメロスは読みとっていたのかもしれません。
ところが、商業主義に汚されていくと、
それこそオデッセイも日本書紀、古事記も語っていた未来・将来に
デザインは寄り添うことができなくなるのです。
是非とも、特にデザイナーは「Back to the Future」を定本にするべきです。
ただしすべからく、キリスト教義であることに
私は多少違和感があることは確かです。
日本人にはもっと自然をも背負い込む想像力があるからです。

* 『十日恵比寿の種銭を大国主命からもらう』
* 『少子化は雑誌の世界をすでに破壊していた』
* 「際限は背中に、目の前に未来など無く」
* 『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』
* 『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


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『危機解決学としてのコンシリエンスデザイン』


   


     8月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

私は危機解決学としての実務デザインとして、ここから開始しています。
私は生きていくことを、
いやそれだけを懸命に考えていたのは青春から壮年期でした。
今や、人間が生きていくことが死んでいくこと、
このことが老年期になると日常的に思い至ってしまいます。
最も、私は28歳で交通被災、45歳で心臓障害、62歳で敗血症ですから
よくもまだ生き延びていると思います。
確か、28歳で交通被災したとき、心無いドクターは私に、
「君は40歳が限度、ほら統計でも明らかでしょう」と言われました。
ところが気づいたら40歳になり、Apple社でコンサルタントでした。
63歳で阪大を定年退官して、
ひたすら、March 11.2011・東日本大震災へのデザイン復興策を
デザイン中心主義で考えついたのは、
「最悪な状態」に対してそのデザインは?
いや、何が最悪な状態へのデザインか、でした。
その根本は、「生き延びる」ことです。
確実に日本での犯罪は減少していますが、最近の殺人事件では、
まだ13歳程度の中学生が殺されます。
私は「コンシリエンスデザイン看医工学」で、学際の統合化を
四つの解決学にむけたデザイン、その具体化に取り組んでいます。
防犯・防災・安全・安心への実務的デザインの具現化です。
特に、防犯では、もっと確かな監視カメラや、犯罪者への管理です。
すでに首都直下型地震も予測値が具体化されてきたと思います。
感染症の増大も日々高まってきています。
危機管理学では机上の論理に終わるでしょう。
それなら、「最悪な状態」=生き延びることへのデザイン提案です。
ただ残念なことは、なかなかこの問題解決にデザインをという、
次世代デザイナーが本当に少ないことです。
もうサラリーマン化している企業病のエンジニアもデザイナーも不要。
私は「最悪な状態」にデザインを賭けてくれる次世代デザイナーを
真剣に求めています。


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『四十暗がり・シニアグラスがこれでいいわけがない!』


   


     5月 19th, 2015  Posted 12:00 AM

いわゆる老眼鏡=遠視メガネが高齢化を人に知らしめます。
私の寿命は40歳までと医師に交通被災直後に明言されました。
この医師の倫理観=そんなコトを言うのかとバカにしていました。
気づけば、40歳を超え、ちょうど心臓疾患になった頃、
私は確実に老眼になったことを自覚しました。
幸いに、私はメガネフレームをデザインしていたので、
役得ですが、自分用を意識したフレームをデザインしました。
と同時に様々ないわゆるシニアグラスを試してきています。
幸い、海外製などは私は鼻形状的にも最適であり、
なんとかこの形状をアジア系人種・アフリカ系人種への対応は
今も私の大きな課題であり問題としています。
したがって、私が出すべきメガネフレームは、その回答か解答です。
それこそ、シニアグラスは100円ショップですら手に入ります。
昔から日本には四十暗がりという言葉があったのです。
眼球=水晶体を支える毛様体さらにZinn小帯が老年になれば、
いわゆる水晶体のピントを調節する運動神経性が衰えます。
となれば、メガネそのものが私はこのままではデザインは
全く進化していないと断言します。
私はメガネフレームのデザインはもう一度根本からやり直すべき、
これが30年メガネフレームデザインに関与してきた者としての判断で、
しかも、メガネといえば鯖江が有名ですが、
これも大きな過ちであると断言しておきます。
いわゆる3プライスメガネは鯖江が中心と言いますが、真実、
眼鏡フレームの技術革新地は福井であり、確かに、
私が100年以上の歴史あるクライアントは鯖江からスタートしました。
しかし、どうでもいい眼鏡地場産地は鯖江ですが、
肝心なメガネ進化の技術中心地は福井だと断言しておきます。
メガネ技術がそのまま医療器具開発に直結しているという革新シーズ、
これは大間違いです。
水晶体・毛様体さらにZinn小帯の研究をデザイナーに要請します。

右下:私のデザインしたフレームをシニア用に
その他は、海外製。
国産にはいいモノ無し!


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『1949.2.26日から生きている=死んでいく私』


   


     2月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私が交通被災に遭って車イス生活になったのが、28歳の時でした。
半年、救急病院で手術をし、転院してリハビリを受けました。
その病院で、統計データを見せた担当医は、私に、
「データ上では、確実に、40歳までが君の寿命」と言われました。
(こんなことを患者に伝える、お前はバカか!・・・)
それなら、いち早くこの病院を出ようと、
たとえ熱があっても体温計をゴマかしてリハビリ訓練をしました。
私の予測道理に米国のベトナム戦争傷兵脊髄損傷者の訓練で、
半年でリハビリ病院を出て、赤坂でデザインスタジオを開設、
しかし、父の命令で福井に帰り、40歳までをと・・・
気づいたら40歳になり、運良く毎日デザイン賞を受賞していました。
(あの嘘つきドクター!)と思っているどころか、
47歳で逝ってしまった母を考えて、47歳で大学人になりました。
2049年には100歳ですが、2050年以後の予測までを読んでいます。
66歳になってしまった私ですが、
やり残していることは、まず、デザイナーとしてやり遂げたい、
したがって、大阪大学を退官時の作品集「川崎和男Design」を出版。
出版社には、とんでもない、もう一冊作品集を出すと言っています。
結局、大阪大学大学院医学系研究科に転籍して、
今春からは正式に「コンシリエンスデザイン寄附講座」を新設です。
3.11の復興、範原発(脱原発は論理・言語論としても間違い)、
南海トラフ対策、そして2020年の東京オリンピックは観たい、
これが生きている=死んでいく私のとりあえず2050年までの計画です。
生まれて生きていくのは死んでいくことを明確に認識しています。
66歳ゆえに時間の体感経過速度はあっというほど光陰矢のごとし、
当然です。
66歳ともなれば、一年は66分の一で過ぎ去ります。
恩師は93歳で逝かれました。100歳を約束しました。
真正面で死を見つめて、それも3度も観てきた経験がありますが、
これから66分の一で過ぎ去る一年間にやれるだけやるだけです。

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「64歳ー私のデザイン作品集『図鑑』編集中」


   


     2月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

40歳までと言われましたが、もはや64歳になりました。
20歳当時は、大阪に居る恋人が電話をくれました。
その日、翌年には母と死別するとは思ってもいませんでした。
それから28歳には交通被災で歩けない体になり、
無防備にも40歳までの命とすら考えてきました。
ところが、64歳で阪大も退官します。
運良くもある出版社から
「作品集」を作成していただけることになりました。
それも最終講義に出版予定でしたが、
体調不信もあって、この秋までには出版できそうです。
本図は、私なりのアイディアスケッチです。
作品一点を誰も試さなかった印刷技術で創り出したいと考えています。
おそらく、これから書体・レイアウト・カーニングと詳細設計します。
出版社からは「全作品集」と言われましたが、
まだ今後の作品があるので、「図鑑」的な編集を目指しています。
紙から表紙印刷など、これまで自分の作品集では三冊目になります。
ともかく64年間を
自叙伝的・編年体的・視覚触覚的な編集をと考えています。
本当は発表してはいけないのかも知れませんが、
絶対に「私」を表現してみたいと思います。
ほとんどを出版社に任せて作成した作品集は、
祖父宛の文章を入れました。
夢で、祖父と会話をしたことを想い出します。
こうした作品集を出版できるのは、デザイナー冥利です。
デザイナーになって良かったと思います。
私なりには「図鑑」と呼んでいるこの作品集には、
先祖の図面も載せたいと考えています。
私自身は、リンカーネーションを全く信じていません。
輪廻転生は夢だと考えますが、
それでも、生まれ変わってもデザイナーでありたいと考えています。
「終章にむかって・・・」、これがはしがきです。
「・・・消失点を見つめて」、があとがきです。
だから、どこまでも「生きぬく」ためにデザイナーでありたいと思います。
工業デザイナーが作品集を創るならという代表作にするつもりです。
最終講義には間に合いませんが、なんとしても力作づくりにします。


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「『盆栽』・・・人生で多分し忘れたコトだと思う」


   


     1月 18th, 2013  Posted 12:30 AM

間もなく、64歳を迎えます。
しみじみと思い起こすことがあります。
それは「盆栽」です。
40歳の頃でした。
NHKの教養番組で「盆栽シリーズ」を全部観たことがあります。
もの凄い衝撃を受けました。
なるほど、これは凄い日本の伝統的な文化、
その極地だと思いました。
それで、早速、東京の専門店にも何度か通って手ほどきを受けて、
入門的なことを試みましたが直ぐに枯れ果てました。
これは絶対に小学校時代から教育基本法的にも
鍛えておくべきことではないだろうかと思いました。
それから、この大阪に来てから、トライしましたが、駄目でした。
そういえば、祖父が育てていたのを何の興味も持たず、
あれは年寄りがやるもの、と思って観ていたものです。
父は、蘭栽培では自宅の庭に温室を作って、
品評会にまで出すほど、リタイア後にやっていました。
今も福井の実家の倉庫には蘭独特の植木鉢が相当に残っています。
人生で、「し忘れたコト」と尋ねられたら、
私は「盆栽」と答えるでしょうし、
それは小学校時代から知識と技術を身に付けていたら、
それは凄い人生そのものの文化になるのではないかとすら思うのです。
写真は、オークションで40万円近くする作品です。
これが好みではありませんが、日本人が「自然と対話する根本」を、
さらに深めて、このミクロな自然制御を成し遂げて、
「美」の世界観を日常化しています。
きっと読者諸兄の中には、
「そうだよ、私の得意趣味分野」とか言われようものなら、
私は最大の敬意を払うことになるでしょう。
伝統的な芸術というわけではありませんが、
明らかに、「デザイン行為」が潜んでいる知見と技術表現が、
自然そのものに寄り添っているのです。
わが人生について、作品集自叙伝を準備しています。
「終章にむかって」という序文を書きながら、
私が「し忘れたコト」は、「盆栽」だったということです。
だから、今は盆栽の写真集で凄いのがあったらと探している始末です。


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「1949年生まれにとっての2050年未来は?」


   


     11月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

1949年生まれの私にとって2049年は100歳です。
したがって、2050年にはすでに私の生涯は終わっています。
書店で、この本を見つけました。
2050年という未来予測です。
ともかく読んでおこうと思っています。
その時に、地球は、世界は、そしてわが国日本はと、
想像するヒントだけでも知っておきたい。
ワイフは生きているかもしれないし、
甥っ子や姪っ子には人生の中盤になっていることでしょう。
教え子たちには必ずやリーダーとして、
世の中を牽引していてほしいと思います。
まだこの本は読んでいませんが、
まず、同胞である日本人には幸運と幸福であるべきです。
世界で最も理想的な国家になっているべきです。
大学人になって17年ですが、
17年前に私なりに今日のあらゆる領域の脆弱さは想像していました。
そうしたら、なんと3.11という1000年に一度という大天災と、
またもや、
放射能と日本人は向かい合わなければならないことになってしまいました。
私に残された時間を毎日確認しています。
28歳で車椅子になったとき、
ドクターの宣告は40歳までの生涯のはずでした。
だから、せめて体力は衰えようが、気力だけでも健気に社会と向き合い、
私なりのデザインを残したいと願っています。
なぜなら、デザイナーという職能家として生きぬくことが、
私の天命であり、運命であり、宿命であり、だから使命だと思います。
幸運にも、デザイナーゆえに、「夢を創る」仕事で生きぬけるはずです。
読者諸兄にとっても、
2050年をどのように迎えることになるのかは問いかけておきます。
2012年もこれから歳末はすぐにやってきます。
来年、どう生きるか、それは2050年に連続していくことになるでしょう。
私は、学生たちに最近は、次のように伝えています。
「君が中年になって人生に成功している姿を、
私はみることができないことはわかるでしょう、
だからこそ、君の将来は、
君自身で自分の中から紡ぎ出すしかないんだよ」、と。
未来は常に、「夢を抱いて招来すること」、
これが全ての人にとっての使命だと思います。


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「シルバーにすべきだったのだが、最終授業告知ポスター」


   


     10月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

来年、64歳になります。
よって、大阪大学を退官します。
来春からもう一度「自由の身」に戻れます。
阪大に転籍して以来、講義スタート告知ポスターは、
研究室の学生が毎年制作してきています。
そして、短いながらも研究室のある種の伝統(かな?)であり、
受け継がれてきたモノです。
よって、形式は最初の頃から、私の作品写真を入れました。
というのは、「デザイン」という講義が相当にあり、
プロダクトデザインと言っても、
工学研究科では様々な定義が科目毎に存在しています。
そこで、インダストリアルデザイン・プロダクトデザインを
より鮮明にするために「先端デザイン」だけでは語りきれず、
「先端統合デザイン」にしました。
それから、作品写真を入れれば、雑誌でも商品として見かけることから、
「エッ、これが阪大とも関係が・・・・・」、
という期待を持たせるべきと学生からの提案でした。
さて、ようやく退官となると、名残惜しさがあるものです。
それは47歳で大学人となり、
新設された名古屋市立大学・芸術工学部から始まりました。
金沢美大の先輩と恩師からも強く要望されたこと、
もう一つは、母が47年間の人生だったからこそ、
47歳からの私の生き方、
方向を大学人という職能に向けてみようと決心したからでした。
28歳で交通被災し、
被災したといっておかないと印象からか自損事故に思われるのです。
車椅子生活になり、40歳までと宣告まで受けました。
確かに、30歳でふるさと福井に帰らねばならないほど体調を崩しました。
でも、気がついたら40になりそして「毎日デザイン賞」を受賞しました。
けれども45歳で心臓障害となり、それは今も抱えたままです。
10年間で
名古屋市大・大学院博士後期課程完成年度にて阪大に移籍しました。
阪大の第一外科からは最終手術の話がありますが、
なんとか拒否しています。
そしてとうとう、「最終授業」を開始します。
となれば、
本来なら「シルバーのポスター」にすべきだったかと思っています。
よって、来年3月の「最終講義」は
シルバーで案内状を出すべきかとも思っています。
「教科書を書き上げる」と、ある出版社に言ったら、
「是非」と言われて、正直、そこまでのやる気は約束しかねます。
ただし、自由の身になったら喧嘩ではなく
「決闘」の志士になるやも知れませんから。


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