kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘解体’


2月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 27th, 2014  Posted 9:30 AM

2月27日 己巳(仏滅)

デザイン自らの解体を常に隠匿して、
デザインがデザインを裏切らなければならない
ラディカリズムは必至であろう。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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2月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 26th, 2014  Posted 6:52 PM

2月26日 戊辰(先負)

デザインはいつでも
解体されていく必要がある、
というのが私の思い込みである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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「デザインは問題解決!・この本質の再整理」


   


     8月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

デザイン=designare→design。
ラテン語からアングロ・サクソン語になりましたが、
この本質を伝えるには、漢字一語がその本質を表しています。
「解」文字、この一字です。
牛には角があり、それを刀で・・・ということは、
解体し解剖し、あるいは溶解します。これが第一段階です。
次に、解体して分解したものを、解釈し解説することで理解です。
これが第二段階になりますから、解説されて理解に及べば、
第三段階は、解放されることになります。
つまり、目の前にある問題・課題・話題となっていることに対して
応答し回答し、そして解決することで、人はホッとするのです。
人は、常に問題を抱え込みますが、なんとか解決してこそ、
やっと解放されることになります。
そのために、人は、問題意識となっていることを
より明解にするべく、問題点に目印=signを付けるわけです。
この目印を付ける行為=do+sign=designareと断言できます。
問題解決された応答・回答・解答はいづれも「答」です。
「答」という漢字も優れて良く完成された文字になっています。
竹冠が「合っている」ことは「箱」という文字と対照できます。
それは箱には竹で編まれた蓋が付いていることと同義なのです。
「答」は最適解でなければなりません。
デザインは、問題点を明確にしていく思考過程に目印をつけて、
その分解・解体・解剖・溶解をすることで、
なんとか解釈をつけ、解説をすることで、理解を促します。
充分に理解できれば、人は解放されて人心地をつけられるのです。
私が、designが問題解決のための思考をめぐらしていくには、
具体的にはスケッチを描く=do+signを思考工程にしています。
たまたま、その目印が装飾的に見えるからこそ、
一般的には安易にデザインは装飾だと思い込んでいるのでしょう。
しかし、「解」・「答」という漢字とdesignareまでを
問題解決の思考に配置していけば、本当に「明確」な、
designの本質にたどり着けるものと確信しています。


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1月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 26th, 2012  Posted 2:18 PM

1月26日 丙戌(仏滅)

デザイン自らの解体を常に隠匿して、
デザインがデザインを
裏切らなければならない
ラディカリズムは必至であろう。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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1月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 18th, 2012  Posted 9:30 AM

1月18日 戊寅(赤口)

デザインはいつでも
解体されていく必要がある、
というのが私の思い込みである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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「デザインを読むという解釈」


   


     7月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

デザインされたモノを知ること。
それはデザインを読み取るということ。
デザインの背景、動機、手法、意味などを
読む=解釈するということになります。
ユーザーにとっては、
デザインされたモノと対峙したとき、
その直感で自分との関係を知るだけのことです。
しかし、職能家としてのデザイナーならば、
デザインテーマ、すなわちデザインが問題解決したこと、
そのプロセスを読み取る=解釈することになります。
したがって自分のデザインではない他のデザイナーのモノ=作品ならば、
「解釈」への手続きは次の三つの段階を経ているでしょう。
まずテーマ・問題あるいは課題を解体したり解剖したり溶解します。
これは問題解決の最初の段階です。
ところが、他のデザイナーの問題解決ならば、
読み取り過ぎることが多々あることです。なければなりません。
その問題解決をしたデザイナー以上に深く、
あるいは大げさなほど知り尽くそうとするかも知れません。
それは解釈し過ぎになるでしょう。
けれども、デザインの本質にとっては、
デザインそのものの社会的職能意義を明確にする手続きです。
デザイン手法をさらに明確化する重大性があると私は考えています。
言い直せばデザインの解釈とはまさしくデザイン評論であり,
デザイン評価の根幹はこの解釈段階にあると思います。
問題自体の解体・解剖・溶解・分解を経て、
そのデザイン要素や要因を解釈・解説し直すという作業の重大さこそ、
デザインの本質を突き止める二段階目だということです。
ややもすれば読み取る「解釈」は、本来デザインをしたデザイナー、
その問題把握力を上回っているかもしれません。
しかし、デザイン評論やデザイン評価が必要だというのは、
この深読み解釈が次のデザイン手法をそのものを
拡大・進化させる大きな手かがりだと考えるべきでしょう。
無論、一つの方法論です。
私は、今や「天才」と言われる倉俣史朗の問題解決、
その手法から動機、結果、意味を深読み解釈しました。
私の深読みが彼を天才にならしめているとさえ思っています。
歴史は、後世その解釈によって、
歴史事実を小さな物語から大きな物語にします。
その中心人物こそヒーローでありリーダーであり天才となるのです。
そしてこの歴史記述こそ、
人間が綿々と連鎖させてきた「知恵」の集積という伝統だと考えます。
解釈をし尽くした時、人は「解放」されることになります。
それが問題解決した効果・結果ということでしょう。
今日、私は「「倉俣史朗のデザイン」」を、
デザイン界の形見として私の解釈を語るつもりです。

夢の形見に」講演会


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『資本主義からの逃走』
   「問題解決にはデザイン的な手法を」


   


     9月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

解とは
時代は大きな変容を招いています。
しかし、その変容を受け入れる世界的な体制を怖がっているのかもしれません。
結局は問題解決でこの恐怖と対峙していくことです。
新しいことは、必ず問題解決に寄り添っています。
だから、問題を解決する方法がもっと詳細に考察されるべきでしょう。
デザインは、問題解決の実務的な手法です。
しかもそれは解決をつけた結果を「かたち」にすることができます。
ただし、その「かたち」は見えるモノもあれば、見えないコトもあります。
私なりの「解決」を紹介することにします。
これは文字「解」一つに集約しています。
この象形文字は、まさに角のある牛と刃物で構成されています。
見て分かります。角のある牛は、古代中国では「物」の原義でした。
つまり、物を刃物で切り裂いていく行為を表しています。
問題解決の三段階

 ■ 第一段階・分解したり、解体したり解剖します。
 ■ 第二段階・分解した物を解釈、解説、理解する必要があります。
 ■ 第三段階・理解すれば、気持ちが解放されることになります。

この三つの段階を問題視している「物」=対象に向けていくことです。
けれども、どうやって分解・解体・解剖するのかということが立ちはだかります。
アポリア
この段階をどうしても超えることができないことをアポリアと言います。
さて、20世紀に人類が残してきた様々な問題が、
アポリアになり過ぎていると言ってもいいかもしれません。
第一段階を営為する情報=知識や意識は、相当に人類は蓄積してきましたが、
この三つの段階それぞれが、何の決着をなぜ希求しているのか、
これこそ大きな問題になっているということです。
私は、デザイナーとしてデザイン実務で、
問題の問題を分解・解体・解剖することをめざしています。


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『資本主義からの逃走』
 「解にある三つの手続き=問題解決の三段階」


   


     3月 11th, 2010  Posted 1:46 AM


「解」という文字も素晴らしくわかりやすい漢字です。
角があるウシに刃物ですから、
そのまま、ウシという対象物を刃物で「解体」する、
と考えていいでしょう。
解体・分解・解剖
だから「対象物」を「解体・分解・解剖」する。
これを第一段階とします。
そうすると、
今度は、「解体や分解や解剖してみたモノやコトを」、
「解釈・解説し、理解」しなければなりません。
これが第二段階です。
解釈・解説・理解
そうして、解釈することができる。解説することができる。
こうしたことは、第一段階でのモノ・コトを、
理解しないと出来ないことです。
そうして、理解しているから解釈もできる・解説もできる、
ということにつながります。
解放
この第一段階・第二段階で、やっと「解放」されるのです。
つまり、そうだったのか、「答が見つかってホッとした」。
この問題から解放された。
それこそ、「問題解決」あるいは「難問解決」からの解放です。
これが、「問題」ー「解答」です。
これまで、
「話題」ー「応答」
「課題」ー「回答」
ということから、真に、デザイン解決というのは、
「問題解決」での「デザイン解答」であるべきなのです。
問題ー解答
ProblemーSolution
Design Problem—Design Solution
これに至るのは、
「解」と言う文字に潜んでいる三段階だと私は確信しています。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義で民主主義を防衛している大きな錯覚」


   


     1月 6th, 2010  Posted 8:00 AM

錯覚

民主主義は、近代市民権で最高かつ最大の理想主義?。
私はそうは思っていません。
民主主義はある意味では、
「無血革命」での勝利成果なのでしょうか。
そうだとするなら、
「革命」は、民主主義の体制下では不可能だと思います。

だから暴力的な「革命」を私は望んでいるわけはありません。
なぜなら
「革命」と「革新」は、まったく意味が異なっています。
「革命」というだけに、「いのち」がかかっています。
「革命」は血が流れて「痛い・苦しい」はずです。
そんなのは嫌です。
「痛い・苦しい」というのは、
私はどれほど体験してきたことでしょうか。
だから、
民主主義は本来、決して、
痛かったり、苦しかったりでは無いはずです。
ところが、人生・生涯には、痛みや苦しみがあります。
それを民主主義が全て解放してくれるわけではありません。



「革命」の革という象形文字は、解体された獣の皮です。
「ピィーン」と張った「革」に刃物を入れることが、
「革命」・「革新」の「革」を表示しています。
私はもう一度、問い直します。
民主主義は語られれば語られるほどの理想主義でしょうか。
絶対に「民主主義」が大きな隠れ蓑になっていると思います。
その隠れ蓑を補強してきたのが資本主義かもしれません。
そろそろ、民主主義が民衆主義を言い換えている、
その事実をあぶり出す必要が私はあるとさえ思っています。
資本主義と民主主義の狭間に常に起こっているのが「錯覚」。

私はこの「錯覚」を見極めてこそ
「美」・「義」・「善」が、
やっと自分の表現に込められると考えています。

美・義・善


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