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Posts Tagged ‘国家体制’


10月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

10月26日 庚午(大安)

今、わが国は
3.11という大地震・大津波、
その結果としての原発事故によって、
国家体制が破綻してしまったことは
「敗戦」と同じであり、
国家の再興、再構築を余儀なくされている。

しかし、この「危機」こそ、
危険状況を機会として、
前向き=これまでを再考し直す、
喧嘩体制だと、
私は捉えて、危機解決に立ち向かいたい。

川崎和男「喧嘩道」


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「悪夢は醒めたのだろうか・・・・・」


   


     12月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

前回の政権交代は、確かに一つの期待だったと思います。
しかし、この3年3ヶ月は悪夢だったのです。
とんでもない天災で同胞を失い、
神話が崩れて以後の反原発も卒原発も一つの決着案に入りましたが、
まだ悪夢さめやらずが連続しているのかもしれません。
この選挙戦で敗北した人々の顔つきは悪面が多い気がします。
そして、政権また交代です。
日毎の希望と期待感は、まさしく景気に連鎖しています。
日経平均株価8800円は10000円台にまで復活してきました。
私は「景気」というのは現代経済論理事例としては、
一つの指標だとは思っていますが、
その事例を特に「モノづくり」に直結した確信材料にはしていません。
「モノづくり」は、経済動向以前に、
さらに「夢現実」の世界観があってほしいと思うからです。
ただ経験則的には、日本の国家体制が最低でも、
13000円を常に維持していることは原則かもしれないと考えます。
新たなリーダーの言葉はそのまま市場環境の景気感を変動させています。
無論、大きなグローバリズム=これが幻想の景気観の中では、
世界、特に欧州のギリシア破綻への対応観と
米国の景気観がわが国との構造を決定しているものと
判断している次第です。
従って、
本当に私たちは天災を受ける列島の民族であることは確かな事です。
まもなく、2012年が終わろうとしています。
私たちは、新しい年を迎えるならば、
いつも幸運で幸福でありたい、
生きていくということの終末も理解しているだけに、
現実での悪夢だけはなんとしても避けなければなりません。
3.11という決定的な悪夢をなんとしてもはねのける必要があります。
その先行指標がもし、この日経平均株価であるとするなら、
ようやく悪夢から解放されつつあるのかも知れません。
解放されたいとつくづく願うばかりです。
私の人生において、
その時々に、悪夢は襲ってきていました。
ひょっとすれば、
これほど悪夢にうなされる生涯を生きなければならないのが
「人間」なのかもしれません。
だからこそ、「夢」の世界に飛び出していく価値、
その価値づくりの一つがデザインだと思わざるをえません。


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「資本主義からの逃走」
 「日本資本主義は天災で、その神話を終焉させられた」


   


     3月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

されど、けれど、神話の抹消
敗戦後、私たちは経済大国でした。
一等国家としての恩恵を存分に受けてきました。
そして、なんという悲劇が待ち受けていたのでしょうか。
この天災、さらに明らかな人災=原電事故は、
一瞬にして、私たち国家体制に多大な事件をつきつけました。
被災者数、特に死亡者は3万人になるかもしれません。
東日本大震災事件+原電事件が被害者数の人間を突き落としたのではありません。
被害者数の事件が一人一人にそれぞれの悲劇を与えたのです。
被害者を見つめる日本全国民も各々の悲劇に向き合わされているのです。
だから、私たちはこの大震災+原電事故から復旧し復興するのではありません。
被災者はもちろん、日本人一人一人、さらには地球の人類に復興を突きつけているのです。
原電事故は明らかに人災であり、
その電力会社=資本主義実行での投資効果、自社だけの還元富に、
原電という人類が到達した技術を「安全神話」そのままにしてきたのです。
結果は、周辺市民だけではなくて人類全てに「見えない恐怖」暴力を与えたと言えます。
しかし、これこそ資本主義基底である技術経済の「脆弱さ」を象徴してしまったのでしょう。
復旧は不可能です。
復興にはさらなる人智尽力が求められています。
自然界には存在しない物質は、人類滅亡を示唆しているのです。
原発の「神話」にまだ寄りかかっていることは、決定的自死表明です。
それなら、人智集結と鋭意尽力で、
自然と人間、人工と人間、人間と環境、人間と社会、
国際制度すべてのパラダイム、
その大変更は、まだとても失ってしまった人命、そして記憶、思い出、
財産への別離悲しみが突き刺さって流血したままです。
すなわち、資本主義という神話を断ち切って、
この悲しみから止めどない涙そのままから、
上を見上げなければなりません。
果てしない未来に望まなければなりません。
資本主義の総括的終焉とは、まさに、具体的な原電の「安全神話」、
つまり、「資本主義神話」への決別とその決心です。
「安全神話」には、たかが原子力という人類の奢りがありました。
されど、けれど、もう一度原子力に対決する永遠をめざす創造力こそ、
復興のエネルギーにほかなりません。


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『資本主義からの逃走』
  「売国奴たちの必殺も辞さず、されど民主主義の脆弱さ」


   


     12月 28th, 2009  Posted 10:00 AM

Democratic Weakness

to be impossible

of bringing sure death in traitors

明らかに必殺は犯罪となります。
よって、国家体制での「裏切り者」の処分と処置は、
決して叶えられること全面的に不可能は自明です。
これが、民主主義というイデオロギーの法哲学でしょう。
しかし、私は時代回帰的にとどまらず、

Traitors

「売国奴」を認定し、処置を決行するべきと判断します。
少なからず、「知性」をもって、
売国奴の追放が、すでに日本国家の一つの選択でしょう。
それは、メタファー、あるいはトリックスターとしての
「現象」の中で溶解して、私たちが避けています。

EXILE

私は、民主主義のこの脆弱性も廃棄するべきというほどの
「過激性」で、
「モノづくり・Made inJapan」を遵守することを
職能意志としています。

この職能意志無きプロフェッションも売国奴と思います。
私の「過激性」は、「暴力性」に直結しています。
「民主主義」が全面否定する「暴力性」こそ、
国家体制・「神の国」、「花綵の国」の伝統の保全と
確信をもってここに書き残さなければならないでしょう。


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『資本主義からの逃走』
  「Made in Japanの復権は、売国奴たちの追放である」


   


     12月 27th, 2009  Posted 6:00 AM

091226
3.4年前に、JISマークの審査をしたことがあります。
091227jis
JISマークが、
コピーされていることが歴然としてきたからです。
無論、それがどの国かはおわかりになるでしょう。
したがって、マークは2mm以内でも視覚確認が可能。
だから2mm以内で刻印や印刷ができることでした。
しかし、すでに、
それだけの工業技術は確立しているものと推察します。
私は、グッドデザイン賞・Gマークは、
新たなJISマークでもあると考えています。
091227gmark
Gマーク「賞」とまで言わなくてもいい、
という意見も多く聞きますが、
あえて、Good Design Awardという権威が必要だと、
私は思っています。
私は、ほぼ独裁に近い国家体制には、
「倫理観」・「品位の自覚」・「自負心」はこうした国家には
絶対に無いものと判断しなければならないでしょう。
そうした国で、「安かろう、悪かろう」が「モノづくり」を
自己金銭欲で携わる輩は、売国奴(Traitors)です。
私には、Traitorsの条件を設定しています。
かつて、わが国も、「モノマネ」国家でした。
それを払拭する倫理観の証明からGマーク制度が
スタートしたわけですが、
明らかに「勤勉であるモノづくり」とその「正当対価」の
自覚を当然としてきました。
それこそ、資本主義というイデオロギーのある種、
仕掛け、仕組まれた制度だったと思いますが、
私は、これを容認しています。
しかし、その資本主義の制度を転用すれば、
「商売欲」を正当化もできました。
しかし、その歪みは、「金融資本」という「モノ生産」を、
明らかに制御する運用手法の謀議すらOKとしたのです。
もし、私が愛国心で語る「神の国」、「花綵の国」の
伝統や美学を護るなら、
様々な「防衛策略=Intelligence Design」は不可欠です。
よって、
独裁国家や、一党支配国家や、
私が一方で否定論を語る、反「民主主義国家」へ、
わが国を売り渡そうとするTraitorsは、国外退去、
まさにEXILEさせるべきと考えています。

EXILE

ある種のトリックスター的な風潮が、そのまま、
現代日本の哀しさをあらわしているのです。


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『資本主義からの逃走』
  「価値と存在、その装置化ループを仮説化」


   


     12月 20th, 2009  Posted 11:00 AM

「生産と消費」の構造は、特に第二次大戦後、
資本主義のサイクルで産業経済論的な効果がありました。
しかし、
「生産」と「消費」がいわゆる景気循環によって、
支えられてきた国家・社会体制は限られていました。
そして「不況」ともなれば、
その景気循環は、世界を飲み込んだ大問題となりました。
つまり、
問題が及ぼしてきたのは、「価値」と「存在」です。
価値」はまず経済価値からスタートし、
結果は、「働きがい」・「生きがい」へと連鎖しています。
「存在」は、
地球環境、自然環境、人工環境での人間への問題です。
091220circulation1

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によって、
「生産」と「消費」の
point of contactへの関与性でした。
私はこれらをループ化することで、「デザイン」の位置が
きわめて明快になります。

情報化・・これは経済社会論を変貌しました。
存在化・・ontorogyの問題は価値観のレトリックです。
再生化・・いわゆるリサイクルの手法はまだ不完全です。
生態系化・地球環境全体への国際関係の「制度論」です。

このループを「資本主義」が支える困難さと可能性は、
ほとんど論理性すら発見できていません。
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ということは、
価値」と「存在」は、
091220soushutsu
に対するサイクルループで、
システム設計とダイナミックス設計が、
人類に課せられている、「緊急かつ重大」な「問題」、
ということにほかなりません。
果たしてそうしたサイクルループに装備できる「装置化」、このデザインこそ、デザインによる人間と環境との
創出・代謝循環・交代、
それぞれの調和と存続につながっていると思います。


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