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「岸辺のアルバム=家族平和とは安泰」


   


     12月 26th, 2011  Posted 12:00 AM


1977年TBS・TVドラマ・山田太一原作脚本に、
「岸辺のアルバム」という名作がありました。
精神的な家族崩壊と水害での完全崩壊が描かれたヒットドラマです。
そして1993年北海道南西沖地震M7.8は奥尻島に火災と津波が襲いました。
私はその地震で津波の恐怖を知りました。
そして被災した人たちが、最も失ってしまったもの、
それが家族のアルバムの大事さだったことを知りました。
3.11では自衛隊無くしては、この災害救援はありえなかったと思います。
しかし彼らの活動はまったく報道すらされませんでした。
たまたま彼らが救援や捜索で
一番に被災地の後片付けで心を配っていた物が写真・アルバムでした。
その報道画面を見つめて胸がしめつけられて涙しました。
家族アルバムは、家族の平和=安泰の物事メディアです。
したがって、「安全と安心」だけでは、国民の平和、
生命と財産の保護保全では無いのです。
「安全・安心・安泰」この三つが重要だと考えます。
安泰とは、ただのんびりとしている印象がありますが、
安全+安心=安泰という方程式になるのでしょう。
したがって、安全対策+安心対策は安泰創出です。
この方程式を忘れてはならないことを再確認すべきでしょう。
アルバムは、写真であり、その写真とは「物事の記録」です。
家族アルバムは、
ジャーナリズム対象=日々の記録が家族だということです。
ということは、災害時に持ち出す最大の財産、
その最も具体的な物は、貯金や預金通帳、
金品では無くて、アルバムが一番なのです。
だとするなら現代、家族アルバムは
「クラウド化」しておくべきことになるでしょう。

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「若手デザイナーの観察眼・被災地へのまなざし」


   


     12月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

これは東芝デザインセンターから借りました。
東芝デザインセンターの社会システムデザインチームは、
いち早く、被災地調査に入りました。
若手デザイナーのまなざしがどこに向けられていたのかを知りました。
これはマスコミや写真ジャーナリズムとは全く異なる視線です。
どこからどこを見つめてきたかということが明白でした。
この写真はその一部ですが、
大津波は二度襲いかかっていたのです。
まず、海から襲いかかってきましたが、その力よりも、
引き潮となって海に津波がもどっていくときの力の大きさです。
バス停や案内板の脚棒が海に向かってグンニャリと曲がっています。
海から襲いかかったときよりも引き潮で海に津波が戻る力の巨大さです。
こうしたことを発見するまなざし力がデザイナーにはありました。
東芝は原発の復旧と同時に「復興計画」を同時進行させています。
したがって現地調査で「何を災害力」として発見してきたかが問題です。
私は、この調査チームがどこを見てきたかを知って、
デザイナーの視線の強さを知りました。
そして、この調査から「減災」というコンセプトが加えられました。
日本列島は自然災害にはとても脆弱過ぎます。
大地震大津波や山崩れ、大洪水、火山爆発などがいつ起きるか不明です。
したがって、こうした自然災害に向かっていかなければなりません。
そこで、すでに被災した結果の十二分な調査から何を学び取るかです。
デザイナーの調査チームが災害時に何が起こっていたのか、
その災害結果へのまなざしは大変に重要です。
私も東芝デザインセンターにOBとして加わり、
「復興計画」に参画していますが、
こうした若いデザイナー達が何を発見してきたかを知りました。
大津波の引き潮についても対策を考えなければなりません。
私は、調査チームのまなざしから多くの減災対策をつかんでいます。
3.11以後、日本のデザインに課せられたテーマ、
その大きさをあらためて噛みしめています。

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「進化した光造形・ラピッドプロトタイピング」


   


     11月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

私が大学人になった一つの理由です。
それは、光造形=ラピッドプロトタイピング、
この手法をプロダクトデザインに導入したかったからです。
米国で、ALIAS社とプリンストン大学で開発途中の光造形、
そのモデルは小さな平板の歯車でした。
その歯車がきっと立体になるという直感でした。
日本では手に入らない光造形原書を読みまくりました。
「クラインボトル」がモデル化されていた写真、
これは多分、合成写真だと思いました。
自分で試したい、その気持ちが大学人につながりました。
1996年、名古屋市立大学に芸術工学部新設時、
私の研究室には、光造型機(紫外線レーザー)と、
周辺のワークステーションと初期の3D-CADが入りました。
結果、「クラインボトル」を当時の3D-CADでは、
ほとんど製作が困難でしたし、
3D-CADからSLAデータへの変換などで自分を鍛えました。
素材も湿度影響などでとてもやっかいなものでした。
したがって、3D-CADソフトの変遷は全て見てきたと思います。
今や、半導体レーザーでの光造形はすでに一般化しました。
そして、光造形での素材も初期のエポキシ系からは
相当に進化し透明になり、湿気影響なども全くなくなりました。
そして、この組み合わせた「クラインボトル」は、
研究室訪問のゲストにプレゼントしているモノです。
今回、KAIST=韓国科学技術大学院大学へ持参のために量産。
そしてこのクラインボトルを二つ組み合わせて製作可能も、
ラピッドプロトタイピングなればこそ可能になります。
この組み合わせを、米国・フィラデルフィア大学でプレゼし、
ティニアである教授達との会話から、私が「人工臓器」、
なかでも「人工心臓へデザインを」という動機になりました。
これまで、私は名市大から阪大の研究室につながるまで、
この製作によって、様々なノウハウを持つことができました。
「点・線・面」の概念が、
それこそ、カンデンスキーの芸術的予測は、
数学領域での「空間論」と対峙することを暗示していました。
点には大きさがあり、それは限りなく正方形であり、
線には太さがあり、面には厚さがある、という予想です。
光造形=ラピッドプロトタイピングは、
もっと造形教育に取り入られるべきものだと思っています。
米国の大学では、デザインや建築の実習では当たり前です。
すでに、3D-CADは6D-CADに進化していることも
「モノづくり」日本に多次元CADは不可欠な領域です。

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『資本主義からの逃走』
「『メディア・インテグレーション』のあえてマルチ性も」


   


     8月 13th, 2010  Posted 12:30 AM

「統合化」
私が「マルチ」という言葉には抵抗があったということを昨日記しました。
しかし、インテグレーション=直訳では「統合化」です。
大枠的な意味では、様々、多種、多量の要素がある方式で相互的な関係性や
構造によって秩序を形成するということです。
そして、詳細な意味もあります。
それは要素間の対立や差異性まで検証しながら、
その秩序は本当に維持できるかどうかという機能性や作用性が統合だろうか、
という問いかけ的な深長な意味もあります。
特に、この詳細な意味性は政治に最も適用されてきました。
ドイツの法学者のR.スメント論やその非難論を展開したH.ケルゼンなども知識材料になるでしょう。
それは、「社会的秩序」の統合が具体性が確かめられるからです。
具体性の実例としては、ヨーロッパ統合が当てはまります。
しかしここでは、「秩序形成」、その作用性としての統合という意味に、
デザイン効用と効果を焦点化させたいからです。
マルチ化の解釈
かなり、私が主張したいことからズレ始めていますが、
メディアの統合、あるいは統合化されたメディアの多種多様性=マルチ化の解釈です。
「Hyper Card」
「マルチメディア」が時代象徴語だった時、
私が、これを最も納得していたのは、「Hyper Card」というソフトでの可能性でした。
文字・図・映像・写真・音・音楽・動画など、メディア要素が、
マルチタスク的な機能性と性能性に驚いたことでした。
たとえば、写真の一部に触れれば音がして動画となり、
その説明は文字というメディア要素の結合=リンク性でした。
したがって、メディア・リテラシーがそれこそ、
マクルーハン的な人間拡張論が現前化してきたと思いました。
この経験直後に、私はApple社でこのメディア要素を結合させて、
マルチタスク化できるハードウエアのデザインに携わることになりました。
すでに、その時には「マルチメディア機器」とは呼ばずに、
「メディアインテグレーション機器・コードネーム《ポパイ》」でした。
様々なメディアが統合化して、秩序として美しい機器が目標でした。
メディアインテグレーションのマルチ化をもう一度掘り起こして、
そのハードとソフトをデザイン対象にしたいと考えています。
「電子書籍」
おそらく、「電子書籍」って何であり、
マルチメディアとしての電子書籍から、
メディアインテグレーションの電子書籍を早く実現させたいからです。


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・3」


   


     4月 2nd, 2010  Posted 10:24 AM

物質の情報化・情報の物質化
物質の情報化の代表実例を一応、「写真」とします。
情報の物質化の代表実例を一応、「時計」とします。
「写真」はメディアという呼び方ができます。
「時計」はツールという呼び方ができます。
物質と情報の相互性の一例を、
私はメディアとツールとの相互性という考え方が可能です。
したがって、物質の物質化はそのままではなくて、
たとえば、「写真」といっても、カメラ本体とフィルムです。
「時計」といっても、時計本体と時間表示ということです。
ところが、「写真」=カメラ+フィルムの進化がありました。
それはデジタル化でした。
INNOVATION
これはイノベーションでした。
電子機器(コンピュータ)とメモリーです。
写真機が進化=技術革新、これをイノベーションと呼んでいます。
イノベーションは、本来は、技術革新と呼ぶのは多少違っています。
「時計」にしても、ゼンマイという駆動器械から、
発振子とコンピュータによって、本来は見えなかった規則性、
これは情報と呼んでもいいでしょう。
「時刻」という情報を、地球規模でそれぞれの地域情報化しました。
上記はきわめて簡単に、物質・対・情報の相互性を例示しました。
さて、問題は、物質、一応ツールというモノにします。
情報はメディアを介在した事項としておきます。
そこで、メディアとツールの相互性に働く「力」は、
明らかに、弱い相互作用と強い相互作用が働いているのでしょう。
意識化社会
さらに、メディアのツール化もツールのメディア化は、
同根・同値になる傾向が明らかに起ころうとしているのを、
脱・工業化社会=ポストインダストリー=情報化時代、
情報時代の到来は、「意識化社会」です。
この「意識化社会」での物質と情報の相互作用は、
すでに、現在のインターネット=Network社会になりました。
それは、物質・情報は相対論的な現象の中に融合されていく、
そんな過程に、私たちの日常・「生」と「死」が挟まれているのです。
私は、デザイナーゆえに、物質と情報を常に入れ替えを、
コンセプト化して具現化していることになります。
結局、「何が物質であり、それが情報化する」とか、
「何が情報であり、それが物質化するのか」を相対論的にしています。
この過程が私の日常であり、私の日常では、物質が実は情報であったり、
情報が物質であるという「入れ替え」体験を、
自分のデザイン発想にし、表現、具現化していると考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04」


   


     1月 22nd, 2010  Posted 1:00 AM

Natural Phenomena
ALIAS本社は、私を受け入れてくれました。
二夏にわたって、トロントに出かけました。
そこでCGソフトのトレーニングを受けました。
その頃、夕焼け、燃えている火や、蛇口からの水を
「Natural Phenomena」という表現研究を傍らで、
Videoや写真でプログラムしているのを見ていました。
今では、火も水も、その勢いまでがCGですが、
当時の研究はチームが大変な緊張感で進行してました。
私は一通りの説明、講義をトロント大出身の新人が、
朝から夕方まで、昼食も一緒になって取り組みました。
「dolly 」という言葉が常に出てきて、意味不明!
dolly

すぐにトロント市内の書店で英英辞書を買いました。
dolly=お人形?なんだ?わからん。
結局分かったふりをしていました。
もう今日で終わりという時に、質問をしました。
「ところで、dollyって何?」
「Oh My God!」でした。
今日までのこと分かっていたのかということでしょう。
dollyとは、画面の中でのカメラの位置を変えること。
それで、すべての謎が解けました。
しかし、それ以上に私の中で、「色彩論」の知識は、
ことごとく破壊されつくされました。
CGでは「色」は「光」そのものの要素と要因で、
プログラム単位を表せば、「質感」、
すなわちMappingの基本を教わったのです。
「透過」・「反射」・「凹凸」・「不透明」・「硬軟」・「吸収」
この六つにパラメーターを与えれば、
ガラス・大理石・木材・絨毯・プラスチックなどが
表現できたのです。
当時はRGBに頼る以前の手続きでした。
そして、そのCGに動きを与えるのに、
24コマをイメージしたパラメータの設定でした。
今ではそうした「手続き」が、
ソフトにパレット化されてツールを選ぶだけです。
トロントのALIAS本社で私が結構知り尽くしていた
「色彩論・色彩学知識」は完全に消去されたのです。
色彩論・色彩学知識の完全消去


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