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Posts Tagged ‘風潮’


『「酉年」シンボルにモダンデザインの名作がある』


   


     1月 1st, 2017  Posted 9:23 PM

日本には十二支という暦があります。
昨年は申年であり、この年、世相はめまぐるしい事件が多発しました。
さて、今年ということなると昨年以上かも知れないと聞きます。
毎年、この年十二支「酉年」のシンボルを探します。
「酉年」となると私には鶏が思い浮かぶと同時に、
美大時代には、生きている鶏を2人が一組になって、デザインストロークで、
B3サイズでまず、徹底的なデッサンをし、それから平面、そして
立体にするという「スタイライゼーション」を
ほぼ一ヶ月間厳しい訓練を受けました。徹夜の連続。
最後はこの鶏をさばいてコンパをして食べましたが、現代では無理でしょう。
さて、今年の「酉年」、そのシンボルはいくつか見つかりました。
特にモダンデザインでは著名な作品がありました。
そしてこの二人のデザイナーの仕事は「エッ」て思うほど、
ある素材に拘っていたのです。
ものすごく驚きました。昨年末に入ってようやく日本の基幹産業を発見、
「KK適塾」で発端を紹介し、今年からその詳細に入るとともに、
「基幹産業」の創成、その詳細を伝えていくつもりで、
昨年末もその実験を招聘教授と確認しました。
そうしたら、今年「酉年」シンボルを名作にした二人のデザイナーも
とても大きな興味を持っていて、まだそれらを実現したモノや、
新たな提案はありませんでした。
(そうか、やっぱりここに!)これが年頭の私の想像力になっています。
ついでながら、若いデザイナーは名作を覚えていない風潮があり、
そこで平然として、ジェネリックプロダクト、
これは盗作だということに無頓着になっています。
私は厳しく、こうした風潮に立ち向かう覚悟です。

* 『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
* 『ジェネリックプロダクトの盗用悪用が始まっている』
* 『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』
* 『「造形思考」はイメージの表現=造形への音楽的理論がある』
* 「手を頭脳化するトレーニング=デザインストローク」


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『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』


   


     11月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

「やさしい」という日本語には観自在性があります。
それは「優しい」と「易しい」であり、
この峻別が曖昧にされていた時代がありました。
これは道元的な「四句分別」が必要と行き着いたことがありました。
観自在=思考闊達な想いと思いに、ある意味ではYesかNoかについて、
日本人にはどちらか明確にという世界的な風潮がのりかかりました。
しかし、私はこれを日本の仏教、特に禅宗的な道元思想の中で、
観自在に潜む曖昧性への積極化を「的」という表現に込めたことがありました。
その当時には、思想界においてもこの論理を中村雄二郎先生に
徹底的教えていただいたという幸運がありました。
安全だけども安心はできないことと安心だけど安全だとはいえないこと。
信頼はできるけど信用はできないことと信用はできるけど信頼はできないこと。
主観的だけど客観性があること、客観的だけど主観性が入り込むこと。
私は日本の、YesだけどNoでもあることは、NoではあるがYesということ。
おそらく、日本独自の哲学だから、白か黒かと迫られても、
グレーが存在すること。
こうしたことから、「やさしい」ということにおいては、
優美という決して目立ってはならない優しさある美と、
容易だから易しいだけで美も無視されていることにおいても、
日本人にはこの思考思潮、この重要性を見つけました。
自分の生涯での思考だと、未だに迷っていると言わざるをえません。
けれども「四句分別」で乾坤の生と死を見詰めていると判断しています。

* 『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『思考の「考」は思うことを経験が判断する』
* 『コンセプトから逃走してほしい・・・』


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『美大教育の終焉が始まっている・教員の責務を問う』


   


     7月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

多摩美術大学で年1回の特別講義をしました。
正直、大学をすでに退官したときから
あらためて講義を大切に考えています。
不思議だと自分自身思います。
それはいくつかの大きな理由があります。
まず、わが国の「モノづくり」低迷は産業経済力を著しく悪化させており、
それはデザイン界自体が、相当に誤った方向にあるからです。
そのことに全く平気であり
それでもスター扱いされている悪者デザイナーがいることです。
高校時代だったなら・・・絶対に肉体的な喧嘩をしていたと思います。
美大時代の先輩から、「川崎、あいつ殴ろうか?」といわれると、一応、
「先輩、今は立場があるので勘弁してください」と言います。
多摩美大はデザイン界問題の渦中の大学ですが、
この八王子校は全く違いますが、
日本のデザインが海外からも非難されることを
しっかりと次世代に「デザイナー責務」としての発言を実務活動で紹介。
しかし、年々、美大生は大人しくなっています。
これには大問題があります。
「絵が描けるから美大ということ、文系になっていること」。
高校での管理教育の成果にはとてもまじめ過ぎるのでしょう。
真面目な学生は教員意識の反映です。
本来なら他の教員の教育ベースであるデザイナー実務を知りたいです。
「上から目線」と言われても結構です。
が、阪大で退官後に進行している
デザイン実務はやはり最先端であると再確認しました。
3.11を忘れることは出来ないほど熊本地震も連続しています。
それに対してレジリエンスデザインにこの美大のほんの一部教授にも
参画をしてもらっていますが、学生との一体感は無いようです。
それもそのはずです。
大間違いを放置している大学理事会の怠慢性を訴求します。
「デザイン思考」などの大間違いが「ジェネリックデザイン」となり、
その風潮があったことは書き残しておきます。

*『特別講義・多摩美術大学『制度設計と形態設計』』
*『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』
*『造形言語と形態言語とcodeとmodeと、そして・・・』
*『鉛筆削り・手動と電動を使いこなす』
*『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』


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『デザイン対象となる医療関連の開発について』


   


     6月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

確かに少子化と高齢社会に対して、
医療関連のデザイン開発は対象化できます。
自分のデザインも単なるIoTではなくて、
Internet of Medical Things=IoMeTを具体的に研究開発し、
コンシリエンスデザインの目標にしています。
したがって、この風潮が多少出てきたことも現実ですが、
余りに安易な開発の講座や、現実製品開発が進んできました。
しかし、医療用ということでは、
相当に難しい制度・基準から基礎知識が求められます。
まず、GMPという基準制度があります。
Good Manufacturing Practiceという無菌状態での製造生産があります。
現実商品でも、
食品や医療機器にはこの適合から違反しているモノもあります。
さらに薬事法なる制度が、
医療品だけにとても厳しい審査が待ち受けています。
このデザイン開発は
相当の知識が求められていることが忘れられています。
自分が最近、危惧していることは、たとえば、現実素材があるから、
その生産地場に医療産業を簡単に未来開発として目標化されることです。
特に、現実素材がそのまま医療用に転換できるわけがないということです。
医療用素材は専門メーカーによってと
大学の研究機関で相当に研究されています。
医科大学の医師からの要請だけに基づいた新産業の創成化は
とても困難だということです。
たとえば、現実の素材がそのまま医療用アイテムになることは
まずありえないことを明言しておかなければなりません。
すでに、たとえば手術しても体内留置可能な素材開発は
医療用として開発進化しているのです。
確実に、この医療開発デザインには、
医工連携では困難であることを主張し続けてきました。
医学系・工学系・看護系・保健学系を統合化できるデザイン系が
それこそ、コンシリエンスデザインとして可能になると
記しておかなければなりません。

*『デザインはすでにここまでが必然となっている』
*『仕分けされたプロジェクトの重要性から現政権を否定』
*『医薬品業界の誤った市場認識と経営方針・大錯誤』
*『スピーカー企業の社長は学者であった』
*『IoMeTのためのMedical LogとConnect nome』』


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


   


     4月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を提唱する基本として、
Silienceというすでに古語化している基本的なことばを調べました。
「無意識の知の核心」=silienceが自分なりの定義です。
そこから、コンシリエンス、レジリエンスは勿論のこと、
新たな展開としてパラシリエンスとメタシリエンスへと拡大しました。
パラシリエンスの具体事例として、
「動物実験」を取り上げてみます。
動物実験は、医学的な倫理に基づいて、動物を使っての事前調査です。
これはいわゆるプライミング=priming:実施事前の具体的な調査です。
しかし、動物実験にまでデザイン:問題解決・価値創出・未来創成は
まだまだ登用されていませんから、
この施設・環境にまでデザインは無適用です。
デザインによる医療機器・医療装置などは、
人間工学を超えて動物実験に必要だと断言しておきます。
これこそ、「パラシリエンスデザイン」という、
新たな倫理観によって
事前調査でのプライミング効果の最適性を検証します。
少なからず、問題提起と問題解決というデザインにとって、
この動物実験、新たな動物実験へのデザインを
「パラシリエンスデザイン」として提唱しておきたいと主張します。
実際、これはコンシリエンスデザイン看医工学としての実務として、
新たな医療機器、それも治療機器:
わが国では医療治療器は決して行わない、
この風潮・制度化現象がありますが、
「パラシリエンスデザイン」として、
治療器開発は当然だと提案しておきます。

*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『手の消毒、そんな時代になっている?』
*『IoTではなくIoMetというライン手法』
*『コンシリエンスデザイン事象を創出する職能』


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『レジリエンスデザインを熊本に差し出す』


   


     4月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を次世代デザイン手法として
取り組んできました。
Consilience=Con+silienceから、
ParasilienceとMetasilienceに論理展開を拡張しました。
それにはもっと重大な課題回答としてのResilience Designの実現があります。
地震大国であることは3.11で国民すべての経験になりましたが、
5年経過して、忘却の風潮にあったところで、
九州・熊本ではとんでもない大地震が、それも連続しています。
熊本の後輩はじめ友人たちは無事でしたが、
九州と言っても熊本の事態はとんでもなく、 
3.11の経験や教訓だけではとても対処できる天災ではありません。
レジリエンスデザインを教えている大学はほんの僅かです。
ある大学でその研究費が認められましたが、
「レジリエンスデザインって何ですか?」と聞かれたぐらいです。
人間の精神的強靱力をさらに向上させる、ということを
一言で言いきれば「ストレス=心的障がいを乗り越える」という
この問題解決をすることです。
レジリエンスデザインチーム」で、熊本・九州を支援する程度ですが、
3.11とは全く異なる事態が発生しています。
このチームを創ったら、いくつかのデザイン系大学から
参加の申し込みが来ています。
これは都市計画・建築・環境、そして自然と人工の問題があります。
それだけに、安全と安心、防犯と防衛が関わってきています。
とりあえず、websiteやFacebookなどのSNSでこの展開を開始しました。

*レジリエンスデザインチーム
*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『減災・防災・救災のために』
*『世界中が・March.11.2011ならば・・・』
*『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


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『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』


   


     4月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

「人工知能」が間近に来ていると言われています。
最も「人工知能」というのを、どこまでの範囲、領域、
あるいは性能・効能・機能で語るのかによって限界があるでしょう。
しかし、僕は、人工知能は不可能だと言ってきています。
それは「知能」という日本語がすでに間違っているからです。
「知」を明確化するために
「ち」の日本的な哲学・思想が欠落していること。
つまり、「ち」は日本の伝統的な思潮であり、
それは血から値・地・治・智・致など、知の思想までが
人工=コンピュータで創り出せるだろうかにあります。
かつて僕はコンピュータにはSyntax Errorがあると言ってきました。
そこで、Configuration Error を徹底して排除したのが
ゲームであり、囲碁、将棋。そしてチェスに対して
人間とコンピュータの勝敗はコンピュータが勝ったという論理です。
これで、人工知能はもはや完成の射程距離が明確になってきたという風潮。
すべからく、僕は大嘘だと断定しておきます。
人工知能という性能と機能はPlay Backシステム、
すなわち決定的な「繰り返し作業」は可能になりますが、
これを「人工知能」というのは憚られます。
したがって、Play Backシステムが効能化されれば、
人間の労働環境に異変が起こることから、
必要とされない職業が出てくることは間違いありません。
僕はこれを「人工知能」と言ってはならないと考えています。
知能が完成されるのは、創成・創発・創出という考え出す発明力です。
これを成し遂げる「ち」の思潮がコンピュータに、アルゴリズムに
確実に蓄積される必要があります。
そうした意味でも、あえて「人工知能」は不可能説を
僕は言っておきたいと考えます。
それこそ、ロボットが30年経ってようやく「医用ロボット」になったこと、
この事態と極めて似通っていると思うからです。
産業用ロボットはすべてPlay Backシステムでしかなかったことと同値で
おそらくArtificial Intelligencesでは無理があり、
Consciousness / Information / Knowledge にはすべて
「ち」の思想から理念があるということです。

*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『リトルコンピュータピープルの顔色は人工知能要素かも』
*『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』
*『KK塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』
*『資本主義からの逃走』「各産業の0.5次化という高度化は情報化を加算」


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『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』


   


     4月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

僕がちょうど大阪大学大学院に名古屋市立大学大学院から移籍した頃、
それは2008年頃から「イノベーション」が盛んに唱えられる風潮でした。
それはわが国が「失われた20年」を取り戻すための
一つのかけ声だったものと考えます。
と同時に、僕の講演テーマ依頼も「イノベーション」が求められました。
だから、僕は徹底的に「innovation」について理論武装を始めました。
あれから現在はさらに「イノベーション」が強調されていますが、
根本をすっかりと失っている現在の潮流があると主張します。
現在拍車をかけているのは「デザイン思考」なる経営方法論という商品と
「革新」、しかも「技術革新」のとらえ方すら歪んで来ているようです。
最近はこの歪みが日本の産業界を呪縛し始めていることは否めません。
僕はあらためてこの理由を三つに分別して、デザイン思考の安易さを
「コンシリエンスデザイン」でのinnovationをシュンペンターに遡及し
当初の、「新結合」・「新機軸」というプリンシパルにもどします。
その遡及は漢字「革新」にあると考えています。
「革」とは、皮革の象形文字であることは明確です。
そこに「新」という漢字が関わりを果たします。
「新」という漢字のとらえ方に現代の歪みの問題があると判断しています。
「新」とは、樹木に斧を入れる行為その瞬間性を表していますから、
まさに皮革をピーンと張って、刃物で切り裂く行為そのものですから、
「新商品」というのは、商品に刃物を入れるがごとく、
商品群を切り裂いた瞬間の樹木液が流れ出るような事でしょう。
それはシュンペンターが予知した「新結合」や「新基軸」で
景気そのものに社会変動を起こしたかどうかまでが求められます。
シュンペンターは景気動向に新基軸が入れば、
資本主義経済そのものが異質化すると断言しています。
彼が1927年に学術界で発言の翌々年、1929年には「大恐慌」が起こり、
それは世界大戦の大きなきっかけになっていることこそ、
「イノベーション」は再度大きな検証が必要だということです。
景気動向への「新結合」・「新基軸」が
如何に「革新」あるいは「技術革新と景気」と関係するか、
もっとグローバルに考えられるべきでしょう。

*『商品である「デザイン思考」は経営論にすぎない』
*「『イノベーション』大衆化した原意も疑う」
*『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『球体に働いている力は統合的な知識になる』


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『乳牛は決して美味しいミルクを絞り出すわけではない』


   


     3月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

「牛乳」はミルクです。
「乳牛」はミルクを出してくれる牛のことです。
「牛乳」はすべて美味いわけではありません。つまり、
「乳牛」だからと言って、美味しいミルクを出すわけではありません。
ともかく、乳牛のような職能という喩え話がとても可能です。
それこそ建築家やイラストレーター、グラフィックデザイナーを
まさしく乳牛とするなら、彼らは建築を建て、イラストを、グラフィックを
乳牛としてミルクにすることができます。
果たして、それが美味しいミルクかどうかは不明だと断言します。
ところが、
デザイン=ミルクを出すと思い込んでいるクライアントが多すぎます。
これが電車?これが美術館?このことにも気づかない?が氾濫しています。
乳牛のような職能からのミルクは、
あたかもミルクっぽく見えて、それなりの評価を受けます。
クライアントは大満足しているのです。
このようなまずいミルク=下手くそなデザインに大満足している、
そんなクライアント=企業家が増殖しているのは間違いありません。
40余年デザイナーとして、私は私なりの倫理観で自分のデザインを
それこそ
デザイン=美味しいミルクにするデザイナー=乳牛を目指しました。
だから、なぜそこまで自信たっぷりに、
「こんな不味いミルク=デザインを」、
「この程度のデザイナー=乳牛などいらない」と、
それこそ、断言を惜しまず、結果、喧嘩別れなど平気に生きてきました。
それは反面、自分のデザイン=ミルクを世界でトップに美味くする
自分に課した「使命」だったからです。
毎年、昨年はこれほど我慢したのだから、
今年は絶対に認めがたいモノ、コトには容赦なく断言するとか言うと、
周囲は、毎年そう言って生きているのだから、
何もそうまでして「敵をつくらず」とか言われます。
が、僕は我慢に我慢をしているのです。
 ・「正直」ということ
 ・「正眼の構え」ということ
これほど実際は苦しい生き方は無いことは確かです。
「ミルクはすべてが美味いわけではない」
「乳牛のような存在だから、美味しいミルクのような」
そんな結果のミルクのようなデザインはありえません。
こうした風潮に、
わが国は狂乱した情況にあることは書き残すべきでしょう。


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