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Posts Tagged ‘視覚化’


『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


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「資本主義からの逃走」
   「Visualization情報の多次元化という新コンテンツ産業」


   


     1月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

voir・ avoir・ savoir
情報のネットワーク化基本は「視覚化」。
視覚化とは、「見て分かる」ということです。
英語でそのまま、「I see」に他なりません。
仏語の「voir=見る・avoir=知る・savoir=持つ」も、
「見て知って所有する」という具合です。
情報リテラシーとは、
情報のアイテムである、言葉・文章・図解・絵図・音楽などをコンテンツと呼んでいます。
日本での「コンテンツ産業」の定義は、時代的な即応性や将来性を語りきることなく、
漫画とか映画、アニメーションなどの産業に限定されている感があります。
これはすでに時代的な即応性を欠落してしまっています。
これからのコンテンツ産業というのは、
情報の多次元化とそのネットワーク化へと進化しつつあります。
映画の多次元化=新コンテンツの派生
具体的に言うと、
「映画」がまずコンテンツ産業アイテムとしてありますが、
これが多次元化とネットワーク化していくわけです。
映画の多次元化というのは、
映画スターのファッションや、その撮影場所など、
「視覚化」されたことがまさに仏語のように、映画・主人公やその配役を見ます。
そして、演出道具やファッションや撮影場を知ります。
映画を見て、知って、さらに、そうしたファッションを所有したり、
その場に旅行するという多次元化が起こるわけです。
こうした多次元化全体が「コンテンツ産業」ということです。
多次元化コンテンツのネットワーク
そして、この多次元化されたコンテンツがネットワーク化、
これもこれまでのようなwebsite・HomePageやmail配信の段階から進歩することになります。
twitterやFacebookというSocial Networkになります。
したがって、Social Network上では、twitterやFacebookは、
メタメディア性、ホログラメディア性と私は名付けています。
そしてSocial Networkをも凌駕するContext Dynamics、
あるいは、Syntax Dynamismへと展開していくことになるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
    「Inclusive Designの近傍的定義はトポロジー解」


   


     12月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

Inclusive・Exclusiveの対比
Inclusive DesignはExclusiveと対比。
あるいは対照性や反照性で、詳細定義に近接。
私はこの近接性を「近傍性」と読み直しています。
果たして、Inclusive Designの本質と定義は、
   ● 形容するデザイン対象、
   ● デザインアイテム、
   ● デザインプロジェクトの実例を何にするかということになります。
これこそ「何がInclusive Designであるのか」、
今、その何が求められているかが問題=Problemであり、その解決=Solutionが解答になります。
そしてこの解答こそ「造形デザイン=かたち」になるわけです。
Inclusive Designの造形要素・造形要因は、
一人称=デザイナーから三人称=ユーザーに向けられます。
解決手法としてのトポロジー
そして、InclusiveとExclusiveが変位する次元と造形に、トポロジーがその解決手法である。
このことが実務デザイン手法であることに気づいてほしいというのが私の主張です。
私は、定義をとりあえず文法的なカテゴリーの「人称」にもとめました。
そして、人称を一人称・二人称、さらに三人称との関わり、
すなわち構造をどのように近接していくと定義に連続や収束をしていくのかをメモとしました。
つまり、「近づく」というのは、連続系なのか収束系なのかということです。
近接から近傍
しかも、連続や収束でもどこかで変位することがあります。
私のイメージはとりあえず、トポロジーを最も基本的に示している「メビウスリング」が、
そうした造形デザイン=かたちの印象になります。
理由は、メビウスリングは、二次元のテープが捻られて三次元リングになり、
どこからどこまでがInclusiveとExclusiveかを「かたち」で表象されているからです。
Inclusive Designとは「カタチ」表象として、
きわめてトポロジーデザインでもあると私は強調しておきます。
しかも、この「カタチ」はバーチャルであることに気づいていただきたいと思います。
メビウスリングでの実験
実験をしてこのイメージをつかんでください。
テープを一度ひねって、リングを作ります。
そしてそのテープの幅の中心線にそって切り分けると、これまた大きなメビウスリングになります。
ところが、テープを2度ひねって、メビウスリングを作り、
そのセンターラインで切り分けると、二つのリングがつながってできあがります、
まるで手品のわざですが、これは、明確に二つの概念を視覚化するでしょう。
そこでテーマにしているInclusiveとExclusiveが「かたち」造形化していくために、
一回のひねりと二回のひねりで、「近傍性」を視覚化していることになります。


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『資本主義からの逃走』
   「やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則」


   


     11月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

「デザイン=かたち」
私はデザイナー、死ぬまで言い続けるでしょう。
そしてデザインしたモノに「かたち」を与えます。
必ずや、「デザイン=かたち」の世界観に自分の存在があります。
しかも「かたち」という「カタチ」はありえないことが肝要です。
知覚から認識
「かたち」はまずは視覚化が大前提です。
次に「触覚化」できれば、見て触って確実に知覚できます。
知覚によってこそ、認識できるわけです。
私は、「聴覚のためのモノづくり=機器デザイン」から、
デザイナーという職能家になりました。
若いときには、「聴く・聞くカタチ」があってほしい。
それは音楽というかたちでは無いモノを追いかけてきました。
そのおかげで、「きく・かたち」=聴覚という知覚を体験する幸運に恵まれ、
今なお、いわゆるHi-Fi機器で日常生活を包み込んでいます。
だから、Hi-Fi機器には、ほとんど他人には分かってもらえない領域や機器世界観があります。
この世界観と生きてきたことも最高の幸せに恵まれていると思っています。
したがって、見る・触る・聴くカタチが「かたち」には在ると確信しています。
知覚・認識という実感は
ということで、突然、電話、それもケータイデンワのかたちを取り出すことを思いつきました。
その知覚性が認識に至ることは、現在の大きな「かたち」認識のことにつながっています。
ともかく、このことを厳密に熟考すれば、
大変に重大なことを知覚・認識、すなわち「人間として生きている実感」、
その世界観に至るだろうと予想するのです。
結論を急ぎたいのですが、
とても大変に大きな誤解を文意に書き残しそうなので、ここまでとしておきます。
結局は、「デザインするかたち」と「かたちとしてデザイン」されたこと、
どっちが先かということでもあるのですが・・・。


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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルの再検証にデザインを」


   


     11月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

経営仮説+収益構造
「ビジネスモデル」、簡潔には二つの要素です。
ビジネスモデル=経営仮説+収益構造。
そして、「モデル」という言葉があるのならば、
一般的なモデルの意味には、「創るモデル」と「探るモデル」があるということです。
「創るモデル」というのは、造形的「模型」や美術表現の「対象」になります。
「探るモデル」というのは、科学的な「対象」や仮説性を含んだ理論ということです。
デザインでのモデルは「モックアップモデル」という「模型」です。
したがって、モデルに対するビジネス対象は経営仮説=収益の可能性+経済的効果となる、
投資効果の模型を、次のように考えることだと述べました。
モデルの分類

   ■ 単純化モデル=対象が複雑なときに、単純化を探ること
   ■ 構成化モデル=成り立ちや構造を想像力を駆使すること
   ■ 近似化モデル=単純化してその構成が対象との近似性の有無
   ■ 同型化モデル=物理的・数学的あるいは文学的な同等性の有無
   ■ 相似化モデル=一目で分かりやすいように巨大化or縮小化

以上が、モデル=対象を把握する手かがりとしての論理化や視覚化ということになります。
そうして、あくまでもビジネス=経営という立場で、
投資する対象に対する収益可能性の仮説化という論理と具体性がビジネスモデルという呼称です。
「倫理性」・「美学性」
ところが、この呼称ゆえに派生してくる問題がいとも簡単に忘れられる傾向があります。
特にビジネスという要因性・変動性では起こりがちであるということです。
とりわけ、ビジネスは景気循環によって、大きな変位や変動があります。
この変動性ゆえに、好景気や不景気・不況は、収益仮説などを一辺に破壊することがあります。
この破壊を遮断できる人間性、人為的な正義は「倫理性」と「美学性」です。
デザインにとって不可欠なことは「倫理性」+「美学性」だと私は考えてきました。
倫理性+美学性=美・義・善の社会的な価値、つまり「恩恵」あるいは「利得」=benefitです。
ビジネスデザインモデル
デザインが究極目指しているのは、「美しい」という綺麗事であり、
ウソ・ホントや損・得や好き・嫌いではありません。社会的な善悪判断の価値観です。
それを社会的な「効能」、すなわち恩恵=benefitに他なりません。
したがって、私はデザイナーが関与することで、
ビジネスモデルをビジネスデザインモデルにしていく必然性を主張しています。
「美しい」というだけの価値は、profitもbenefitも超越しているものと確信しています。
この確信やデザインへの信頼が、
「何がモデル=模型であり、対象なのか」をあらためて再検証する動機になるものと考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「生老病死・身体空間性を見失うとき」


   


     10月 15th, 2010  Posted 12:00 AM

身体空間認識で見失うこと
身体空間は空間認識だとメモをしました。
E.T. Hallのプロクセミクス=proxemicsを参考にすれば、
それはレトリカルな表現が可能です。
ただし、このレトリカル性、あるいはアナロジー的な思考をプラスさせることは可能だと思います。
だから、身体空間は空間認識では次元的な表現に寄りかかることは簡単簡易です。
ただし、肝心なことを見失うことの哀しみから焦燥感や喪失感を私は考えてきました。
「身体空間=空間認識」が全く出来ない状況を人間=万人は持っているということです。
「生老病死」
つまり「生老病死」が、空間認識での身体空間性を見失うことだと思います。
私たちは、「生」の時空間、その時の身体空間は忘却しています。
「老」=老いていくことは、本来ならば蓄積されてきた経験によって、
身体空間を知り尽くしているはずです。ところが、
これは全く真逆のことになりかねない空間認識での危険性が満ちているということです。
「老」が「考える」という象形文字のコンテクストを十分にひきずっているということが、
実際はその真逆性があることにも転換していると思うのです。
物忘れから認知症・アルツハイマーは空間認識力を0次元にしてしまう無情さがあります。
そして「病」です。
病というより病気という身体的かつ生理的な異変は、
空間認識性をすぐに見失うものだということを私自身が沢山経験しています。
重篤ともなれば、その時の本人に身体的空間は、ある錯覚をもたらします。
たとえば、幽体離脱とか臨死体験です。私もこうした経験があります。
しかし、あれが幽体離脱といわれている白日夢にすぎないとか、
臨死体験と思えるような悪夢だったのだと私は自分の経験を整理しています。
無と空、ゆえの間
少なからず「生老病死」は、
身体空間の「無」あるいは「空」という哲学性や宗教性を打ち立ててきました。
特に、日本人の伝統的な文化だったとさえ考えることができます。
すなわち、身体空間と空間認識にとって、「生老病死」と「無」・「空」は、
実は、さらに重大な「間」という伝統性を創出してくれたいたのかも知れない、
というのが私の意見です。
身体空間のトポロジー
さらに、私は、自分の「生老病死」という多元性と多様性にトポロジー感覚があります。
身体空間のトポロジーだと表現しておきます。
このトポロジーは、確かに「空」なる身体内部を構造化していると考えています。
デザイナーゆえ、その視覚化=Visualizationに囚われきましたし、その解読を試みています。


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