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Posts Tagged ‘排除’


3月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 11th, 2021  Posted 12:00 AM

3月11日 仏滅(戊午)

『黙示としてのデザイン』

言葉の魔力や
言語の神秘性は
排除されたまま
めまぐるしく商品としての
コンピュータが
登場しているわけだ。

artificial heart:川崎和男展


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『デザインとデコレーションの差別化は間違い』


   


     11月 11th, 2017  Posted 11:40 AM

私は思いついたらすぐにデザインをします。
そのほとんどにはクライアントはありません。
クライアントがあるからデザインというのは私には全く興味がありません。
だから、いつまで経ってもクライアントがあるという訳ではありませんが、
10年後、あるいは20年後に依頼があれば幸運なことです。
だから、作品集にはそれなりに掲載はしておきます。
先般も、あるクライアントから、この「時計実現していますか?」
「いいえ、全くです。」
「実現したらどうですか?」と。
しかし、それはもう無理だと判断しています。
なぜなら、これは盲人用の時計案でしたが、詳細な図面とモックアップまで、
確実にデザイン設計は終了。
けれども、EONEという素晴らしい触覚だけの腕時計が出現して、
(デザインが負けた)と思ったのです。
私のデザインでは、視覚的には液晶表示。
聴覚では、英語発声でした。
しかも、動作は二つ、視覚は表示窓の開閉、ボタンを押せば発声です。
しかも、「T」と「ト」はTimeと時計であり、同じ点字なのです。
今は、新しいディバイスは発明しています。
が、EONEというこの触覚時計は、世界のデザイン賞をほとんど受賞するほど、
デザイン成果・発明で、デザイン=問題解決がついていました。
最近、あるもう著名なクリエーターをTVでドキュメントを見て、
この人のデザインは勘違いしたデザイン造形だと評価していましたが、
なるほど、と納得しました。
それはデザインとデコレーションの区別がついていないこと。
デザインと機能がしっかりと差別されていることです。
したがって、センス不足を感じるのです。
なるほど、センスとデザインの適合性は難しいのです。
やがて、例えばロボットの進化では、
そんなロボットがあったというロボット史では残るでしょうが、
決してデザイン史でそのロボットは語られないと確信します。
私も生涯の限界が近づいていますから、
例えば、いくつかの審査委員長を次世代に任せたいので、
その選別を真剣にし始めています。
まず、盗作平然なデザイナーは排除します。
商品やデザイン成果では効能性だけで見ています。
それは「社会的・時代的な存在」が中心です。
そして性能は発明一点に絞ります。
効能性+性能性=機能性となりデコレーションという加飾性の限界を
しっかりと判断して、経済的な成果は美しさでの商品価値。
それは安全・安心・信用・信頼の統合が次の評価です。
デザイン審査の委員選定は私には明解です。
デザインの本質を知らない審査委員が余りに多過ぎます。

* 「モノの美しさにあるバランス性が決定要因」
* 『センスの有無が判断できる椅子と曲の選択』
* 『薔薇というシンボルから花言葉も消した問題解決』
* 『製品記号論で語り直す時代がやっと訪れた』
* 『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』


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『生態系破壊はテロ行為であると判断』


   


     6月 21st, 2017  Posted 12:00 AM

船舶とその海事ルートはとても厳しく管理されています。
特に、南アメリカへたとえば硫酸を日本から求めに行くとしても、
「バラスト水」=船の均衡を取るための船舶の重量調整水などは
外国の港湾での水は国際条約で、海水そのものを海洋生物保護など、
各国の生態系保護を厳しく管理されています。
ところが、本来はブラジルが原産と言われているFire Ants=火蟻が、
全く管理されずに、中国からのコンテナで日本に上陸されてしまいました。
これは日本の自然環境を激変するだけではなく、
火蟻というほとんど除虫困難な生物が日本にもたらせてしまいました。
国際管理無しのテロ行為だと思います。
この火蟻は人間だけでは無く、動物にも危害=死を招くのです。
私は貿易によるこのような生物が潜り込んでいることは、
意図的で無いとしてもある意味では「生物兵器」だと思います。
日本も地球温暖化によって、日本には生息しない生物が
棲んでしまう事態になりました。
日本の四季さえ、最近では冬が厳冬となれば夏は猛暑と水不足になりました。
水不足や猛暑によって日本の自給食料は大変な被害にあっています。
よって私は海事関係での、バラスト水のような国際的なルールが
絶対に不可欠であると考えざるをえません。
私は除虫材の開発には絶対的にデザインが関与すべきだと思ってきました。
このベースはあくまでも地球環境を傷めない新素材とその散布システム化が
デザイン主導すべきです。
私の自宅は海抜は100mの所にありますが、
ハエや昆虫が時折、自宅に侵入してくるのを観て
日本の自然環境は本当に変化してしまっていると判断しています。
それこそ福島の原子力発電所では、139Pu・140Puという日本の自然系、
この環境を破壊したからにはプルトニウムは全面禁止すべきだと判断します。
本当にやっかいな生態系破壊は、
何としても除虫で排除・排撃すべきと提示します。

* 『ガンマカメラにより放射能は視覚化可能』
* 『霾(つちふる)のは中国からの人災である』
* 『除染されていない間伐材へのデザイン開発』
* 『デング熱は風土病ゆえにもっと厳密なジャーナリズム報道を』
* 『流行の根源である伝染病は人類の破滅道理なのか』


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『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


   


     4月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

「Inclusive Design」があたかもユニバーサルデザインや
バリアフリーデザインとの明確な差異があると言われています。
これらはこれまで以上のコンセプトとして次世代デザインとなってます。
InclusiveにはExclusiveが対極しているために、
排他的なデザインということがこのデザインの論理背景になっています。
が、これほど根本的な論理性を逸脱したデザイン解釈は大間違いです。
理由は二つあります。
まず、電子工学的なXOR回路を考えれば、Inclusiveとはどういう回路?
もう一つはInclusiveとExclusiveは人称関係という正確な言語論理です。
つまり、一人称のデザイン=私だけのデザイン、
二人称=配偶者、恋人、身内や友人の対面する貴女のデザイン、
そして、彼、彼女、彼ら、彼女らという三人称のデザインが
言語学の人称としてインクルーシブ性があるということです。
一人称・二人称ははっきりと対面しますから、
デザインしたモノ・コトについて直接的な対話が可能です。
ところが、三人称で対面出来ない彼らは
すでにエクスクルーシブ性が含まれてしまいます。
つまり、エクスクルーシブ性とは、対話・メッセージ性が
排除されたグルーブ全体を指示しています。
したがって、インクルーシブ性という排他性を無くすという論理、
それはすでに成り立っていないということです。
もっと、明言すればデザインには、
インクルーシブ性は人称デザインとして
まず自分のため、そして、
その評価をあなたにというインクルーシブ性があり、
第三者には排斥してきた老人や障がい者も対象とすることは
デザインの進歩が語れるに過ぎないだけのことです。

*『ケータイの人称会話からのオントロジー』
*『Inclusive Designの定義に向かって』
*『一人称・二人称がInclusiveの基本定義』
*『つつましさによるインクルーシブデザインへ』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


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『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』


   


     4月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

「人工知能」が間近に来ていると言われています。
最も「人工知能」というのを、どこまでの範囲、領域、
あるいは性能・効能・機能で語るのかによって限界があるでしょう。
しかし、僕は、人工知能は不可能だと言ってきています。
それは「知能」という日本語がすでに間違っているからです。
「知」を明確化するために
「ち」の日本的な哲学・思想が欠落していること。
つまり、「ち」は日本の伝統的な思潮であり、
それは血から値・地・治・智・致など、知の思想までが
人工=コンピュータで創り出せるだろうかにあります。
かつて僕はコンピュータにはSyntax Errorがあると言ってきました。
そこで、Configuration Error を徹底して排除したのが
ゲームであり、囲碁、将棋。そしてチェスに対して
人間とコンピュータの勝敗はコンピュータが勝ったという論理です。
これで、人工知能はもはや完成の射程距離が明確になってきたという風潮。
すべからく、僕は大嘘だと断定しておきます。
人工知能という性能と機能はPlay Backシステム、
すなわち決定的な「繰り返し作業」は可能になりますが、
これを「人工知能」というのは憚られます。
したがって、Play Backシステムが効能化されれば、
人間の労働環境に異変が起こることから、
必要とされない職業が出てくることは間違いありません。
僕はこれを「人工知能」と言ってはならないと考えています。
知能が完成されるのは、創成・創発・創出という考え出す発明力です。
これを成し遂げる「ち」の思潮がコンピュータに、アルゴリズムに
確実に蓄積される必要があります。
そうした意味でも、あえて「人工知能」は不可能説を
僕は言っておきたいと考えます。
それこそ、ロボットが30年経ってようやく「医用ロボット」になったこと、
この事態と極めて似通っていると思うからです。
産業用ロボットはすべてPlay Backシステムでしかなかったことと同値で
おそらくArtificial Intelligencesでは無理があり、
Consciousness / Information / Knowledge にはすべて
「ち」の思想から理念があるということです。

*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『リトルコンピュータピープルの顔色は人工知能要素かも』
*『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』
*『KK塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』
*『資本主義からの逃走』「各産業の0.5次化という高度化は情報化を加算」


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『医工連携を看医工学ベクトルとしてさらに強化』


   


     12月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

「KK塾」で、私はコンシリエンスデザインを冒頭に紹介しています。
今回は、医工連携+デザインで看医工学がコンシリエンスデザインと
極めて密接な関係があることを語りました。
まず、ベクトルとして医学と工学を再定義しても「デザイン思考」では、
語り切ることが不可能なことを伝えました。
その最大の理由は、デザイナー的な思考方法での欠落部が多いことです。
しかも「デザイン思考」は米国からのコピーで、ブーム化しただけです。
医学と工学に、看護学と保健学が加わってこそ、
医工連携では、とても現実的な形態設計もさらに制度設計も困難です。
それこそ、コンシリエンスデザインであり、
これがデザイン思考というブームでは不完全なことをまずは二次元、
二次元ベクトルでの要素を増やすことの提唱をしました。
医学と看護学は安心を与え
医学と工学で対症治療になること、
それも対症療法という曖昧さを排除しました。
さらに、保健学が工学に与えることが安全になり、
看護学と保健学が予防になることをベクトル的に示すことで
看医工学こそ、
医工連携+デザインの真のベクトル的な論理としました。
今回の「KK塾」での私のコンシリエンスデザインこそ、
デザイン思考をブームから解放して、
これが日本からの発信になるという提言にしました。
実は問題は、この2次元上でのベクトル展開だけでは
とても語り切れるものではないことを
次回の「KK塾」につなげることをつたえました。
これは、滋賀医科大+国家プロジェクトEDGEでの基調講演を
さらに深めたものになったものと思います。
私は、2次元上での思考展開では、
いつまでもニュートン的なベクトル展開の限界があると思ってきました。
これこそこれからの実務デザインで、
その革新性につながっていくと考えています。
これはコンシリエンスデザインが
次世紀デザインの基本理念になるでしょう。
今回の「KK塾」の提唱性であり、それは前回、テクノロジストであり、
阪大招聘教授とした濱口氏への講演からのヒントへの回答でした。
しかも、
今回、東大大学院で世界最小のマイクロナノロボット開発者、
生田幸士教授に、
「ブーム」となった時点で、その思考、その行動、
その実績は終わっていると断言してもらいました。
私は、ニュートン的ベクトルでの領域学、その実力を
量子力学、すなわち3次元的アナロジー化していくことを次回示します。


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『表裏一体の共時性は呪われているのか!』


   


     3月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

いつの時代も、その時代を牽引しているかのような、
それは、宗教と経済論にあたかも大勢の知性と野性を狂わします。
すでに世界は130余年前に、いや最古の闘争十字軍の時代に、
その時代からも共時しなければ生きられなかった世界に放置されます。
十字軍を今更持ち出しても、イスラミック・ステイトの凶暴凶悪性は
知性社会すべてが許すわけがありません。
あたかも現代文明を根底から破滅している十字軍と対照的な、
表裏を成して、資本論をも超えるとかの論理にすら疑念があります。
私は、この時代との共時感覚は呪われているとしか言えません。
未だに、資本にこだわり、その裏側には石油文明を剥奪する
その裏付けとなる宗教への狂気しか私には見えません。
資本と納税、人口の流動性での統計で果たして現代文明の背景は、
語り切ることができるのだろうか?とこの論理を疑います。
私は、資本の塊の停止が現代を経済=税務と一神教の差異性対立を
一方はテロと呼び、一方は新たな文明の分断からの構築と呼びます。
が、この二つは常に表裏を繰り返しているだけの呪いにすぎません。
共時と共有性は、まさに情報時代に両方が寄りかかっているのです。
そして私はこの時代の呪われた非人間性=性悪説にまみれた
全ての事象、事件の象徴だとさえ思わざるをえません。
おそらくデザインとの反事象は犯事件そのものがこの表裏一体です。
決して、人類の偏向を呪縛してきた資本論の方が単純でした。
歴史をいつまでも連結してきた十字軍の方が狂気を排除していました。
私はこの二つの情報は、呪われた事件の表裏回転体だと思います。
したがって、
この表裏性を断絶するには、この回転動態の遮断的な事象を
衝突させることしかありえない気がしてなりません。
この衝突を起因させる思考を余儀なくされている悲しみこそ、
現代の呪いに他ならないと思っています。

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