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Posts Tagged ‘デザイン’


3月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 7th, 2016  Posted 6:32 PM

3月8日 赤口(己丑)

「コンセプト」中心主義の
技術・デザインは
今、大きく変貌を果たしてきている。
にもかかわらず、
未だに
「コンセプト」を掲げる学術、
さらにデザインには
未来は無い。

川崎和男の発想表現手法


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『コンセプトからイノベーションは起こらない』


   


     3月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

「KK塾」は親友であり同僚、そして今や医学系研究科長の
澤教授にお願いしました。
おそらく、
TV医療ドラマでは有名な心筋の再生医療を知る機会だったはずです。
心臓移植では国際的な権威ですがそれこそ阪大の心臓外科医どころか
緊急医療医としても
医学界では相当の人間生死の現場で経験を持つ医師です。
ところが、
世界でそれも日本の最も慎重し過ぎる薬事法を
「ハートシート」適用させた教授です。
「ハートシート」は患者自身の腿の筋肉を培養して、
細胞シートを心筋シートにして患者の心臓に張り込むことで、
心臓移植どころか、心臓を再生させてきました。
この実績は
日本の薬事法を薬剤でもなく医療機器でもなく細胞シートを
日本の国内法に適用させてしまいました。
これは特に米国を刺激し、
今では世界中からメディカルツーリズムとして
阪大病院にての手術を可能にしています。
澤教授は、心臓外科医だけではなく、無論次世代の医師養成だけではなく、
大阪を中心とした「街づくり」の中心人物になっています。
私自身、私の心臓から身体は阪大にすべてを任せています。
工学研究科から私のミッションである「コンシリエンスデザイン講座」も
今では医学系研究科にて、医学・看護学・保健学、そしてその周辺から、
まだ発表待ちの医療機器、その動物実験、医療環境デザイナーなどは、
すでに、「コンセプトからのイノベーション」ではなく、
「ラインからのアライアンスイニシアティブ」として
やがて公表されることになることを狙っています。
「コンシリエンスデザイン」対「レジリエンスデザイン」は
まさにデザインの本質である発想は「コンセプト」からは逸脱しています。
「lineによってmagic balletなgigがgood vibes」になること。
「デザイン思考」がイノベーションを生み出すと勘違いしている
現代日本を変えます。
「コンシリエンスデザイン」だからこそ、
その実例を看医工学で実際例を紹介講演してもらいました。
生老病死をAIによるゲノムからの再生医療は
医療環境を超えて
新たな街づくりに向かっていることを知って貰ったと確信しています。


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『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』


   


     2月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインはサイエンスだと公言する人は数多いと思います。
私自身もデザインをサイエンスと考えてきた一人でした。
しかし、それなら、なぜ美大=芸術の一領域で
デザインを徹底的に体で訓練されてきたのかと疑ってきました。
大学を退官して、ようやく、デザインは学際的な一領域に辿りつきました。
それは「Scientist」という職能を決めた人物、
ウィリアム・ヒューエルの存在がありました。
特にサイエンスを定義し、
なおかつその職能を決定した人物がいたことです。
「コンシリエンス」という言葉は彼の造語であり、
この言葉が復活をしてくるのは20世紀でした。
とりわけ彼がサイエンスの限界に美学性を持ち込んだことかもしれません。
私は文理融合とか学術と芸術の統合をconsilienceと断言した彼の造語から
「コンシリエンスデザイン」を再度定義づけています。
無論、彼の造語を再度学術性への芸術化を持ち込んだ人物も精査しますが、
やはり問題は科学では断言仕切れない芸術、特に美学性でした。
しかもcon-silienceとre-silienceに私は注目してきました。
とりわけ、なんでも精神的なストレスを理由にすることへの
いい加減さに辟易していた私には、
レジリエンスにもデザインが適用できると納得したからです。
コンシリエンスとレジリエンスが
対応できる新たなデザイン概念だと決定できたのです。
無論、サイエンス世界にも美はあります。
それどころかサイエンスは究極、美に繋がっています。
それはヒューエル自身もカントに大きな影響を受けたごとく、
カントは感性を極めて大事にし、
「直観の無い概念は空虚であり、概念の無い直観は盲目」とまで
断言を残してくれました。
私はあえて、デザインをサイエンスから分離させて、
むしろ学術+芸術はデザインによる、
すなわち直観による問題解決のヒント・価値創出のサイエンス性、
未来創出の芸術的表現を読み切る力はデザインにあると確信しています。
それだけに教育系や工学系では
デザインは元来つくれ無かったのかも知れません。
私は「芸術工学」での芸術と工学(サイエンス)を母体にしたからこそ、
「コンシリエンスデザイン」に辿り着いたのだと思っています。
したがって安易過ぎる「デザイン思考」などは
何の役にもたたないでしょう。
特にレジリエンスデザインはデザイン思考では解決不可能です。


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2月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

2月18日 大安(庚午)

貧しさ、とは
決して金銭的なことではない。
それこそ、
「成金趣味」がある。
デザインは
「成金趣味」が
大否定された源流がある。

川崎和男の発想表現手法


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『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


   


     2月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」は米国のデザイン会社の商品であり、
それがそのまま大学教育に持ち込まれました。
そのまま、日本は早速、大学教育とビジネス経営論という商品化を実現。
これが今ではすっかり流行になっています。
もちろん、権威づけられたかのような「デザイン思考」も
専門家からみれば、この手法での成功例はまだありません。
私は、「コンシリエンスデザイン」という実際は歴史ある言葉から
「コンシリエンス」と「レジリエンス」を捉え直して、
看医工学の基本概念に「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」を
大阪大学大学院の医学系研究科に設置しました。
この設置にあたって概念整理の中では、
これまでの大きな概念がすべからく
後退していくことを追いかけてきました。
たとえば、Concept、Communication、IoT などは
やはりまだまだ20世紀を引きずってきた言葉、用語、あるいはすでに
デザインを取り囲むラングになっていると判断評価しています。
特に、Innovationなどは、元来の原意すら押し曲げられていることに
私は明確に気づくことができます。
それは「コンシリエンス」とともに意識されてきた「レジリエンス」に
全く新たなデザイン手法が当てはまりそうです。
確かに、これはまだまだパロールかもしれませんが、
新たな次世代手法の創造になっていると確信しています。
それはいつのまにか、何でもかんでも「ストレス」ゆえに、
健全性を創出する現代性病態は不況因にもつながっています。
「ストレス」に十二分に対抗出来うる強靱さは「レジリエンス」であり、
そのデザインこそ「コンシリエンスデザイン」が果たしていくこと。
これがより明快になることを「KK塾」で一般化してきました。
「コンシリエンスデザイン」はConceptでは語らずに、
これはLineで統合的かつ学際的な概念化が可能になります。
ストレスの呪縛から解放されることはWired offの情況を配置し、
まさにMagic Balletであり、No Brainerなデザイン、
つまり、「思考」=Thinkingという浅薄さではありません。
問題解決を成し、価値=望ましさと好ましさを創出し、
そして、未来を創成していくデザインの本質を手法化することこそ
「コンシリエンスデザイン」が明確に浮かび上がってくるわけです。
少なからず、Concept、Communication、Innovationからの解放こそ、
GroovyでCoolな次世代デザイン手法であり、
それは経済を超えた文化の体系創造に直結していることです。


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『権威権力者を「演じる覚悟」を見せた建築家』


   


     2月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

「KK塾」第5回目は、建築家・内藤廣氏を講師に開催。
彼は極めて温厚で交友関係においても幅広い人格者です。
しかし、国立競技場のコンペでは副審査委員長でしたから、
あの大変な審査混乱では、立場上その調整役に回されていました。
しかも東大名誉教授・元東大副学長という役回りで「体制側の代表役」、
まずこの「権力者」=友人を失ったという告白も聞いていました。
それは「権威と権力のシンボル」に彼はなっていました。
私は親友の一人として、彼が東大教授であり、
国政サイドの権力者扱いの彼個人の苦悩を身近に見てきました。
この混乱状況に追い込まれながらも非難されながらも、
彼が苦渋の決断をあえて選んだことを見てきた一人として、
周辺のアンチ派や擁護派ともどもを平準化してみてきたつもりです。
それ以上に、
彼との友情はあくまでも「デザイン才能者」関係で講師を依頼しました。
彼は「1960年に戻らねば」・・・という彼自身の問いかけから
彼の講演は多岐にわたって芸術から憲法までの展開を見せてくれました。
「もう一度日本は1960年代に戻らねば・・・」に
私は真っ向から、
「それはロマンでしかないこと」、建築家とデザイナーを対立させました。
その根幹は、
彼が大学人として、東大の土木工学・建築学・都市工学を
「デザイン」で統合化した最初の人物であり、
私がGマーク審査委員長時代に、
彼を次期審査委員長候補として意識していました。
ただし、
彼には「デザインとは何か?」があり、
私には「何がデザインか?」の対比構造化を対立させました。
彼との対談を初めて公的に見せたことでした。
その興味は確実に会場には満ちていたと思います。
それはこの講演後には、
私と彼を久々に招いてくれた世界的グラフィックデザイナー
「サイトウマコト」の存在があったからです。
すっかり国際的な画家となっている野性的なサイトウマコトは、
私にも内藤廣氏にも
「猛獣的かつ辛辣な専門主義破壊」を二人にぶつけてくれました。
「そんなことはゴミだ!クズだ!」と断言する闘いを
世界相手にサイトウマコトはしていました。
また私が3.11と向き合った最初に
土地主義・土木主義の国政問題を教えてくれた
唯一の専門家は内藤廣であったからです。
なんといっても、
彼はいつも私の闘争を受け止めてくれています。
おそらくこの友情は持ち続けていくでしょう。


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『宇宙開発の信頼・安全性工学からデザインが学ぶこと』


   


     1月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

宇宙工学とデザインの関係は、まだまだ双方から、
お互いのとりあえず話題が語られることがありません。
話題ゆえ応答、そして課題ゆえ回答、問題ゆえ解答です。
昨年から、宇宙工学とデザインを私が主宰する「KK塾」で、
それも私のいとこ(父の姉の息子)と講演会をしています。
宇宙工学といっても、その最大の問題点である
「信頼・安全性工学」という宇宙工学のさらに専門からの話です。
まず、何と言っても宇宙工学では、
「修理を一切しないで寿命どおり」しかも一日24時間稼働の
それもシステム設計どおりのモノづくりでなければなりません。
いとこ・長谷川秀夫工学博士は航空工学から、
宇宙開発事業団時代は、ヒューストンにてNASDAの所長として
NASA・NASDA・ESA合同で
宇宙実験棟「きぼう」の実質統括設計者。
最初の宇宙飛行士・毛利氏を飛ばした責任者でした。
以後も、H2Aロケットやはやぶさに関わってきたディレクターであり、
現在はJAXAから宇宙開発機器の発注管理企業の社長です。
信頼・安全性というのは、
何と言っても「修理・修繕無し」が鉄則であり、
たとえ話でいえば、「手術は不成功でも患者は助かる」ということです。
そのためには、「知見」の裏付けが詳細に求められることになります。
なんといっても無事故・無修理・完全であるモノとシステムづくりです。
所詮、
人間が創り出すモノは失敗して当然ということは無視する世界観です。
「知見」とは、知識と見識をさらに深度を求めて、
知識と知恵は経験からの帰納的な結論に対して、
さらにどこまでも想定外を完全無欠化するという工程が
「組織」の組み立て・運用・維持が必須だということです。
それは想像力を果敢に発揮してしかも知恵や見識をさらに完璧にすること。
なぜならば、
宇宙工学での危機システムの部品点数は200万点をPDCAという方式。
Plan→Do→Check→Actionという手続きがあるそうです。
これは現代のモノづくり全てに適合した考え方です。
そのために、
「勘」を取り囲む「観」・「看」・「鑑」・「関」・「感」が配置された
「知見」は、まず、
ハードがあってそれをソフトでどこまで支援出来るかという
「事故シナリオ」が中軸です。
あくまでの「怖がる」ことの重要さというのは、
デザインでの問題解決以前に、問題提起があるのですが
スペキュラティブデザインというような軽さはありませんでした。
あくまでも無事故で無事なモノづくりを
デザインは宇宙工学から学び取らなければならないということでした。


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『ディスクールはアンドロイドロボットで消滅させられた』


   


     1月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

昨年は「ロラン・バルトの生誕100年」でした。
ロラン・バルトは構造主義者として、ディスクール=言語表現、
つまり、書かれたことや言われたことの概念提唱者でした。
生誕100周年記念として、まさに、ディスクールのパターンを
スカーフにした表現はディスクールのデザインでした。
そのパターンの原書が「恋愛のディスクール・断章」そのままのモノ。
僕は読み直しましたが、生誕100年にして、
ディスクールでの抱擁は見事に破壊されていました。
それは、アンドロイドロボットの出現でした。
アンドロイドロボットは、「なぜ、人間は人間であるか」という
この難問解決のデザインだったからです。
単純なアンドロイドロボットとして「ハグビー」があります。
日本人は抱擁し合うことは照れ(若者には無くなりつつある)が残りますが、
フランス人からは、メールの最後にWarmest hugsと書いてきます。
結局、恋愛はすべての小説の最大テーマであったと言えます。
それこそ、日本最古の小説・源氏物語さえそうであったのです。
しかし、無論、恋愛には言葉・言語が本当は要らないように、
恋愛の言語化構造は
ハグすることで一遍に改めての意味が溶解し消滅します。
つまり人間にとって恋愛は一瞬の熱病=これは僕の私見ですが、
その熱病は感染して起こるのか、感染しているから熱病=恋愛でしょうか、
まさに生誕100年目に断章された結果は「ハグビー」というロボット、
つまり言語(ことば)では無くて形態(かたち)によって、
結論が明らかになってしまったことです。
これは言語の脆弱性を形態=ロボットが消滅させたことになります。
なぜか人間は抱擁されることで
コミュニケーションの新鮮度が増加されます。
人工物アンドロイド・ハグビーを抱き合うことが、
あの熱病=恋愛のごとくコミュニケーションを強めてしまうのです。
喋りまくる子供たちはハグビーを抱きしめれば、集中力を持ち、
アルツハイマーの老人の孤独感を消化してしまい、
断絶した者同士が、見知らぬ者同士が饒舌に会話しあうということです。
しかし、恋愛のディスクール・断章はロラン・バルトの生涯のテーマ、
その一部分に過ぎませんでした。
それはアンドロイドロボット・ハグビーに
「作者の死」をつきつけています。
ディスクールの作者が、彼の死に言説化を求めたように、
アンドロイドの創作者は、
どのようにその死と立ち向かうのでしょうか、ということ、
その指定出が起こってしまったということです。


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『幻の発明だったモノの現物があった=柳宗理のデザイン』


   


     1月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

柳宗理のやかんは今も市販されています。
しかし、最も普通のやかんですが、金沢美大卒の僕らには
強烈な図面が脳に焼き付いています。
それは「発明された熱効率のいい、湯沸かし短縮」のやかんです。
ご子息の新一氏から、
これまで使われていた現物ですよ、と初めて見せられました。
なるほど、当時、メーカーは、量産はどうしても無理と考えたでしょう。
だから10数台は製造したのでしょうし、その一部が使われていたようです。
「新一、すぐにお湯が沸くよ」と言われていたそうです。
確かに!
先生は「デザインには発明が要る」とよく言われてきました。
だから、僕もデザインの度に、
どこに発明があるのかを自分自身に問いかけてきたものです。
ヘラ絞り?、溶接?、アルミ素材には量産は無理!
今なら、ステンレスで、こうすれば可能になるはず。
まさか、ケトルのツマミに孔が空いている?
そうか、ここから熱湯の湯気を逃がしている?
だから、ハンドルは絶妙の角度で傾く構造になっている。
僕はこのやかんの図面にとても当時驚きましたが、
市販されているのは今なお商品として流通しているやかんです。
(あれは幻だったのだろうか)
「川崎さん、現物があるんだよ」と聞かされていました。
僕は実物の全てを触って確かめることができました。
「必要だったらいつでも見せるから」と言われています。
ついつい、「あれ、在りますか?」
「在ります」
「絶対にまだしばらくは見せないで下さい、
 あれは革命だったのですから」、
そんな会話をしました。
「デザインは問題を美しく解決する、そのためには絶対発明が必須だ」
その声が木霊してくる気がしてなりません。
今、余りに平然と、もう忘れられているかもしれない、
だったら、自分のデザインで!
なんということなんだ、腐っている!
実現される時代になったから
発想者・発明者、元来のデザイナーが黙認なら、
こんな情景に汚染されてしまっています。
僕らはデザインされたモノはすべからく覚えさせられました。
それは、自分のデザインが物真似と言われないことが
最大倫理だったからです。
物真似では決して美しいモノは創出できません。
もし物真似をする自分自身であったなら、
その自分では決して「容貌端正」にはなれないのです。
「美しいモノと生きれば、美しく死んでいくことができる」
これは岡倉天心もそう言い放っていたのです。
柳宗理先生の発明作品はまだしばらく、
現代にはまだまだ見せるべきではないのです。
僕ら弟子達は、しばし、心の記憶にしまっておきたいのです。


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『象形の姿形に潜む意味の吟味』


   


     1月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

僕は漢字の形態は、象形文字からの系譜があり、
その系譜には意味となっている姿形が潜んでいることに
深い興味があります。
また、日本人には漢字だけが象形文字というのは
大きな勘違いであり、
アルファベットもヒエログラフに至る象形文字の歴史があります。
したがって、僕は自分のデザイン活動や論理の見直しでは
常に文字を見ます。
特に、気になっている文字は、漢字が略形化されてしまって、
象形の姿形が無く、
伝達の記号になっているのは残念でたまりません。
中国語などでは、実際、中国語自体など在るわけがなく、
漢語に区分されるとともに地域語があるにすぎません。
それは地域ごとに文化がまるで異なっていること、
これは価値感に繋がっていることは間違いありません。
そしてこれは漢語の原語である象形文字の姿形が異なってしまうことです。
そういう意味では、僕は日本語の漢字について、
視覚的な伝達、たとえば高速道路などの略字は認めますが、
本来の略字化についてはとても気になっています。
特に、芸術の芸と藝については、
やはり藝術であるべきであり、工芸は工藝だと思っています。
僕はいくつかの漢字については、象形文字への系譜として
意味が含まれている姿形そのままを生かしていきたい、
その期待観は常に持っていたいと考えています。
代表例では「医学」が今では「醫学」という漢字であったことが
忘れられていることです。
「医」と「醫」では全く意味が異なってしまうことに違和感があります。
おそらく、このように感じているのは僕ぐらいかもしれませんが、
「医学」と「醫学」では全く異なってしまうことです。
明らかに「醫」には薬の瓶までがその姿形にあることや、
「医」のように巫女が弓矢を引くという占い部位が無いことです。
「醫」には癒やしていくという意味が姿形にある象形文字であることです。
文字には表意文字と表音文字というのでは、
アルファベットが表音文字という短絡な分類よりも
僕はヒエログラフとしての象形文字だったことが大事だと思っています。
僕は中国人や中国語が統一のために単略化されたことが
実は歴史上でも偉大な文化を失っているように
あえてもう一度僕は漢字が略字化されることには象形の姿形を再考、
その重大性を書き残したいと考えています。
特に、象形の姿形をサイン=記号化するのはデザインにとって、
とても重大なことだと考えています。


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