12月 7th, 2009 Posted 10:00 AM
日本は、花、その美しさが遺伝子にあります。
無論、花への想いは、どのような民族でも伝統美です。
すでに、忘れられた言葉に、
日本は「花綵の国」と自称していました。
華緤・花綵、まさにこの島国は春には花で絆がり、
四季の花々への愛惜と作法は、日本美の伝統です。
そして、花の美しさとともに、
「日本語」の美しさにも、愛惜と哀惜があります。
私は、「いのち」・「きもち」・「かたち」を
海外でも常にその成り立ちや言葉の要素を語ります。
それは、「ち」という言葉で決定づけられていることです。
「ち」は、漢字でも、血・智・値・地・・・・と、
いっぱいあります。
そこから、ち+から(空)=力があり
(空)から+た(田)=体が成り立っていると紹介します。
そこで、
資本論にもどれば、
重要重大なキーワードに、「土地」と「価値」があります。
いずれにも、「ち」があります。
それは、
「土地」と「価値」に資本関係が強く連関しています。
「土地」=「場」と「価値」=「貨幣」の体系が、
「日本語」では資本主義を借用したり引用するまでもなく、
伝統的、民族的、国家的に、息づいていたのです。
何も、「資本論」も「資本主義」も不必要だったのです。
「花綵の国」の「土地」と「価値」との体系には、
花への愛惜のごとく「思想」だったのです。
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12月 4th, 2009 Posted 9:38 AM
「資本論」はとても魅力あふれる論理です。
その魅力はマルクスとエンゲルスの才能の成果だと思います。
しかし、私は、「資本論」では、
重大なキーワードでまったく皆無な言葉があることと、
この言葉への深い洞察があってほしかったと思います。
たとえば、「生産」という言葉は重大なキーワードです。
しかし、
「生産」と技術の関係では「設計」の論理が皆無であり、
「精神的生産」という重大な言葉に「安価」な生産、
その記述がありますが、思量不足を感じています。
それはなぜかということになります。
最近、経済学者や経済評論家の方々は、
とりわけ、日本は「モノづくり」の国家論を喧伝します。
しかし彼らに、
「モノづくり」の根本や経験が欠落しているのですから、
それは「空論」になることは当然です。
私は、「資本論」の魅力を十分に感じるのは、
マルクス、エンゲルスが、結局指摘不足だったことです。
モノづくり=生産にとって、
現代性との剥離を見つけるたびに、
私のデザインを強化することができるのです。
なおかつ、
私のデザインが、必ず、「資本主義から逃走」可能、
そのことを強く認識しているのです。
明らかに、モノづくりには「安価」なモノは必要です。
この「安価」な生産性を「資本論」は、
指摘しているのですが洞察不足過ぎるのです。
その周辺論理への思考は、
「モノづくり」の無経験さが満ちあふれているだけに
私には魅力的なのです。
Tags: エンゲルス, デザイン, マルクス, モノづくり, 労働者, 安価, 技術, 生産, 設計, 資本主義からの逃走, 資本論
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12月 2nd, 2009 Posted 9:00 AM
「資本論」にもどれば、それは文明論にすぎません。
やはりその著作当時の想像力の限界を知ってしまいます。
残念ですが、「文化論」としては、読めません。
まず文明は、「飢えと寒さ」への産業の進化だと思います。
「飢え」は、食べることが叶わない人間の欲求です。
「寒さ」は、体が冷えるから寒いことには耐えきれません。
だから、
食べるための「器」が必要になります。
寒さをしのぐために「機」織りで衣服が必要になります。
「機」と「器」なのです。
まさに現代の「機器」を生産していく産業ということです。
「資本論」では、衣服に関するたとえ話があります。
無論、人間にとっての「衣・食・住」は、
文明の基本でした。
私は、文明からさらに資本主義が成し遂げたことは、
「文化」だったと思います。
それこそ、
衣はファッションとなり、
食がグルメとなり、
住はヴィラとなるほどの
豊かさを資本主義下の一部は掌中にしました。
私は、
「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」が、
さらに、文明と文化によって、
これからの人間社会、人生、生きがい、働きがいに
不可欠だと言い続けてきました。
最近、「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」を
自分が、あたかもオリジナルということを
論文にまでしている人を散見します。
しかし、そうした人には「医・職・趣」の解釈がまるで
間違っているのです。
その最大の理由は、
「医・職・趣」の
●「医」は、健康だけではありません。
●「職」は、職能だけではありません。
●「趣」は、趣味だけではありません。
実は、「資本主義から逃走した後の文明と文化」論は、
「生産」や「産業」では語り切れないのです。
明確に、「モノづくり」での文明文化論が必要なのです。
つまり、「資本主義から逃走」という問題解決に、
デザイン=Solutionの対象に、
「衣・食・住」と「医・職・趣」のマトリックス化を
策略化=designする能力が必要なのです。
Tags: Solution, ヴィラ, グルメ, デザイン, ファッション, マトリックス化, モノづくり, 不可欠, 人生, 人間社会, 働きがい, 医・職・趣, 問題解決, 器, 想像力, 掌中, 文化論, 文明, 文明文化論, 文明論, 機, 機器, 欲求, 生きがい, 生産, 産業, 策略化「資本主義からの逃走」, 衣・食・住, 衣服, 論文, 豊かさ, 資本主義, 資本論, 進化, 飢えと寒さ
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12月 1st, 2009 Posted 7:39 PM
「デザイン」は、「問題解決の方法」だとこれまで、
ズッーと私は、一般に、学生に、企業に伝えてきました。
それも「問題解決」でありしかも「難問解決」なのです。
その唯一の方法だとさえ確信しています。
ただし、宗教ではありません。奇跡は起こせません。
まして、科学・技術・芸術でもないのです。
科学と技術とを接着・融合させるたった一つの方法です。
ところで「科学技術」という日本語は大きな間違いです。
哲学者・中村雄二郎先生は、
「科学」は「分科学」の略語にすぎないと教えられました。
デザインの難問解決という論議から、
問題解決の簡潔な方程式を、
私はデザイン思考の基本と基準にしてきました。
つまり「問題」には、
●「話題」=Topics
●「課題」=Question
●「問題」=Problem
があります。
この解決は、
■ Topics – Reply
■ Question – Answer
■ Problem – Solution
ということまでが、本来の方程式=equationです。
この方程式は、デザインでは次の二つになります。
AlgorithmとProgramです。
そこで、「資本論」のために、
マルクス(数学に関する遺稿集)が、なぜ導関数を
エンゲルスに教えたのかがわかるはずです。
数学的思考は、応答と回答は、
「算数」や「数学」で学ぶことができます。
芸術も、応答的な作品と回答的な作品しかありません。
本来、「問題解決」・「難問解決」によって「解答」が
創出されるのです。
創出されるから、クリエィティブでなければいけません。
しかも「解答」は美しさが必要です。
私は、「逃走する方程式」はかくあるべきと考えています。
そして、デザインには、
「デザイン数理学」というAlgorithmとProgramが、
「分科学」として「技術」を支え、
造形言語によって美しさが創出されるのだと思います。
「資本主義から逃走できるデザイン」、
その時代を牽引できるデザイナーは限られているのは、
多分、「仕分けられた」才能でしょう。
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11月 14th, 2009 Posted 9:31 AM
宗教というものは、本当にやっかいなものです。
宗教に対して、客観性を冷徹に見抜く能力こそ、
「インテリジェンス」・「知性と感性」の力だと、
私は思っています。
「資本論」が宗教になって、
資本主義社会を封じ込めた時代が終わっているのです。
しかし、まだまだ、そのことに気づいていない人は、
資本主義がすでに宗教になっているのかもしれません。
たとえば、資本主義を正当化するには、
M.ウェーバーの倫理は宗教論と読むことも可能です。
industrialとは「勤勉と工業」の二重性の意味があります。
私はindustrial designerです。勤勉デザイナーです。
すべからく
日本の工業デザイナーは勤勉デザイナーでしょう。
さて、日本にはこの宗教改革が必要になってきました。
幸いにして、
日本には「宗教的」を改革してきた知恵があります。
まず、6世紀には物信仰から仏教による意識改革を
政=まつりごとにて、社会改革がなされました。
1549年にF.ザビエルがやってきます。
キリスト教がわが国に上陸しました。
この正当性は、
ハビアンが1605年(慶長10年)に
「妙貞問答」で、どれほど、
キリスト教が仏教と儒教より勝っているか、
ということが記し残されています。
私が、もし、資本主義という宗教から解放されるには、
この「妙貞問答」での理論闘争を再度試みる、
というのが、一つの方法だと考えています。
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10月 16th, 2009 Posted 7:00 AM
「観念」と「感覚」の構造と機能が
イデオロギーの四句分別になっています。
「観念」が主義主張されるとなれば、
その構造には、
「神話性」や「政治性」が備わるものです。
主義主張する人物には、
決まって、「カリスマ性」が生まれやすくなります。
その「カリスマ性」が
神話性のシステムを自然と引き込むものです。
それが、感覚的に機能を発揮すると、
イデオロギーは、共有感覚をともなって、
連帯意識を強化するものになります。
また、神話性を打ち消しつつ、
その主義主張がある種の支配構造を生み出します。
これが、「政治的な体系」、
すわわち支配システムとして機能を持ち始めます。
この政治的なシステムは、
制度性すら装置化して、
「拘束的な機能」になることがあります。
ともかく、神話性のシステムは、
連帯感覚を強化する働きがあり、
政治的あるいは制度化ということにまで至れば、
「拘束性」という不自由さを与える装置になるわけです。
「構造」、つまり関係性をシステムと化すのは、
「神話性」と「政治性」を、資本主義は全否定しました。
この全否定から、「民主主義」が派生したのでしょう。
この「関係性」への反撃論が
私は「資本論」だったと判断することができます。
「神話」と「政治」の結びつきを解き放つために、
「政教分離」というまことしやかさが
「民主主義」に配置されていたのでしょう。
連帯感は必ずその集団を拘束することにもなるわけです。
イデオロギーを終焉させるには、
観念をベースとした概念形態が、
意識装置の機能として、
連帯と拘束を解放する必要があると考えます。
Tags: 「資本主義からの逃走」, カリスマ, 体系, 意識装置, 政治, 概念形態, 民主主義, 神, 神話, 観念, 資本論
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10月 11th, 2009 Posted 5:00 AM
「資本論」との距離感をより明確にしていくには、
「経世済民」という
四字熟語にその理念は
詰め込まれているのではないでしょうか。
「経済」という語は、
中国東晋(w)の書「抱朴子・外篇」葛洪(w)から
発せられた言葉だと言われています。
「経世済民」=世を治め民を助ける、
という意味から考えれば、
「経済」は略語です。
略語では、意味そのものを部分解釈に
押し詰められて、拡大解釈を意図したものになりがちです。
だから、
要は、価値の貨幣的、労働的、階級的なシステム化に、
切り詰めた意味の短縮化は、意味の解説が誤解されるはずです。
それこそ「資本主義という直・経済システム」の領域限界語と
なってしまうことは仕方ありませんでした。
この領域での意味づけだけでは「済民」を決定づけられません。
そこで思考と手法・理念と手続きに
「民主主義」は理に重なったのでしょう。
「抱朴子」と前述した三つのヒントから、
私は、さらに、自分が読みあさってきた書物から、
「私という日本人としての原点」はどこか、
それを問い直し、原点回帰が期待できると考えてきました。
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10月 10th, 2009 Posted 8:00 AM
「資本主義」は、経済体制システムとして、
その背景には「民主主義」が基盤であったことは
ほぼ全面的に認めることができます。
しかし、私はずーっと疑問を持ち続けてきました。
ところが、「民主主義」を超えるほど
有効な社会集団が穏健な日常生活をその体制に委ねる手法は
ありえなかったと言っていいでしょう。
常にみんなが言います。
「それは民主主義として・・・」
「民主主義的には・・・認めがたい」
という共同謀議的な結論です。
私は、共同謀議の決め言葉でしかない、と叫びたい
そんな思いにかられてきたと思っています。
ただし、「民主主義」を完全否定することも、
代替理念、確信、思想というものも
私には創出する技量・才能があると断言することはできません。
それでも、何か違和感をはき出せないのです。
おそらく、
それは、日本人としての
なんらかの原点が見つけ出せないからでしょう。
想像はできます。
私なりの憧憬的な言葉と自分なりの解釈です。
美・品格・倫理・義理・慈愛・慈悲・無・空・間など、
日本人としての感性と感情ではないかとイメージしています。
三つのヒントをあげておきます。
世阿弥による「風姿花伝」と
橋本左内の「啓発録」、
そして、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」です。
この三つと「民衆主義」
さらに、「資本論」とのそれぞれの距離感です。
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10月 9th, 2009 Posted 8:57 AM
マルクスの「資本主義」に対する指摘は、
必ずしも
社会主義・共産主義を絶賛したものではありません。
あらためて、
彼がエンゲルスに向けて作成したと言われている
「数学ノート=数学に関する遺稿集」は、
どこまで役だっていたのだろうかと、私は思います。
むしろ、社会主義・共産主義を煽動した指導者たち、
彼らのの個人性に「権力性」という欲望が
極めて吝嗇であったことに驚かざるを得ません。
そして、半世紀で見事に
権力者たらんとした彼らの欲望を露呈した結果が、
ソ連の崩壊であり、
ベルリンの壁の破壊を招いたというわけです。
だからと言って、
「資本主義」が社会主義・共産主義に
あたかも優っていたという勘違いを
今なおひきずっていることも大きな誤りであり、
不当な「資本主義の評価」だと私は考えています。
それは、本来「資本主義」で
武装した企業という集団には、
独裁制が平然と活性化してこそ、
企業の発展性がありました。
そして、その企業の基軸に「民主主義」は
まったく非在なことが多く見聞できます。
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10月 8th, 2009 Posted 9:35 AM
「資本論」は、明らかに欲望の構図が二重性、
あるいは複層性をしていたことを明白にしています。
その欲望の構図を
マルクスは当初に指摘してしまったのです。
ある見方をすれば、
「資本主義」にとって、
マルクスの存在はとても幸運だったと思います。
なぜなら、
マルクスの「資本論」は、
「資本主義の欠落点や社会構造にとっての不都合性」を
明確にしていたわけです。
そこで、
「資本主義を強化」していくには、
マルクスの指摘はテキストであり、
マニュアルになったのです。
如何に、
「資本主義」の進展や進歩を図っていくためには、
防衛を謀るべき事項を
マルクスの「資本論」に教示されたということです。
彼は「資本論」を
エンゲルスとともに体系化していくために、
エンゲルスに「数学ノート」を書き残しました。
それが、このブログの最初に紹介した「数学に関する遺稿集」
1949年に日本で紹介されたものです。
このノートの冒頭は、
「導関数」についてから始まります。
マルクスは、この導関数的考察を、
資本主義・対・共産主義、または、
資本主義・系・共産主義として、
比較検討することを自ら、
均衡性=バランス的批判をしなかったために、
「資本主義」を分解し非難しながら、
かえって、
「資本主義の防衛策略」を与えてしまっているのです。
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