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Posts Tagged ‘暴力的’


10月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2021  Posted 12:00 AM

10月31日 仏滅(壬子)

『善意としてのデザイン』

一方、
暴力的なデザインに
善意をこめることも
できる。

artificial heart:川崎和男展


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『嵐を呼ぶ園児「クレヨンしんちゃん」限定で京都だった』


   


     11月 28th, 2019  Posted 12:00 AM

京都にいたワイフから電話。
「駅にクレヨンしんちゃんがあるけど・・・」
オススメの写真もついてきました。
ともかく、Tシャツとできれば、シューズがほしい、返しました。
東京駅の「クレヨンしんちゃん」が出来て以来、
オフィシャルショップにも立ち寄ります。が、
今、京都駅に期間限定ショップがあるというのです。
以前、週刊誌にクレヨンしんちゃん擁護論を
PTAの連中向けに書いたことがありました。
今やアンパンマンのアンパンチが暴力的と問われる時代、
その世界観を表現するのには、何かと制限と配慮がつきまといます。
時々、TVで一人っきりで観ます。
使われる言葉は、親の立場になれば、
こども達に見せたくないアニメ筆頭でした。
子供の時って、それがとても私は有効と考えていました。
そういった経緯があり、
『嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』の映画パンフレットに
コメントも掲載されています。
以来、クレヨンしんちゃんファンの私です。
最も原作者の白井儀人氏が亡くなってから、
こういうアクセサリーも含めて原作者が望んでいたものなのか、
違うモノがあったのかもと私は思っています。
冬の重めのコーディネートに白のスニーカーで抜け感を、
近くで見たらクレヨンしんちゃんと私です。


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『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』


   


     11月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

11日、日本を発ち、12日には「森田恭通個展」オープニングに参加。
13日、教え子が英国からパリに来てくれました。
昼食を森田氏グループと教え子も一緒にすることが出来、
教え子は英国へ日帰り、その直前に森田氏個展を見て仏英間特急で帰宅。
「森田恭通氏」個展会場から200m先の劇場から、
突然女性がギャラリーに逃げ込んできてから事態は一変したのです。
シャッターを下ろして全員が息を潜めていたと聞きました。
同時テロリスト達の乱射で亡くなった方々には、
ひたすら不運への「祈り・鎮魂」がありました。
が、翌日にはこの近辺で銃撃や爆発で、鎮魂の人々が折り重なって、
一斉に逃げ出す場面が放映されていました。
そして、私にはこれが現実という、テロリスト容疑者を拳銃とマシンガンが、
警官や軍隊が取り囲んで、その余りに「怒りいっぱい」の場面を見ました。
日本でここまで暴力的とも思える容疑者確保は無理です。
8世紀に生まれた銃武器が、
21世紀にまでまだまだ人殺し武器ということには大違和感があります。
フランスは「やられたらやりかえす」という空爆を即実行。
これはまた負のサイクルに立ち戻って鎮魂=PRAY FOR PARISは
見ている側の平和希求というeye-point だけの報道です。
この報道では永久に平和は来ないこと明らかです。
しかし、現場は見られてview-pointゆえに「怒り」一杯です。
この怒りからも平和は決して来ません。
CNNもBBC(World News)も報道機関という視座からの情報に過ぎません。
現地パリには「恐怖と激怒」、これがview-pointであり、
eye-pointとview-pointという二つの視点があってこそ、
視線=眼差しがあったはずですが、CNNもBBCも完全に欠落していました。
そして、「やられたらやりかえす」このサイクルを何としても
辞める決断の武器が必要だと私は確信しました。
日本には日本刀がありましたが、
この武器記号がどうやって300年間の平和を歴史に持ち得たのでしょうか。
私は、威嚇防衛の武器デザインこそ必要必至だというメールを
トップエンジニア・トップテクノロジストに送付しました。
「これが現代の真のイノベーション」という返事がきました。
戦争の形式を根本で変えること、戦争=最悪の事態にデザインが果たすこと。
この大問題解決こそ、最重大なデザイン解答だと認識できました。
G20はほとんどがキリスト教思想です。
中国は宗教思想否定ですが、このデザイン解答は不可能です。
ならば、自己を見詰める仏教と神道にこそ、
この役割が出来るのではないでしょうか。
キリスト教とイスラム教は宗教イデオロギーの対決という負のサイクル、
これを停止決着つけるデザインがあるはずです。


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「防潮堤工事は土木工学ではありえず」


   


     12月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

大津波は海から襲いかかってきました。
その高さは想像を絶していました。
それよりも注目すべきは、押し寄せて来た時よりも、
「引き浪の力」がどれほど強かったかは
以前も書きました。
あらためて陸と海岸線での痕跡を見ると、
防潮堤の高さも当然ながら必要ですが、
バリア形態設計が誤りだったことを確認できます。
海からの大津波を受け止める力より、
引き浪でコンクリートは海側に歪んでいます。
この防潮堤に叩き付けられていた遺体が多かったと聞きます。
陸上では、道路路側帯のポールが地面に叩き付けられています。
それほど巨大で暴力的な力だと考えるべきです。
今回、土木工事の杜撰さも明らかになりました。
まさに土建事業と行政既得権の横暴さは罰せられるべきものです。
それは東京浦安地域の埋め立て地でも明らかでした。
液状化も手抜き工事そのものであり、
徹底した地盤工事の東京ディズニーランドはOK。
むしろ江戸時代の埋め立て地は大丈夫でした。
港湾工事が土木工学に頼ってきた制度設計そのものを再検証すべきです。
むしろ、港湾工事が土木工学よりも
海事工学・船舶工学が担うべきなのです。
港湾工学は海事システム工学をわが国は制度として受け入れていません。
仙台メディアテークという建築があります。
エレベーター・階段は、船舶工学の溶接技術で建造されています。
あの発想が一つのヒントになると考えます。
行方不明者は海に連れ去られたのです。
大津波で山に追いやられ犠牲となった方は、
高い樹木に留まって亡くなられました。
多くの行方不明者の真実、
生き延びた方々の証言からも海への引き浪の力でした。
したがって、
コンクリートの防潮堤設計は根本で見直すべきと私は考えます。
引き浪力への流体設計は海事工学であり土木工学ではありえないのです。
防潮堤は、大津波を受け止める形態と引き波力をも拡散させるべきです。
そこには新たな防潮堤と引き潮拡散の造形デザイン、
それが波動とのインターラクションデザインになります。
ともかく土木工学よりも、
海事港湾工学が制度設計の中心だと私は思っています。
これは、私自身が関西海洋教育アライアンスで
海洋デザイン戦略論」を担当してきた知識です。

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『資本主義からの逃走』
  「資本主義で民主主義を防衛している大きな錯覚」


   


     1月 6th, 2010  Posted 8:00 AM

錯覚

民主主義は、近代市民権で最高かつ最大の理想主義?。
私はそうは思っていません。
民主主義はある意味では、
「無血革命」での勝利成果なのでしょうか。
そうだとするなら、
「革命」は、民主主義の体制下では不可能だと思います。

だから暴力的な「革命」を私は望んでいるわけはありません。
なぜなら
「革命」と「革新」は、まったく意味が異なっています。
「革命」というだけに、「いのち」がかかっています。
「革命」は血が流れて「痛い・苦しい」はずです。
そんなのは嫌です。
「痛い・苦しい」というのは、
私はどれほど体験してきたことでしょうか。
だから、
民主主義は本来、決して、
痛かったり、苦しかったりでは無いはずです。
ところが、人生・生涯には、痛みや苦しみがあります。
それを民主主義が全て解放してくれるわけではありません。



「革命」の革という象形文字は、解体された獣の皮です。
「ピィーン」と張った「革」に刃物を入れることが、
「革命」・「革新」の「革」を表示しています。
私はもう一度、問い直します。
民主主義は語られれば語られるほどの理想主義でしょうか。
絶対に「民主主義」が大きな隠れ蓑になっていると思います。
その隠れ蓑を補強してきたのが資本主義かもしれません。
そろそろ、民主主義が民衆主義を言い換えている、
その事実をあぶり出す必要が私はあるとさえ思っています。
資本主義と民主主義の狭間に常に起こっているのが「錯覚」。

私はこの「錯覚」を見極めてこそ
「美」・「義」・「善」が、
やっと自分の表現に込められると考えています。

美・義・善


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