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Posts Tagged ‘簡素’


『コラボという乗っ取り?、流行は「病」である』


   


     9月 27th, 2017  Posted 12:00 AM

メガネのデザインに取り組んでこれも30年を超えました。
そしてメガネは極めて流行品であることから、
メガネデザインはファッショントレンドに大きな影響を受けています。
しかし、私のメガネデザインは常にメガネ装着での問題解決や新素材、
そして眼球保護との関係を医学的な解剖からも見てきました。
多くのブランドがほとんどファッショントレンドに流されています。
だから、私には気になるブランドはたった一つだけです。
このブランドが何を提出してくるかだけに注視してきました。
先般、話題多くのファッションブランドのお店を見て回りました。
それこそ私のかつての教え子のお店をじっくりと見て、
本当にここまでよくやりきってきていると感心しました。
そしてとても気になったことは、
こうしたファッショントレンドでの流行は何か一つを掴み取ると、
それがあたかも素晴らしいモノづくりという印象で
流行という病に冒されているようです。
どこのブランドでもこういうのが流行していますと語っています。
「何とかデザイナーとのコラボです」とか、
「何とか産地とのコラボです」がやたらと流行っています。
私は一言、切り返しました。
「そのコラボっていうのは、乗っ取りでしょ」って、
ワイフに叱られました。店員さんが怒っていてそんなこと言っては駄目。
コラボです=乗っ取りです、
だから、デザインというのが何も進化をしていないのです。
デザイナーとして40年以上、このモノづくりをじっくりと見ながら、
まだこんなことも解決していないなんて、と思うことがしばしばです。
スプーンとフォークも随分とその商品性を見てきましたが、
このアイテムにも多少のトレンド性はあるようですが、
私が最も大事にしている簡素・簡潔・清潔は何も解決されていません。
世界中でたった唯一のメーカー、そのデザイナーだけが解決しています。
そこには流行は無いのです。なぜなら、流行という学術的な解釈は、
実際は病気であり、時代が引き込んでしまう病なのです。
ようやく、私デザインで
このファッショントレンドをスプーンとフォークで問題解決を図ります。

* 「メガネフレームはまず自助具でありき」
* 『「ブランド」論を語る無知なコンサルタント信ずるなかれ』
* 『製品から商品へのデザイン投資のサインカーブ』
* 『美しいモノ、バウハウスでのデザイン・チェスセット』
* 『赤・この色がブランドを決定づけている』


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『ハサミを鋏から「刃裟美」としての相対論の記述』


   


     9月 8th, 2017  Posted 12:00 AM

ここ5〜6年、ハサミの進化はめざましいと言っていいでしょう。
これは日本文具大賞の審査委員長としての明確な印象です。
刃先=ブレードの形、その素材質、仕上げから、
指かけリング形状、ダブルインジェクション(二色同時成形)での
そのプラスチック性質の質感が
極めて明確さがあり、授賞を認めて表彰してきました。
それは、日本文具大賞に選ばれれば必ず大ヒットすることになっています。
けれども、私には、私がデザインで最も追い求めている美しい性能、
美しい存在という効能、
その性能は越前打刃物が750年でのビッカーチ硬度は世界トップ、
幾何学的には、簡素で簡潔な形態で、
素材はブレードはステンレスサンドイッチされた高品位ステンレス鋼、
そしてフィンガーグリップは、ステンレスのみを「刃裟美」として商品化。
もう30年前の作品で商品です。
どこに売っていますか?という質問を受けますが,
そういうことは分からないのです。
だからタケフナイフビレッジにあの商品これだけ送って?とかで電話すると
「今は造って無いよ、半年後だったら」と言われる有様。
しかし、これがハサミを「刃裟美」としてデザイン史に歴然残すことでした。
なぜ、人類がハサミを必要としたのでしょうか?
それは紙を切ること、あるいは何らかの対象物を切る使い勝手を
知恵で現代にまで進化させてきたのです。
それは紙では無くて体毛、人間ならば髪の毛だったことです。
さらに、刃物の切れ味は、段ボールを切ること、
そのためにブレードにアール形状は進化の一つです。
むしろ、ティシュペーパーのような薄紙をぬらして、
下方から上方に5mm程度切れば、
詳細な検分をすれば、5mm+1〜2mmは裂けているのです。
これが性能と効能であり、使い勝手基本の機能性なのでしょう。
この原点に、最も簡素で簡潔な形態の最大公約数はデザインに
しっかりと私は引き出したという、その形態だと確信しているのです。
おそらく伝統工芸での歴史的な技を、
現代の科学的にも行き着いた素材での回答事例を
かたちとことばにして、記述したことです。
それこそがハサミ=鋏に美=刃裟美としたことです。
このブログ記載も
ささやかなかたちとことばの相対論的な記載だと伝えます。
ハサミの原点の回答はこれであり、
今商品としてのモノはまだまだ応答商品でしかないのです。

#『日本文具大賞・機能部門グランプリが示していること』
# 「まだまだ見つけ出すことがある、ようだ。」

* 『伝統工芸での和包丁には間違いがあり過ぎる』
* 『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
* 『腕時計というモノの機能性、その反射・代謝・照射ゆえ』
* 「モダンデザインによる製造の完成度アップ」
* 「伝統とは『裏切る』ことへのアプローチ」


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08月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 15th, 2017  Posted 12:00 AM

08月15日 大安(甲戌)

簡素とは、
質素で素朴なことでは
絶対に違う。
潔白で無飾な
絶対的な存在性にある
美しさである。

川崎和男の発想表現手法


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08月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

08月12日 友引(辛未)

簡素で簡潔が
清潔の基本である。
単純なモノは、
決して
簡素でも簡潔でもない。

川崎和男の発想表現手法


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『「手づくり」本質の鉛筆削りで手先感覚を確認』


   


     7月 26th, 2017  Posted 12:00 AM

正直、最近は私自身、本当に鉛筆を使わなくなりました。
だから鉛筆削りも日常的ではありません。
けれども自分デザインではMoMA収蔵の「スコラ」という
伝統工芸・越前打刃物での鉛筆削りを作品にしています。
だから、器具としての電動鉛筆削りから高級である鉛筆削り、
そして、手先でのくるくる回して削る鉛筆削りを気づくと収集していました。
私は収集癖が相当にある方だと思っています。
よく、収集なんて、とかを心情にしているそれもデザイナーが本懐のごとく、
それを言い切ることで、自分デザインが優れているかのような、
そんなデザイナー作品はやっぱり手抜きが多いと断じます。
手抜きがいかにも簡素?簡潔?というのは全く間違っています。
収集するということは、「何を持っていないか」ということなのです。
私は文具は大好きであり、日本文具大賞の審査委員長でもあります。
文具という100円から2000円、5000円のモノが日本の経済を支え、
しかも日本人らしさが最もよく反映している繊細な気配り商品なのです。
だから、私も「スコラ」という筆記具との対峙を大事にしました。
最近はレントゲン写真まで撮っての鉛筆削りまでが創られる日本です。
今、鉛筆愛用者はシャープペンシルに相当に置き換わりましたが、
鉛筆の進化で愛用者が増加しています。
私は今では色鉛筆は必ず手先の小さなモノ=鉛筆削りで削っています。
そしてなんと450円なのに「手づくり」入手困難驚きの一品があります。
それは削り刃の製造製作と研磨までが最高のモノ(点線円形内)です。
本当の「手づくり」を人間は追い求める最後の時代なのかもしれません。
しかし、「手づくり」で最高級はビジネスジェット機なのです。
デザインと「手づくり」をいつも考えています。

* 『鉛筆削りナイフ・伝統技の記号づくりと情報づくり』
* 「伝統とは『裏切る』ことへのアプローチ」
* 「プロとして元気の素は鉛筆への作法」』
* 『鉛筆削り・手動と電動を使いこなす』
* 「自動車デザインはもっとビジネスジェット機から学ぶべきだ」


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『デザイン提案・製品化から商品展開は素早く』


   


     7月 16th, 2017  Posted 12:00 AM

New Yorkの友人から送られて来た携帯用のナイフ・フォークセットです。
さすがにデザインでここまで解決つけているというお手本だと思います。
私も携帯用にしようと様々なアイテムを常に考えていますが、
こういうデザインを見ると、この簡素さにはびっくりします。
そうか、この解決法があったんだと関心すらしてしまうのです。
現在、私には本当に難しいデザインテーマがミッションになっています。
論文を読んだり、世界にはまだ存在していないモノを発想しています。
時々、もっと日用品で簡単なモノがやりたい、とか思って、
(簡単なモノなど無いことは十分にわかってはいますが)
それこそ100円ショップに行くと、いわゆるアイディア商品に出会います。
もう驚愕するような超便利だと思う日用品や台所用品には、
これって市価の3分の一が原価だとしても、
ここまで出来ちゃうのか、とか思います。
それこそ「除染素材」を発想したり、
火蟻こそ深紫外線レーザーで滅却することが出来るかもしれない。
ともかく思いつくことが本当に増えてきています。
しかも今では3D-printerで、とりあえずの造形確認ができます。
かって、光造形で線には太さがあり、面には厚さがある。
だから、いわゆる点には大きさがあるからこそ、
カンデンスキーの「点・線・面」での
予知は正解ヒントを与えていたのです。
今ではデザイン審査をする立場ですが、
自分デザインを審査してもらいたいとか、
新しいデザインアワードの登場を見つけると応募したくなります。
かって今では大きなデザインアワードになりましたが、
遺伝子での検査システムは、日本代表にもなりましたが、
最終選考ではとても難しくて評価判断が出来ない、とか。
そうした審査が出来ない審査員でどうするのだろうと怒りさえ生まれます。
それだからデザインは時代を見失っていると思ったことしばしばです。
最近は製品デザインを提案してからも、
それが商品化されるスピードは、とても遅くなってきています。
これも時代風潮かなと思わざるをえません。
しかし、私は日本のモノづくりを堅持していくには、
絶対に提案したらすぐにプロジェクトが開始されるべきという
この考え方は変えないつもりです。

* 『「森羅万象悉く紙なり」とは神と死に直結している』
* 「易しそうなテーマだが難しそうなデザイン解」
* 『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
* 「刃物・ナイフの基本の徹底基本」
* 『民藝の美とデザインの美は区分分別されていた』


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『お米という簡素で簡潔な美しい主食文化』


   


     3月 6th, 2017  Posted 12:00 AM

お米と言えば、「コシヒカリ」ですが、
この米が福井県農業試験場が創ったことはあまり知られていません。
私はこう言います。
「コシヒカリ」は最高であり、魚も最高、カニも最高、
それが北陸であれば、福井の魚が富山湾で捕まっただけであり、
カニも「セイコガニ」の二級品が
マツバガニ、コウバコガニと言い切ります。
京都には魚を鯖街道で送り、奈良のお水とりも福井から送っている、
五か条のご誓文を書いた東京府知事も
由利公正と「ふるさと計数」が高い人間です。
そこで、
日本の「お米文化」は「日の丸弁当」「卵かけご飯」「握り飯」が、
世界で最高の主食であって、それこそ、梅干し、卵、焼き海苔は、
決定的な栄養バランスがあるということです。
それこそ道元・永平寺(福井)による応量器から典座教訓こそ、
人間道のあり方そのものと考えます。
それこそ民藝作家と言われた黒田辰秋の漆仕上げのお櫃は、
漆黒の中に白米に緑の海苔が振りかけられた美しさは、
日常に常に配置しておきたいと思う美しさです。
お米・梅干し・卵・海苔という
絶大な組み合わせの簡潔さを確かめるべきには
毎年、コシヒカリから様々な商品ブランドが生まれています。
しかし私には納得がいかないネーミングが多いと言っていいでしょう。
お米と炊飯器の技術進化はとてつもなく素晴らしいのですが、
なんとも、インダストリアルデザインでは素晴らしいのは
3点程度しかありません。
祖母がこれ以上きらめく炊きあがりのご飯は、
お釜の底にはマムシが一匹入れてありました。
これは偉大な知恵であったと思いますが、その当時の知恵生活こそ、
はるかに「豊な日本の時代」だったと思い返します。

* 『お米は合鴨米か、コシヒカリ』
* 『米=日本人のエネルギーの素、誤魔化す事は犯罪だ』
* 「甲殻類アレルギーでも、蟹は食べる!」
* 『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』
* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」


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『資本主義からの逃走』   
「Mー素材がかたちを呼ぶ」


   


     4月 8th, 2010  Posted 12:01 AM

Material
アルファベットは、表音文字と言われています。
しかし、これは正しくはありません。
ヒエログラフから派生した象形からの歴史性をもっています。
したがって、このMが最も端的にその意味性は、
「m」という小文字のアルファベットに象形的意味があります。
m
上部の形は、「波」表面の形です。
ここからおおよそ、海・羊水・振動という原意につながります。
Maritime=海は、umi=umuという「生む」ことです。
umu=umiはシュメール語・サンスクリット語に同等同値です。
なんだか、怖くなるほどの意味性がアルファベットに存在しています。
Mother=母、その羊水、そして振動=Musicに展開し、
Matetial=素材というところまでの言葉の拡大は意味性が、
見事なまでに、世界要素になっていることです。
私は、素材=MaterialがMotherであり、
素材が生み出していく、ひとつが「かたち」だと思っています。
そして、素材の「素」からも、
あるいは「振動」からも、かたちの源である素材を求めます。
これはすでに私の慣習にもなっています。
常に、何かモノのデザインでは、「素材」へ回帰し帰着します。
かたちの母だと考えることが出来るからです。
「素材」が生み出してくれる具体性が「形態=かたち」であり、
「素材」の「素」には簡素・簡潔・清潔を抽象性として、
明確に手に入れたいと考えるわけです。
だから、デザインの母として、造形を生み出してくれるのは、
「素材」です。
この40年にわたってデザインしてきたモノには、
必ず「M」がありました。
Mono、というのは言い過ぎでしょう。
私のモノは人工物です。
物は、生物・動物・大きな牛が日本の古代からの定義でした。
羊から始まる美・義・善という古代中国(説文)ではありません。
むしろ、素材の簡素な清潔性に美を見つけ出すことだった気がしています。
「素材」は、やはり、かたちの母なのです。
Mother


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『資本主義からの逃走』
 「*準から外れ始めた日本のデザイン解*」


   


     3月 13th, 2010  Posted 1:20 AM

最適解
一般解と特殊解がデザイン応答・回答・解答にはあります。
デザイン解というのは、一般解であれ特殊解であれ、
「最適解」を求めなければ、それはデザイン解ではありません。
私もすでに40年もデザインと向き合ってきて、
常に、それこそ1日たりとも「デザイン」が体中にあります。
血液にデザインが入っているという感覚に襲われます。

水面に風が吹けば、波立ちます。
その波立ちが大きく揺れているのがまったく穏やかになる、
それを「準」と言うそうです。
基準・水準・標準
基準・水準・標準がその準の状態を定義しています。
そこで、私は「準解」という言葉を自作して、
「最適解」はこの「準解」、
三つのどれなのかと再考することにしています。
「最適解」は、基準解・水準界・標準解になっているだろうか、
自分に突きつけるのです。
● 基準解というのは、もうこれで基準=basisは成果だろうか。
● 水準解は、たとえ特殊解でもaverage /levelは保っているだろうか。
● 標準界は、とりわけ一般解では、これがstandardだろうか。
特殊解なら、必ず標準解として一般解へと展開してくれるだろうか。
こうしたことを考えぬいています。
ところが、最近の日本のデザインには「最適解」がありません。
デザイン解が「かわいい」とか「きれい」とかだけに、
寄りかかっていたり、単なるパロディやギャグは、
ガジェットだからそれでいい、なんていうことが目立っています。
これを「デザインの多様性」だということは大間違いです。
だから、日本のデザイン、その質が低下してきたのです。
経験を積んできたデザイナーとして、
警告をしておかなければなりません。
デザインの本質=最適解
デザインの本質=問題解決の解答=最適解は、
本当に「難問中の難問」を解いていく作業であり、手続きです。
頭脳、頭の中に汗をいっぱいかくほどの作業です。
だから、川崎和男のデザインは好きになれないとも言われます。
それは、形態の好き嫌いはあるでしょう。
好き・嫌いでの判断は第一段階であり、
自分の価値観に、最適解を判断力を欠如している疾病があるのです。
多分、数理的判断が大欠落していると最近は診断しています。
最適解には、「清潔」・「簡素」・「簡潔」・「明快」・「快適」が
ふさわしいと思っています。
かわいくても不潔であり、
きれいでも不明感があり、
かっこよくても、「不快感」があるデザインが増えています。 


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『資本主義からの逃走』
  「製品コンセプト・一人称では三つが基本」


   


     2月 28th, 2010  Posted 1:10 AM

清・潔・簡・明
私は東芝のインハウスデザイナーから出発しました。
その時の「想い」は今なお崩していません。
身体的には、車イスになり、心臓障害をいだきながらも、
それでも、私は「デザイン領域の拡大」が目標です。
製品コンセプトは、常に三つで十分だとさえ思います。
それは、自分自身=一人称から決定すれば、
● 清々しいこと=清
● 潔い=潔
● 明快=明確な簡潔さ=簡素

以上が、私自身の精神性や、そんな存在感で生きたい、
ということにつながるからです。
だから私の製品デザインには、
その一人称がそのまま反映し反射し吸収されたモノに
結実してくれればいいと考えてきました。
しかし、
清々しく生きる、というのはとてもむずかしいことです。
潔いというのは、きっぱりさとさっぱりさです。
簡素で明快であるというのが、清潔さを必ず与えます。
私が「喧嘩道」と呼ぶのは、
この三つを成し遂げるためには、
自分へのこの三つの問いかけです。
自分に喧嘩を仕掛けることです。
私の「製品デザイン」は無論、「好き・嫌い」で
受け取られています。
時には、川崎和男のデザインは嫌いだ、と、
幾たびも言われていました。
それでも私が、「私のデザイン=一人称で語りつくす」、
この姿勢や態度が気にいらないのは、
「嫌い」というあなた=一応、二人称のあなた自身へ、
問いかけます、とうより喧嘩を売ります。
聞かせて下さい。
● あなたは、清々しい人ですか?
● あなたは、潔いですか?
● あなたは、明快・簡潔・明確・簡素ですか?
という「喧嘩」を売りたくなります。


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