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Posts Tagged ‘聴覚’


『TV映像と音響のHi-FiとWi-Fi化はこれからだ』


   


     7月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

とうとう踏切ました。
これは自分にとってはとても大事で最大に大きな決断です。
それはTV周辺の音環境を無線化するということです。
これまでもいくつかのアンプとスピーカーシステムを使ってきました。
いわゆる映像と音響の世界は、元来はプロであり、そして音響関係において
実際には絶対に最高の環境であることが自分命令でしたから、
ワイフに「また、変えるの?」とずーっと言われてきましたが、
ハイフィディリティ=Hi-Fiな音でなければ、自分の聴覚が狂っていると
思ってしまう、その怖さがあるからです。
7.1chにしてきました。2.1ch、5.1chも試してきて、3.3chを試します。
おそらくこれだけの音環境は自分以外はありえないと思えることが大事です。
それこそ、洋画をTVで観ていても、戦闘場面などは部屋がゆれるべきです。
ライブ音楽コンサートも、絶対にステージのPAと同等であるべきです。
劇場場面もこれは下手くそな劇場PAだなということです。
(日本の演劇PAは酷いといつも思っています。無論、劇場によります)
そのためのリモコンも今はスマホでもコントロールできますが、
もう全てをWi-Fi化しようと決め込んで、機種選定をしてきました。
このデザインそのものには言いたいことがいっぱいあります。
LINNで、あるいはドイツで調整しつくしたDENONでとか、
センターはJBLでという体験が自分の決定を客観的に待っていてくれます。
結果、SONYの今後への拡張性を期待したサラウンド方式のWi-Fi化に
とうとう踏み込んでしまいました。
ワイフへの理由は、ともかくスピーカーシステムが無線となり、
現状のスピーカーが激減するからと納得してもらっています。
正直、これまでの7.1chの有線システムはしばらく残す余裕をもらっています。
TV映像と音響の関係はEIZOでFORISをデザインした頃から、
相当に進化はしていますが、HiFIとWifiはまだまだ欠落があります。
やがてこのシステムはあと2台のスピーカーシステムで完成するでしょう。
が、また映像オーディオへの欲望は活性されるかもしれません。

* 『IoTは、再度アナログとデジタルの融合が基本』
* 『7.1chTVのセンタースピーカーはこれからエージング』
* 『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』
* 『音場空間を再調整再整備し直しました』
* 「正直な造形をめざすことは裏表無し」


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『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


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『音場空間を再調整再整備し直しました』


   


     12月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

何度でも言いたいのは、私はオーディオの世界から
デザイナーとして出発したことでした。
美術学校でデザインを学び、そのおかげで絵画から工芸を知り、
オーディオの世界では、徹底的にクラシックを、ピアノ曲を、
ヴァイオリン曲を、オーケストラを、そして現代音楽を学んだことでした。
一端、私はCDを離れていましたが、
再度、CDプレーヤーをリファインと調整をしてもらって、
「音場」をもう一度、自宅の音響空間を再調整できたことです。
一度は、CDをほとんどハードディスクにリッピングをしましたが、
自宅には、「音像空間」と「音場空間」を整備しています。
もう一度それらのすべての再調整をしてもらいました。
幸いにして、EIZOのFORISは、EIZOで自分が関わった最終製品ですが、
これは未だに4K液晶TVに至適する性能を持っていると自負できます。
「音像空間」では、最もボーカルやソロ演奏が確認することが可能ですが、
「音場空間」は、それこそ私が美大の卒業制作でも目指していた、
その音響空間が可能になっています。
すでにCDプレーヤーシステムはもう1セットを隣室に準備してあり、
それも今徹底的に調整中です。
本当はLPレコード再生も、レコードプレーヤーとカートリッジを
3セット並べたいぐらいですが、そこまでのスペースはありません。
どこかにもうひとつ自宅あるいは別荘にでも音響システムが必要です。
少なからず、視覚と聴覚は最もまともにしておきたいと考えます。
正直、建築家やインテリアデザイナーで音響に長けた人物は居ないとさえ、
私は思っているぐらいです。
ともかく、次世代には本当の音響空間を聴かせたいと思っています。
そのためにも、自動車においても、今、何が最高のシステムであるかを
私は徹底して求めていきたいと考えています。
自宅寝室と自宅玄関は、
こうした音響と映像をすべて最高のコントロールへ、
それは私自身が実験することで、最高の映像、最高の音響、
それも音像と音場が必要であり、
幸いにして、自宅空間のWi-FiやIRを制御することでは、
プロとしての空間と装置には徹底的に拘りたいと考えています。


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「限り無い物欲を離れたくも・・・」


   


     5月 18th, 2013  Posted 12:53 AM

もう物欲などまったく不必要だと自分では確信しています。
しかれども、私は「モノづくり」を天職としてきました。
それは、モノ=物欲に向かわせる職能だと思っています。
だけど、物欲についても徹底的に自分の物欲で、
その作用点・方向・大きさを検分してきました。
すなわち物欲のベクトルを自分で実験をしてきたことになります。
一方で、
私は「デザインは欲望装置=物欲の刺激装置にあらず」を、
積極的に果敢に書き、述べてきたことも事実です。
物欲ベクトルとデザインベクトルを対象にして、
その対峙化・対照性・対決性までそれなり詳細に考えてきました。
ところが、私の物欲ベクトル、このコントロールが、
完全破壊される物欲領域はどうしても抹消できません。
この物欲領域は正直もう抹消する時期だと充分に分かっています。
その一つがオーディオです。
かなり自分の周囲を整理しなければならないと思っています。
これまでも、もう使わないと言い聞かせて、
できる限り、スタッフに配ってきたりしました。
ところが、ヘッドホンの新機種が出ると、
なんとしても、「その音」を自分の耳で確かめたくなります。
また年齢が加算されれば「聴覚の衰え」も分かります。
これも新製品の技術とその品質性、無論デザインも気がかりです。
ヘッドホン・アンプも、とうとう限界を知り、
通常のデジタル対応プリメインアンプでこそ分かるはず、
こんな物欲を相当に自分で押さえ込んできました。
理由は二つあるのです。
なんといっても、オーディオの物欲は消去決定しました。
もう一つは、
ワイフは新製品をプロのデザイナーだから見逃してくれます。
しかし、オーディオに段々とインテリアがその色になりだすと、
怖い存在です。
最近は、ショッピングはいとも簡単ですから、
私には最適な環境になっています。
これが私の最大の敵だと思います。
大きな段ボールが郵送されてきて、ずばりとばれます。
ともかく、今、このヘッドホンとアンプは、
多分最適な頭部音場空間を私に与えてくれるのです。
この物欲ベクトルは、必ず、整理し消滅させる時期です。


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「情報化への入り口は記号論or記号学だった」


   


     11月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

農業革命?工業革命?情報革命は三つの波に喩えられました。
しかし、この三つの波だったという認識は、
教養になっているだけです。
そして、現代の学生たちには詳細に伝えなければなりません。
農業革命によって農場は失われ、
工業革命によって工場は失われ、
日本はアジアに振り分けて、肝心な工場も失いました。
情報革命がもたらしのは社会が劇場化したことです。
あらゆることが社会現象という劇場化になっています。
にも関わらずこの実感の認識は,
下意識にしている社会的なリーダーは限られています。
私は一刀両断的に、
「商品づくり」=「工場の劇場化」が必要だと主張します。
さらに突っ込んだ言い方をしてしまえば、
「商品づくり」を終わらせて、
「記号づくり」に向かうべきだと教示せざるをえません。
なぜなら、記号化とは、
コードとモードを混在化しながら、この記号はコードなのか、
あるいはモードとして意識化しているのか、
すでに下意識に入りこんでいるのかも不明な大衆意識を
「文化」だと言い出すジャーナリズムすらあるわけです。
いやはや、
ここまでの前段は読解困難なはずだと知りつつ続けます。
しかし、メガネや車やジーパンやジッポーを取り上げてきました。
それぞれの事例によって、
「これが記号になっている」と説明してきました。
ひとまず、佇んでみてください。
あなたは、商品選択をしているのではなくて、
記号選別をしていることに気づいていただきたいのです。
たとえば、ブランドモノのツールを使用していれば、
たとえば、ポルシェを所有していれば、
それらは、すべてツールではなくて、
明らかに所有している貴方自身を
社会に表現しているメディアになってしまっているということです。
だから、商品ではなくて、
当初から「記号づくり」を産業経済に組み込む時期になっています。
0と1という記号そのもので「情報」が組まれ、
記号は「情報」で書かれたテキスト・聴覚映像・画像が背景です。
私は、もはや、わが国が先導していくには、
「商品」を捨てて、当初から「記号」と「情報」にこそ、
国際的にこの知識と意識を集中させることでこそ、
この国難から脱出できるものと推測しています。
ツールはデザインによってメディアとなり、
商品はデザインによって記号になるでしょう。
そして、記号の背景あるいは記号が構築する
環境、情報環境がこれからの世界観だと確信しています。


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「アンプジラ・パワーアンプ(電質)の音響聴覚」


   


     12月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

「食通」とは味覚が優れているという言い方です。
しかし、これには大きな誤解があるというのが定説です。
つまり人はその人の味覚のホメオスタシス的な定常性が、
14歳までの食習慣で決定すると言われています。
私は多分、五感覚=視覚・聴覚・味覚・触覚・臭覚も、
幼少からの環境で決定づけられると思っています。
それは「刷り込み」=imprintingと同値だと言ってもいいでしょう。
私は美大時代から本格的なオーディオマニアになっていきましたが、
当然ながら東芝総研(現・ 東芝中央研究所)の音響研究所、
そしてAurexの製品開発によって聴覚は鍛えられました。
当時市販されているほとんどの音響システムを
聴きつくすほど贅沢な期間でした。
そんな中で特に自分がイコライザーアンプ直結のパワーアンプ選びで、
あらゆるアンプを聴き比べた結果、一台のアンプが私を打ちのめしました。
それは当時GAS社の
ジェームス・ボンジョルノ氏設計のパワーアンプでした。
そして数年前大阪に来てから、彼の新作AMPZILLA2000に出会ったとき、
私の聴覚コントロール機器は決定しました。
おそらく私の生涯は彼のパワーアンプ以外は
ありえないとまで納得しました。
スピーカーシステムに送り込まれる寸前の音響を
電流・電圧による「電質」で制御するのは彼の思想表現です。
だからといって、ただ信奉するだけでなく、
冷徹に他のアンプも聴き分けを試みることにしています。
それでも、やはり彼の音響設計に戻ってしまいます。
このアンプよりはるかに高額なモノであっても、
彼のこのシンプルかつ大胆な設計思想が最高です。
単純には電圧昇圧させるトロイダルコイルスタイル、
ただしこの巻き方はJBLのスピーカーコイルにも通じています。
取説には、万一、感電事故になっても個人責任と書かれている製品です。
製品とはこうあるべきです。個人責任に使い勝手をゆだねることです。
したがって、家庭用の電流と電圧50Hz・100Vも、
定流電源装置とメディカルコードでこのアンプを支えています。
ジェームス・ボンジョルノ氏的な発想を引用すれば、
音響だけではなく、多分、映像も、
定電源装置までの気遣いが感覚を支えると判断しています。
つまり、私は電力には電流と電圧という「質」があり、
もし、これを「電質」と呼ぶならば、
これは私たちの五感にも大きく影響していると考えています。

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「見ること聴くこと・支えてくれる物質」


   


     6月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ロドプシン。
専門的な呼称は色々あります。
大学時代に「葉緑素のような物」、
それが最も印象に残っています。
視覚物質と一応呼ぶことにしています。
一般的には、自動車免許の試験問題に、
暗所視反応とか明所視反応とかで、必ず問題になっています。
トンネルに入る、明るいところから暗いところに入る、
そうすると目がその明暗に反応するという、
明暗を視覚細胞がコントロールされている物質です。
これは視覚細胞にどう働いているかということですが、
このロドプシンは、視覚だけではなくて、
聴覚にも影響を及ぼしているのかもしれないと思います。
あくまでも私流の推測ですが、
たとえば、目を閉じてオーディオで音楽を聴くのと、
目を開けたまま、
音を聴くのとでは違いが絶対にあると思っています。
それは、音をさらに精微に聴くというのは、
まさに「音色」という言葉を日本人は持っています。
音が見える、という感覚は、
闇という文字にも表象されているように、
暗いところで、視覚物質の働きは、
音が闇の中で、色付いて「見える」という感覚です。
音が見えるというのは、
ロドプシンが視覚から聴覚にも認識性を与えている、
そんな気がしてなりません。
したがって、明暗のコントロールが、
音色を感じ取る感覚に通底しているのでしょう。
音が「見える」ということには、
視覚物質であるロドプシンが、
聴覚細胞にも繋がっているという私なりの想像力です。

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「資本主義からの逃走」
   「聴覚感覚という触覚の重大さ」
  


   


     3月 4th, 2011  Posted 2:07 AM

触覚感覚訓練の色彩演習
人間には五感があります。
職業柄、まず視覚は当然ながら、
聴覚と触覚には特別な私なりの想いがあります。
美大時代は、視覚と触覚が訓練されたと思っています。
視覚はともかく「見える」とか「見え方」の正確さを体感させられる実習の連続でした。
それから、触覚は色彩演習で体得させられたと思っています。
色彩演習というのは、ともかくポスターカラーといっても外国製の高価な色剤を,
筆ではなくて指先で混色することを指示されました。
徹夜で、絵の具皿にまず一色を選んで水を混ぜ、
指先でさらに色剤の粒子をつぶすかのように混ぜます。
そして二色目を混ぜると、微妙に色には温度感があるように感じるのです。
教授の意図がこの感触で色のことをマスターせよ、ということだったのでしょう。
この演習によって、私は触覚という感覚認識を大学で識ったということです。
こうしたことを基本に、私は様々な材質を触って覚える癖がついたのだと思っています。
視覚、触覚、さらに聴覚を対象としたオーディオ機器デザインの世界に入っていったわけですが、
私は聞く・聴くというのも聴覚という触覚だと思っています。
たとえば、直喩的に聴覚と触覚を同次元で統合的に感得するならば、
楽器に触れてその楽器の音とが共鳴するかのような感覚を思い起こせばいいわけです。
私にとってとりわけ親しみ深いのは、
トランペット=中学時代ブラスバンド、エレキギター、アコースティックギターなどですが、
ピアノやドラムも音=聴感と、その音響=音感が指先や耳元で感じる共鳴感のようなものです。
私は、自分がデザインを教える立場になって、
実習課題では「音具」と「動具」というテーマを与えるトレーニングメソッドを持っています。
このテーマについては別稿にしておきます。
体感経験と直感
ともかく、触覚は皮膚感覚ですが、聴覚も少なからず生理学的には耳の中での皮膚感覚です。
そして、さらに重大で重要なことは、触覚と聴覚、
この二つこそ視覚よりも正確な直感に結びついているのではないかと私は思っています。
触感と聴感の経験を重ねることが「直感」を鍛えてくれる気がします。


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『資本主義からの逃走』
    「 視覚空間は存在しないことを認識する必要がある」


   


     10月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

感覚空間

空間を形容すれば、何々空間という言い方は可能です。
そして、何々空間に対しての空間認識があるでしょう。
その空間認識に対して、形態認識が付随、
あるいは認識の対象性=情報認識があるということが理解可能です。
人間の五感に対応することでは、五感・感覚空間が存在しているということは認識可能です。
しかし、視覚=実際に見えるという空間は、
実は不在であり非在であることを明確にしておく必要があります。
喩えるなら、「かたちというかたちは存在していない」ということに等しいわけです。
つまり、「視覚空間」という言葉を与える空間があるのだろうか、ということです。
「視覚空間」は無いと断言していいでしょう。
次元空間
というよりは、視覚能力は無限という次元空間ですから、
この空間には「視界」という言葉が与えられます。
人間の視覚能力は、他の聴覚・触覚・臭覚・味覚にはそれぞれに対応する空間、
その設定や仮説化は、感覚空間と呼ぶことで仮設化可能です。
しかし、視覚は実際は何万光年という次元空間=宇宙を「見る」ことが出来ます。
そこで私は、「視覚空間」という言葉ではなく「視界」という
次元的な言葉があてがわれていると考えてきました。
「視界」に存在する物・モノ・ものを認識するためには次元空間の認識が必要です。
万一、「視覚空間」という表現をするとするなら、
レトリック・メタファー・アナロジーとして運用することは許容されるでしょう。
視覚の要点・要素・要因
けれども、「視界」という言葉の存在を認識することは、
空間認識とさらに形態認識を区分したり分別するために、まず、次の手続きが必要です。
視覚は、視点・視線・視座・視野・視界という空間認識の要点や要素で成立しています。
視覚構造と呼んでおきます。
視点は、必ず二つ存在します。
どこから(eye-point)=視座であり、どこを(view-point)があります。
その二つの点によって視線=まなざしができます。
そのまなざしが要因となって変動する=dolly(CGでのカメラ視線術語)軌跡や対象空間が、
視野であり視界という空間です。
この空間に形態の存在・非在・不在が具体的な形態認識です。
仮想空間
情報空間には、視覚空間はありえず「視界」となる情報空間の設定によって、
初めて空間認識、さらに形態認識ができるということです。
そこで、抽象的なあたかも視覚認識できうる形態認識は、
あくまでも仮想空間=Virtualityであって視覚空間では無いということです。


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5月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 5th, 2010  Posted 9:00 AM

5月5日 赤口(乙卯)

視覚=見る、あるいは見つめるだけでも
経験や体験の一部にはなる。

しかし、
視覚による体験をベースに
体感までに到達するには、
聴覚・嗅覚・触覚・味覚で
置換できるパラメーターを
決定する必要があると思う。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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