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Posts Tagged ‘疑問’


『マンガ表現での瞳表現、そのインターラクション』


   


     6月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

日本の漫画はすでにマンガ=「manga」となって、
表現物の大きな文化性を国際化しています。
遺伝子に漫画印象が組み込まれているかどうかは
未だ定かではありませんし、
遺伝子を調整細胞として制御しているかどうかの研究もまだ最中です。
マンガを読むというライフ・ログとしての記録化と遺伝子関係は疑問です。
少なからず、ロボットを漫画で読んできた我々には、
確実なライフ・ログに組み込まれていることは間違いないと思っています。
たとえば、ロボットは日本の子どもたちは怖がりませんが、
欧米では、
子どもたちはロボットの存在に恐れをもっています。
またこの印象度を利用した「ゆるキャラ」はブームとなっていますが、
デザインが貢献しているのは「くまモン」のみと言い切ることが可能です。
なぜなら「くまモン」には明確なデザイン成果があります。
あとの「ゆるキャラ」となると、商業主義的な悲惨さがあふれています。
こうしたマンガやゆるキャラには、明確な分類ができます。
それは「顔表情での目」その表現にあります。
二つに分類されています。
黒い点だけと、白い中に瞳の黒点、この二つについては
阪大、私の研究室で黒い点に絞った研究が修士論文でまとめられました。
黒い点というだけの顔の中の配置だけで喜怒哀楽が表現されて、
黒い点の瞳感覚で充分に感情表現が可能だという結論を得ています。
むしろ、白い中の黒点瞳表現は、感情表現の限界を示し、
かつ、マンガでの顔表現では経年変化をすることが明らかです。
つまり、黒点瞳での顔表現は、生き物の顔表現を統合しているという
その結論は、
今後のロボティックスのインターラクションに繋がっていくでしょう。

*『キティちゃんにて確認できる「安全と安心」』
*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
*『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』
*『ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ』


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『参考人としての内閣府内会議にて・・・』


   


     6月 2nd, 2016  Posted 2:00 AM

昨日は「Ship of the Year」の審査会に出席し、
建築界の大御所とデザイン界の大御所(=恩師)と、
そして船長界のトップが審査委員長にて審査は連続して互角、
自分の職能上的に決して意志決定を譲らない、に感激をしました。
それぞれの専門職能界を背負う重責を目の前で感嘆しました。
連続して今日は内閣府に参考人として、
将来の政策会議に、親友の建築家・内藤廣氏と参加しました。
内藤氏はこれからの都市計画やオフィス環境の激変に対して、
さらにはまた、東日本大震災の復興計画も持ち出しながら、
時代革新での「日本ならではのコミュニティ観」について、
確固たる発言をしました。
「内閣府にて参考人意見とは?!・・・ん?」とも明言していました、
自分としてはようやく「コンシリエンスデザインでの完全無菌と抗体保健」を
きっちりと15分でプレゼには音楽も使い、浮いた感覚がありました。
委員の方から、「アレルギー対策での疑問」が自分にむけられたので
アレルギーとはギリシア語の「変化」と「力」から抗原と免疫、
そして大まかなアレルギーの現代分類を語ってしまいました。
内藤氏からは、川崎はこの場でまた負けず嫌いな反論をと言われる始末。
しかし大阪大学は「免疫」に関しては世界でもトップの研究集団であり、
万一大阪大学のしかも医学系にいながらアレルギーを抗原と免疫体系すら
もし応えられないとはとの批評が頭を過ぎりました。
しかし幸いにも重要な立場の方が二人とも
自分デザインのメガネ愛好家であり、
「医工連携」よりも
「看医工学」で「安心」が語られたことを喜んでいただきました。
内閣府にてIoMeT=Internet of the Medical Thingsと
コンシリエンス・レジリエンスデザインを語ることができました。

*『権威権力者を「演じる覚悟」を見せた建築家』
*『建築家の主張を、反撃反論にすべきを望む』
*『商品が記号となった実例・私の体験と確認』
*『コンシリエンスデザイン看医工学の危機解決対象・MERS』
*『IoTは、再度アナログとデジタルの融合が基本』


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『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』


   


     4月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

デザイン発想は「コンセプト」主義に呪縛されています。
僕は、コンシリエンスデザインと看医工学を対象として、
「コンセプト主義からの解放」を
新しい手法論に持ち込んでいます。
それは、文脈と物語性、コンテクストとアフォーダンスで
「ライン」にコンセプトからストーリー発想を込めています。
この結果がつながっていくのが、
インターネットの高密度情報ネットワークの基盤化です。
ところが、これはすでに「スマートシティ」計画や
「ビッグデータ」に結びついていますが、
現在、この言葉もコンセプト、
ほぼ概念どころか観念に近く破綻しています。
これは何としてもコンシリエンスデザインの実務実績の目標です。
また、わが国の3.11での天災と人災では、その復興と対策は不可欠ですが、
国内の全大学でも、3.11を教訓として「レジリエンスデザイン」は大欠落。
僕の次世代デザイナーへの置き手紙はここに集約されなければなりません。
これらをテクノロジーで陵駕していくのは、
まさしくロボット社会ですが、
これは、人工知能的な思考に「手=脳」というアナログ性をデジタル化が
コンシリエンスデザインの最大目標だと認識しています。
そこから、このデザインの対象は
「私たちが幸福だろうか」という根本疑問があります。
この問題解決・価値創出・未来創成を創発させるのは、
「ライフケア」という新たなプライバシーと社会的な新たな制度設計です。
これらを成し遂げる次世代デザイナーは、
必ず、「コンシリエンスデザイン」を下敷きにした、
デザインテクノロジストの養成だと考えています。
インターン生・研究員を公募しています。

*『看医工学としての介護のコンシリエンスデザイン』
*『モノの神話性から物語り性がアフォーダンスを超えていた』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『プライバシーという人権の荒唐無稽さ』
*『コンシリエンスとレジリエンス』


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『思考の「思う」という象形文字からの意味』


   


     1月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」をことば、そして概念として再考するには、
まず、「思考」その「思う」:「思」について、
この漢字の由来=象形文字からの系譜とその意味獲得を見直してみます。
かつて著名な国語学者が新書で「思考」について、
その記述は間違いだらけだったことを僕は覚えています。
理由は簡単で、まず、漢字であることには
二つの意味があることを全く無視していたことです。
現在も僕はこの二つの意味が確認されることなく、
「思考」=THINKINGという訳語が生まれて当然だという認識に
疑問ありです。
二つの意味とは、「思考」というのは古典中国的には
見事な陰陽説が裏付けになっていること、
つまり、陰陽説を適合すれば、THINKING一言に決してなりません。
まず、僕は陰陽説では「思」は、陽であり、
これは全く感性的な思考を意味していることを語るべきです。
その根拠は象形文字に見事に的中していることです。
「思」は「田」と「心」から成り立っています。
そして、「田」という漢字要素は、頭蓋骨をシンボルにしています。
しかも、この頭蓋骨も乳児の頭蓋骨、
その「泉門」を含んで解釈が成立します。
「泉門」は、胎児がすでに羊水に居る頃に、
感性で受け止める反応・認知がスタートするということです。
そしてもう一つの「心」も、心臓をシンボルにした象形文字です。
血管+形態としての袋体、そして2つを明示しています。
この2つの明示は、かつては右心房右心室+左心房左心室だと、
中国時代は解釈されていたのかもしれませんが、
心臓は他の臓器とは大きく異なり、感情がそのまま反映するところです。
それは、ドキドキしたり、不安になったり、喜びで高鳴る、
これは明らかに自律神経の交感神経、
もっと専門的にはβ1とβ2という神経回路が心臓を制御していることです。
確かに、感情が心臓には大きな影響を与えていることになります。
生まれてすぐに働き始める感性と、感じて動き出す感情が表す、
行動が「思う」という意味を与えているとみています。
結局、「思う」という意味には感じとる生来の感性と、
感じ取って生理的な感情が心臓を制御しているということです。
したがって、「思考」の「思」だけでは、
THINKING一言には至らないことは明らかです。
僕はあらためて、「思考」の「思」については、
思いつきこと思い込むことが生まれてすぐに
「思う」という行動に直結していると「思います。


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『芸術で学術は語り切ることができる』


   


     12月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

学術性と芸術性が分断されてきた教育について
私は長い間、大きな疑問をもってきました。
単純には、二つの現象があります。
主要五科目=国・数・理・社・英と音楽・美術・体育という
この対比に日本の教育は縛られてきています。
最も体育というのはすでに間違いであり、スポーツでしょう。
そして、主要五科目が学術性とされ、音楽や美術が芸術性です。
幸いにして、私は美術大学に進学し、就職ではオーディオを選びました。
そのおかげで、美学の世界(美術と音楽)から、
学術性を外側からみてきた気がしています。
しかも、私はすでに大学人になってあらためて学術性の世界にいますが、
正直、今頃になって、講義内容を芸術=美術や音楽、
それらの作品をヒントに語っていくことで、確実な学生たちへの
講義教育での説得性と納得性を感じています。
しかも幸いに私が大阪大学大学院の医学系研究科から与えられた
そのミッションは、「コンシリエンス」であり、
それには「レジリエンス」といういずれも18世紀からの、
学術性と芸術性の「融合・統合」化でした。
明確に見えてきているのは、
学術性を延ばせば、芸術性は確実的に落ち込みます。
同様に芸術性が伸びれば、学術性が低下することです。
そして、この元凶は明らかに主要五科目で緊縛してきた教育でした。
この図は見事に一般的な能力が教育的な緊縛に閉じ込められた、
結果でしかないと私は思っています。
おそらく、この図に人間の能力が落ち込まないことを
私は目指していきたいと考えています。
具体的には、学術性+芸術性=デザイン、
それもコンシリエンスデザインであると結論づけています。
ちなみに、私は「Concept」:概念を教えるときに、
ベラスケスの美術作品である「ラス・メニーナス:侍女たち」を教材に、
芸術から学術での概念と観念を明示することができます。
こうした自分が元来デザイナーであり、デザイン活動での
芸術+学術=デザインを
新たな統合性として「コンシリエンスデザイン」を語るには、
私は、この図のような能力の低下を防御することを
最大に考えています。
今後、私は、学術性を語るには、美術作品・音楽作品で
充分に講義することが出来ると確信を持っています。


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『若手デザイナーの海外個展を応援する』


   


     11月 9th, 2015  Posted 12:00 AM

私が自分のデザイン活動をようやくニューヨークで
発表したのは30代中頃でした。
それは、いつか、海外で発表をと思っていた時期に、
米国のギャラリーからも誘いをいただきましたが
資金もなくて1年間待ってもらった経験があります。
そしてニューヨークでの個展から、
ようやく私も海外での仕事ができるようになりました。
日本がバブル経済で東京が浮かれているのを私は見ていて、
何か、変だと思っていたときは、
Apple本社でいくつかのコードネームでデザイン提案をしていました。
だから、最近は、次世代デザイナーの一部の
海外での活躍ぶりには目を見張るものがあります。
しかし、海外での日本人デザイナーの仕事は、
明確にはっきりとしつつあることが起こっています。
海外でのアドバンスデザイン展でのプロトタイプをコピーし
まさに盗作。
この情報も私には届いていますが、
先般の盗作問題もあり、
私はこうしたことが一般化することを反対しています。
これは正当な海外進出ではありませんから、
やがて国際問題にならないことを願いますし、
この事実は黙秘せざるをえません。
しかも海外評判を国内に逆輸入しているデザイナーには呆れます。
それを助長しているマスコミには大きな疑問があります。
国内の雑誌などで、いかにも国際的活動だという取材を見ると
残念でなりません。
しかし、このところインテリアデザインを主体に活躍している
Yasumichi Morita氏が、今度はインテリアを超えて、
写真家として、しかも写真表現そのものを
モノづくりに向けて、パリで発表することを以前から聞いていました。
丁度、パリには行こうと考えていた時期と重なり、
その個展を見にいくつもりです。
欧州には、教え子たちが何人かいます。
フランスにはインターン生だったフランス人もおり、
彼の仕事ぶりが心配なので会ってこようと考えています。
また、教え子たちでも車関係・カーデザイナーを目指す子は
企業留学しています。
私の時代、何も分からずに米国から出発しましたが、
最近は、なんとか次世代のデザイナーに
私に出来ることはないかということを自分に求めています。
なにしろ、最近は海外を目指す若者が減少しているだけに
そのことが不思議でたまりません。
Yasumichi Morita氏の国内外の仕事は、かえって海外での評価が高く、
そうした仕事は、海外からの依頼かと思っていましたが、
すべからく自分でそうした仕事を求めて行くという勇気を
私は絶賛しています。
彼がパリで、写真家、そしてそのデザイン応用の個展は
ほとんど国内で宣伝をしていませんが、
私自身、その個展を見てくるつもりです。
幸い、教え子たちにも会えそうです。


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『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』


   


     8月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

私の企画戦略には必ず立ち戻る基本があります。
それはインド思想の木火土金水と仏教思想の風地火水空です。
この四句分別によって25 のマトリックスが生まれます。
それは25のコンセプトが生まれるということにつながります。
少なからずこれは世界観での25の問題点が整理されたコンセプトです。
しかし、これだけ全てを列挙すると、二つの疑問にぶつかります。
まず、デザインでそのようなことをやってもらいたいとは・・・
これで台無しにして仕事をどれだけ失ってきたでしょうか。
デザインでそこまで語ってほしくは無かった・・・
これで仕事をしたくない行政マン、役人(人に役立つ人)を知り、
彼らの生息生理をほとんど知ってしまいました。
このことで、若い頃はクライアントに喧嘩を売り喧嘩師になりました。
最近は利口になって、インド思想にも仏教思想にもある火と水を
主体的に語っていくことを中核にしています。
無論、両方の思想の核心にある火と水には同意性と差異性があります。
それを論理的に学び直したのはガストン・バシュラールでした。
バシュラールは、明確に水と火は対照的な著作を残しています。
そして彼の著作を度外視していたつまらない輩がいたこともあります。
私にとって、現実的には、水と火、それぞれがCGになる過程を
まさに米国で立ち会ってそのプログラミングを見ることができたこと。
これは生涯の思い出になっています。
しかも、このNatural Phenomenaというコードネームには、
明らかにバシュラールが基底で語られていたことです。
火も水も、デジタルとして燃えさかることと水滴や流れまでが、
制御と否制御が起こってしまうことでしたが、
結局、火は燃えさかっても熱くはなくて破壊することがありません。
水も自然と水滴から大洪水も決して起こらないことです。
これがデジタルの限界でありながらも、自然よりも勢いがあります。
私は、自宅にデジタルの全く無温度の火と水を配置します。
それこそ、自然と人工を対比させた日常を側に置いてみることで、
自然=アナログを絶対にデジタルで調和も制御も出来ないことを
言い聞かせる手法だと思っています。


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『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』


   


     8月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

レタリングにはセリフ体とサンセリフ体があります。
これはレタリングの基本的な知識です。セリフは形素に過ぎません。
だからセリフを主体的にするのは疑問ですが前衛と理解します。
セリフ体というのは日本語では明朝体、サンセリフはゴシック体です。
これはデザイナーになるための基本的な書体描画トレーニングであり、
バウハウス時代(ドイツで創設さえれたデザイナー学校)時代には
ハーバート・バイヤーによってセリフ体は徹底した基本が整理され、
おそらくこのトレーニング教育がアルファベット作成の根本です。
今、私の母校ではこの訓練があるのかどうか知りませんが、
私の世代ではこの根本を泣きたくなるほど訓練されています。
私はCaslonでセリフを、Futuraでサンセリフをデザインストローク、
つまり定規無しフリーハンドで、身体が暗記するほど訓練をしました。
したがって、バイヤーの創作したサンセリフ体は、
現代世界共通で公的な利用が当然であるHelveticaでは遵守されてます。
このレタリング基本が無いアルファベットは「アルファベット風」の
単なる色彩構成に過ぎず真のデザインとは言えないでしょう。
しかしデザイン系大学でこのトレーニング訓練が無くなっている様で、
そのようなロゴタイプづくりやレタリングが氾濫しているようです。
これでは欧州では本来徹底して否定されても仕方ありません。
今話題の、ベルギーの劇場マークも東京オリンピックエンブレムも、
両方とも言うなればこの基本訓練が全くありません。
セルフ体でもサンセリフ体であっても円と直線の関係は、
「ヘアーライン補正」欠落のデザインはアマチュア作品です。
このことを度外視したデザイン風の色彩構成をデザインとは
絶対に呼ばないでいただきたい。プロフェッショナルデザインが
これでは専門職的な社会的な責務が果たされていないからです。
ベルギーも日本も、デザイナー訓練が全く果たされていないことを
私はプロのデザイナーとして、デザイン学者として書き残します。
エンブレムデザインでの商標権を著作権で訴訟とかいうベルギーも
デザイン職能倫理を両方が無くて何が訴訟争いだというのでしょうか。
デザインを台無しにしていることを私は指摘しておきたいと考えます。
こうしたデザイン基本訓練無しの教育を受けてきたデザイナー達が
哀れな闘争をしはじめていることを私は非難しなければなりません。
両方のデザイナーの能力がバイヤーの論理知識無しに呆れます。
私の疑いは日々深まり、これが社会批判の根元かと想う次第です。
デザイン系大学のレタリング教育を見直すべきです。
プロフェッショナルデザインとして社会批判は当然だと想います。


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『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』


   


     1月 12th, 2014  Posted 12:00 AM

私が仏教関係の書籍を最も読みあさったのは29歳でした。
それは車倚子生活を余儀なくされたので、
「なぜ、自分にこのような生涯が・・・」という疑問からでした。
したがって、仏教関連の書籍は相当に持っていますが、
先般、森政弘先生の講義を受けて、
すぐに先生の「仏教新論」とともに、
講義の核心であった「華厳経」はこれから徹底的に読破を決定。
届いた「華厳経」の口語全訳は上下二巻でこの厚さがあります。
少なからず教養的に知っている程度では森先生の講義本質には、
私はとても到達はできないと考えました。
「華厳経」は、様々な仏様同士の会話であり、
この経典が仏教の骨格であり、あの道元もこの引用がありました。
森先生は、坊さんが葬式で読むあの「お経」の意味に興味があり、
この「お経」から哲学的な思考とその結論を知ったという話です。
いわゆる「般若心経」の解説本のいい加減さも批判されました。
私にとって「読書する」ということは、
一人っ子で育ったこともあってか、とても好きな領域です。
私は常に思います。
「読書」が何よりも好きだったことが、
そういう家庭でそだったことがとても幸運だったと思います。
「大学人の間は持っていなさい」と恩師に言われて、
名古屋から大阪にほとんどの書籍を移しました。
もう書籍などいらないとすら思っていましたが、
結局、自宅の寝室は常に書籍だらけになってしまいました。
ともかく、整理をし直して、
これからこの「華厳経」の世界にどっぷりと入ってみます。
最近は、電子本であれば読書も簡単ですが、
この上下二巻は、本の香りがします。
これを読み終えたなら、また私の活動の何かが変わるでしょう。


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「ブルー青色へのヒューマン・ファクター問題」


   


     8月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

最近は空を見上げることが増えました。
今年はまだ海の青色を見ていません。
青は私の持ち物の基本色にしています。
だから、大好きな色です。
ただし、デザイナーは好きな色は持たないことは鉄則です。
色全てが大好きでなければいけないということを私は美大で学びました。
私も「色彩論」では、学生には「全ての色を好きになること、
色に対する依怙贔屓はしないこと」を教えてきました。
青色は、空と海と鉱石や貴石に存在しています。
写真は銀座の夏空に、工事クレーンが一つの風景を成していました。
とても清々しくて、被災地にもこの青色が広がっているけれど、
被災地の皆さんは希望を持たれているのかと想像しました。
さて、可視光線・青は450~495nmの波長があります。
パソコンが普及して20年目に一つの結果が出てきたようです。
450~495nmの青に対する眼球反応が
とうとう生理的な劣化が始まってきているという指摘があります。
これは、かつて私がプラズマTVからの近赤外線が
子ども達の視覚に危険で相当の懸念ありかもしれないと発言し、
メチャクチャに叩かれました。
今もその時の叩かれ文が残っています。
が、結局、プラズマ表示画素は市場存在価値を失いました。
最も、トリノの冬オリンピックでのプラズマTV販売は
欧州からは拒絶されていたことは知られていません。
プラズマ技術が私の予想通りに、
対人間への弊害が明確になっていたからでした。
そこで、最近は、パソコン画面用の眼鏡は、
「青色対策」として喧伝されて商品化されています。
しかし、私は、現在喧伝されている商品が
「青色対策」を確実に具現化しているとは評価していません。
解決をつけるべき問題提起と問題解決には、
単なる商業主義的な能書きしかないと断言しておきます。
私は、パソコン画面なら、まずは「ドライアイ対策」そして、
「青色反応劣化の原因が、なるほどパソコン画面なのだろうか」、
450~495のどこをフィルタリングしているのか疑問だらけです。
まだ疑問点や安価な製品での限界がありすぎます。
もっと懸念すべきはWiFi電磁空間が人体に及ぼしている結果が、
やはり20~50年後に明らかになるかもしれないことの方が心配です。


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