kazuo kawasaki's official blog

『資本主義からの逃走』
 「私利私欲の「私」と、
 「公」での制度・法・制約からの解放」


   


     10月 30th, 2009  Posted 12:36 PM

「ム」は、音読みでは「シ」となります。
「ム」の形象は腕を曲げて胸元にまで回しています。
この動作は、「自分のもの」という所作です。
「私」と「公」には「ム」が仕込まれている形態です。
見事にこの「ム」は、欲望を示しているのです。

「私」は、禾=のぎへんにムです。
禾は稲穂の象形です。
禾=いねを自分の物にする、という欲望ですから、
「私」は、まさしく欲望を体現しています。
対して「公」は、八=はちがしらにムです。
八は、屋根のある空間です。
空間の中に、ム=欲望を配置しています。
「公」=おおやけを象形した中に欲望を集めています。
つまり、欲望の私的=私利私欲と、
公的な管理に欲望を集めてしまうという公益性です。

私とは、私的であることの欲望の個人性のことであり、
個人の欲望を社会的に公することを公益性と言います。

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● 資本主義は、
倫理性で「公」の理論と論理で、
私利私欲、その正当性の基本を
ある種謀議化したものです。

● 社会主義は、
私欲を離れても「公」の制度で私欲に囚われない人間、
そうした人格性が社会によって形成と保護を受けます。

● 共産主義は、
私利私欲はあってはならず、「公」の制約制度で、
人格の育成を成就できるというものでした。

しかし、
私利私欲・制度での保護・制約制度など、
全てのイデオロギーの長所を持ってしても、
「私的」・「公的」の構図内や図式上で、
個人としての人間と、集団としての人間は、
まさしく剥離していることに
私たちは気づいてしまったのです。

「私」と「公」を民主主義で、「制度」や「慣習」、
そして、「法」すなわち「公」で、
自由・平等・愛は、
個人の私利私欲に倫理性で、生涯の人格性をもって、
「公」なる社会で「幸福」なのだろうかと、
みんながやや疑い出しているのが現代、
生きている現実の感覚だと思います。


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『資本主義からの逃走』
 「連帯感と拘束感は同じ触感で、歴史かもしれない」


   


     10月 17th, 2009  Posted 7:00 AM

私はデザイナーだから、
イデオロギーも、
「イデオロギーのかたち」を想ってしまいます。
つまり、「イデオロギーというかたちの構造と機能」
という具合に考えると、
前述してきた図解という「形」に当てはめて考えます。

私は、デザイナーという職能を選んで生きてきたので、
「常に、かたち=形」が頭の中=イメージにも、
目の前=リアルに在ってほしいのです。
また、「かたちというイデオロギー」に
「資本主義」と「民主主義」を当てはめて考える、
というのが「正直な告白」です。

だから、
川崎和男の主義主張=イデオロギーは、
「かたち」だと想っていただければいいのです。
そして、「かたち」を存在させるために、
「ことば」は相当にむずかしい「言語」を選びたいのです。

理由は二つあります。
まず、「かたち」という形はありません。
対象物とした、例えば「コップの形」とか、
「筆記具の形」というのがあるわけですから、
「資本主義の形も在る」ことになります。
cup

ところが、
たとえ「コップの形」と言っても、
目の前にある「形の説明」はとても困難です。
それを伝えるのはイメージを
共有出来るかどうかということです。
それには、
ことば=「言語」の共通理解が必要です。
こうした言葉が一致すれば連帯感が生まれます。

しかし逆現象として、
その「言語」に拘束されることにもなるのです。
そして、もう一つの理由は、
連帯し共有し拘束されている感覚が「生きている」ということです。
いわば、簡潔に言えば「触感」です。

この「触感」をコントロールして「言語」として残せば、
それが「歴史」だと私は確信しています。
付け加えておくと、
「触感」という感覚の構造を詳細に言語化すれば、
「形が発する機能」を必ず生み出すことになります。

「デザイナー」という職能が、
「資本主義」とともにあった「歴史」から、
「資本主義の形」、
その機能を触感で受け止めることが
可能になるのではないかと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「観念論の構造と感覚論の機能」


   


     10月 16th, 2009  Posted 7:00 AM

「観念」と「感覚」の構造と機能が
イデオロギーの四句分別になっています。

ideology2

「観念」が主義主張されるとなれば、
その構造には、
「神話性」や「政治性」が備わるものです。

主義主張する人物には、
決まって、「カリスマ性」が生まれやすくなります。
その「カリスマ性」が
神話性のシステムを自然と引き込むものです。
それが、感覚的に機能を発揮すると、
イデオロギーは、共有感覚をともなって、
連帯意識を強化するものになります。

また、神話性を打ち消しつつ、
その主義主張がある種の支配構造を生み出します。
これが、「政治的な体系」、
すわわち支配システムとして機能を持ち始めます。
この政治的なシステムは、
制度性すら装置化して、
「拘束的な機能」になることがあります。

ともかく、神話性のシステムは、
連帯感覚を強化する働きがあり、
政治的あるいは制度化ということにまで至れば、
「拘束性」という不自由さを与える装置になるわけです。

「構造」、つまり関係性をシステムと化すのは、
「神話性」と「政治性」を、資本主義は全否定しました。
この全否定から、「民主主義」が派生したのでしょう。

この「関係性」への反撃論が
私は「資本論」だったと判断することができます。
「神話」と「政治」の結びつきを解き放つために、
「政教分離」というまことしやかさが
「民主主義」に配置されていたのでしょう。
連帯感は必ずその集団を拘束することにもなるわけです。

イデオロギーを終焉させるには、
観念をベースとした概念形態が、
意識装置の機能として、
連帯と拘束を解放する必要があると考えます。


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『資本主義からの逃走』
 「概念形態の体系と意識装置の体系」


   


     10月 15th, 2009  Posted 7:00 AM

デザインにとって、
「概念」=コンセプトというのは、
発想の原点であり、
結果である評価としての終点です。

したがって、
「イデオロギー」という思考背景となる観念論、
イメージを「ことば」として認識、
すなわち印画紙である脳内に定着させる方法は、
きわめて重大です。

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それは、「概念形態」として、
二つの構造系から成り立っています。
一つが、
「価値」、その体系化ができるかどうかです。
もう一つが、
「分析」という体系化ができるかということになります。

ところが、その観念=イメージに潜んでいる論理は、
「感覚」として把握されるものです。
見事に「概念形態」は、
「機能」を感覚に差し向けているのです。
必ず、その形態を感じることで、
理解する方向づけを迫ってきます。
それこそ「意識装置」で身繕いできている人間の存在性です。
それを確認できるのは、感覚であって思考ではありません。
その装置こそ、
自分が行動をしていくことの方向付けをさせられているのです。
しかもその「正当性」を納得できることにまでなります。
このように私は整理しています。

「資本主義」というイデオロギーの「概念形態」、
そこから感覚として自分の行動、
翻れば、社会や時代の方向付けと、
絶対的な納得という正当性、
それがあったということを明確に分別できるわけです。


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