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Posts Tagged ‘手法’


1月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 6th, 2012  Posted 10:00 AM

1月6日 赤口(丙寅)

「発想・表現・伝達」の
並行思考ができる人は非常に少ない。
なぜなら、
教育という手法で
最も欠落しているからだ。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


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「問題解決なのに「応答」商品の氾濫」


   


     12月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本のデザインは方向を間違っています。
誰かが指摘しておかなければならないでしょう。
私は、「応答商品」が氾濫し過ぎていると思います。
デザインは問題解決の手法です。
そして、問題には三つの種類があります。
話題・課題・問題です。
だからそれぞれに「答」がありますが、
これも三種類の答があることを認識すべきです。
話題に対しては「応答」
課題に対しては「回答」があります。
もちろん、話題に対する答としてのデザインは、
造形として、かわいいデザインであったり、
その商品存在が話題になるべき流行やファッション性、
これは不可欠のことです。
社会的な課題になっていることの「回答」商品も必要です。
そして、元来、根本、極めつけは、
何が問題であるかを見つけ出し、その解決「解答商品」が最も重要です。
どこか日本のモノづくりが歪み出しているのは、
「解答商品」を新商品で見かけることが少なくなってきました。
まだ、課題に対して「回答商品」ならば、
国際的な競争力があります。
しかし、ともかく社会的な「話題」だけを追い求め、
あたかも共時性があると錯覚している商品は、
「応答商品」にすぎません。
そのような商品づくり・モノづくりは、
頭脳集約産業の「答」商品ではないことを確認しておくべきです。
どの分野のどの領域かは明言できますが、
まずは、「応答商品」を話題にしている産業は、
確実に国際的競争力を喪失するのです。
私は自分が「買う」と判断するときには、
必ず「問題解決」を果たしているモノを選びます。
日本の再生として、ともかく「問題解決」がデザインであり、
その答としての「解答商品」づくりに
集中させなければならないと考えます。

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「進化した光造形・ラピッドプロトタイピング」


   


     11月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

私が大学人になった一つの理由です。
それは、光造形=ラピッドプロトタイピング、
この手法をプロダクトデザインに導入したかったからです。
米国で、ALIAS社とプリンストン大学で開発途中の光造形、
そのモデルは小さな平板の歯車でした。
その歯車がきっと立体になるという直感でした。
日本では手に入らない光造形原書を読みまくりました。
「クラインボトル」がモデル化されていた写真、
これは多分、合成写真だと思いました。
自分で試したい、その気持ちが大学人につながりました。
1996年、名古屋市立大学に芸術工学部新設時、
私の研究室には、光造型機(紫外線レーザー)と、
周辺のワークステーションと初期の3D-CADが入りました。
結果、「クラインボトル」を当時の3D-CADでは、
ほとんど製作が困難でしたし、
3D-CADからSLAデータへの変換などで自分を鍛えました。
素材も湿度影響などでとてもやっかいなものでした。
したがって、3D-CADソフトの変遷は全て見てきたと思います。
今や、半導体レーザーでの光造形はすでに一般化しました。
そして、光造形での素材も初期のエポキシ系からは
相当に進化し透明になり、湿気影響なども全くなくなりました。
そして、この組み合わせた「クラインボトル」は、
研究室訪問のゲストにプレゼントしているモノです。
今回、KAIST=韓国科学技術大学院大学へ持参のために量産。
そしてこのクラインボトルを二つ組み合わせて製作可能も、
ラピッドプロトタイピングなればこそ可能になります。
この組み合わせを、米国・フィラデルフィア大学でプレゼし、
ティニアである教授達との会話から、私が「人工臓器」、
なかでも「人工心臓へデザインを」という動機になりました。
これまで、私は名市大から阪大の研究室につながるまで、
この製作によって、様々なノウハウを持つことができました。
「点・線・面」の概念が、
それこそ、カンデンスキーの芸術的予測は、
数学領域での「空間論」と対峙することを暗示していました。
点には大きさがあり、それは限りなく正方形であり、
線には太さがあり、面には厚さがある、という予想です。
光造形=ラピッドプロトタイピングは、
もっと造形教育に取り入られるべきものだと思っています。
米国の大学では、デザインや建築の実習では当たり前です。
すでに、3D-CADは6D-CADに進化していることも
「モノづくり」日本に多次元CADは不可欠な領域です。

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「日本の貿易アイテム液晶TVは再戦略化不可欠」


   


     11月 4th, 2011  Posted 2:33 AM

私はナナオのモニター技術で、
FORIS.TVという商品ブランドを立ち上げました。
そして、ナナオという小さな企業力エリアで、
その商品ブランドは成功させることができました。
FORIS.TVは、ファッションブランドショップでは、
デザインと品質で未だに選ばれています。

しかし、「地デジ化」が始まる直前に、
液晶TV事業を撤退させました。
理由は、国内販売・流通での利益率が極度に低下し、
とても大メーカーのような流通・サービス体制が
困難との判断がありました。正解でした。
デザイナーとしては個人的にもとても無念でしたが、
海外への輸出も、モニターのようなシェア獲得は、
とても不可能だろうと判断したことです。
けれども「性能・機能とデザイン」は、
決定的に国内では今もダントツの技術効果がありました。

最近では、国内の液晶TV事業撤退が始まっています。
まず、液晶TVでは私の評価でも最高水準であったビエラ、
この事業規模縮小というのには驚きました。
今、世界で最も技術成果で「映像の完璧さ」は、
東芝のレグザの最高機種=90万円しかありません。
可能な限りの技術を投下し、
市場の「投げ売り」価格とは切り離して、
まったく無関係にしているXシリーズだけでしょう。
これはナナオのモニターでも最高級70万円を生産した手法です。
それでも大量販売は無理でも必ず「売れる」のです。
かえって、「安売り」している機種は、
いわば共食い状況で潰れていってしまうわけです。
これは「ピッグ・サイクル」(養豚の安売り手法)です。
少なからず高価格にならざるをえない商品化が必要です。
私は自宅のシステムはレグザでネットワーク化と、
7.1chの超Hi-Fi環境をつくっています。
もう一つが、FORIS.TVとFORIS.HDです。
このリゾルーション技術を追い抜いている機種は皆無です。
ともかく「音響と映像」は私の極度な病的趣味性で、
現在の最高技術を生活環境に取り込んでいます。
映画館の映像などはもう観がたいほど解像度がありません。
私は、国内液晶TVの技術・デザイン・流通・貿易手法を
もう一度再構築すべきだと提言しておきます。
要は、「最高の音響と映像」を「つくり手」が熟知すべきです。
日本製であることは、高級な液晶TV生産です。
そして世界一のモノを国際化させるデザイン戦略が不可欠です。
やがて韓国も中国生産液晶TVに敗北することになるでしょう。
となれば「日本製液晶TVの新技術と革新デザイン」です。
そしてそのことを決定できる経営哲学が必要です。
日本の液晶TVは「高級化・高価格化」で、
何が「音響と映像」で最も素晴らしいかを問い直してみるべきでです。


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9月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 21st, 2011  Posted 10:00 AM

9月21日 先勝(己卯)

イメージを蓄積してから
スケッチを描き出すことは
発想の手法ではない。

私の場合は、
イメージを考えてから
スケッチを描くのではなくて、
スケッチを描くことから発想が始まる。

『デザインという先手』志


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9月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 2nd, 2011  Posted 7:33 PM

9月2日 赤口(庚申)

手法と手段という日本語は、
言い換えれば、
戦略と戦術であり、
企画と計画である。

『デザインという先手』手段


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8月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 7th, 2011  Posted 10:00 AM

8月7日 友引(甲午)

社会に取って、
教育に最も象徴的な
理念と手法があるということが、
その社会の文化の核心ではないかと思う。

『デザインという先手』「手法」


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「デザインを読むという解釈」


   


     7月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

デザインされたモノを知ること。
それはデザインを読み取るということ。
デザインの背景、動機、手法、意味などを
読む=解釈するということになります。
ユーザーにとっては、
デザインされたモノと対峙したとき、
その直感で自分との関係を知るだけのことです。
しかし、職能家としてのデザイナーならば、
デザインテーマ、すなわちデザインが問題解決したこと、
そのプロセスを読み取る=解釈することになります。
したがって自分のデザインではない他のデザイナーのモノ=作品ならば、
「解釈」への手続きは次の三つの段階を経ているでしょう。
まずテーマ・問題あるいは課題を解体したり解剖したり溶解します。
これは問題解決の最初の段階です。
ところが、他のデザイナーの問題解決ならば、
読み取り過ぎることが多々あることです。なければなりません。
その問題解決をしたデザイナー以上に深く、
あるいは大げさなほど知り尽くそうとするかも知れません。
それは解釈し過ぎになるでしょう。
けれども、デザインの本質にとっては、
デザインそのものの社会的職能意義を明確にする手続きです。
デザイン手法をさらに明確化する重大性があると私は考えています。
言い直せばデザインの解釈とはまさしくデザイン評論であり,
デザイン評価の根幹はこの解釈段階にあると思います。
問題自体の解体・解剖・溶解・分解を経て、
そのデザイン要素や要因を解釈・解説し直すという作業の重大さこそ、
デザインの本質を突き止める二段階目だということです。
ややもすれば読み取る「解釈」は、本来デザインをしたデザイナー、
その問題把握力を上回っているかもしれません。
しかし、デザイン評論やデザイン評価が必要だというのは、
この深読み解釈が次のデザイン手法をそのものを
拡大・進化させる大きな手かがりだと考えるべきでしょう。
無論、一つの方法論です。
私は、今や「天才」と言われる倉俣史朗の問題解決、
その手法から動機、結果、意味を深読み解釈しました。
私の深読みが彼を天才にならしめているとさえ思っています。
歴史は、後世その解釈によって、
歴史事実を小さな物語から大きな物語にします。
その中心人物こそヒーローでありリーダーであり天才となるのです。
そしてこの歴史記述こそ、
人間が綿々と連鎖させてきた「知恵」の集積という伝統だと考えます。
解釈をし尽くした時、人は「解放」されることになります。
それが問題解決した効果・結果ということでしょう。
今日、私は「「倉俣史朗のデザイン」」を、
デザイン界の形見として私の解釈を語るつもりです。

夢の形見に」講演会


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11月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 17th, 2010  Posted 10:31 AM

11月17日 先負(辛未)

発明したら発表するべきだ。
商品化できなくとも、
夢はみんなが共有できるではないか。

米国は、この手法で
どれだけ夢だけを与えて、
その後で思いっきり
失望させてもくれたことか。

それが情報化時代というものだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』器量相発


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『資本主義からの逃走』
 「#チュッパチャプス武器論・戦術結果は「効能」成果#3」


   


     3月 22nd, 2010  Posted 12:01 AM


仮説としての性能・機能から
さて本論は背景と手法を述べましたが、あくまでも私論です。
私論ですから、本論に基づいての「結果」については、
なんら結果としての成果については保障はご勘弁いただきます。
本論はあくまでも武器論という論述にすぎません。
つまり、武器は本来は論じるものではないほど、
直裁的であり武器は「効果」の威力性が
「性能と機能」を有してます。
したがって、戦術結果というのは「効能」についての仮説論です。
効能結果の仮説として本私論とします。
手法の骨子は、大きくは二つでした。
まず「自己防衛」自分自身を護る武器としてのチュッパチャプス。
「専守防衛」としての威嚇性能・抑止性能としてのチュッパチャプスです。
そして、武器としてはまったく認知性が皆無であるという実例を示しました。
この手法論は、性能性と機能性でしたが、
結果=成果は、効能性=効能論は仮説となります。
効能というのは、チュッパチャプスの「能書き」です。
本論によって、
チュッパチャプスをこれからポケットにしのばせる人への取説、
取り扱い説明書的な注意書きとしておきます。
あくまでも仮説として読んでおいてください。
とは言うものの仮説というのは謙譲心にすぎませんが・・・
効能
これは三つあります。
1● チョッパチャプスをむき出したパッケージ屑は必ず所定の場に捨てることです。
食べた後のスティックの処理は二つあります。
確実にゴミとして相当の廃棄処置(燃えるゴミ)とするか、
綺麗に洗浄して収集するかのいづれかの選択を決定しておくことです。
収集すれば、また新たな世界があるはずです。

2● これは武器ゆえに、使用にあたっては、
必ず、対戦相手のみに使用し、
ターゲット以外を巻き込むことはあってはならないのです。
まだ、武器指定はされていませんから、
ターゲット以外が、本論を認知してれば、
時に、「不快感」を与えるか「愉快感」を与えるかは、
効能として大きな成果として、
反対極性があることを認識しておかなければなりません。

3● 武器を贈与する成果に対して、その効果を見込んで、
贈与相手を利用しての二次使用効果を策略化することは、
チュッパチャプスの文化性と倫理性を破壊するので慎むことです。

以上が、
結果=効能性成果としての注意能書きとして記しておきます。
ただし、私がここで本論を記してしまっているということは、
明らかに、
贈与相手に対しての二次使用成果を望んでいることを告白しておきます。
武器論とは本来は、
「護る」コトや「護る」モノを明確にした平和・抑止論であるということです。
「モノの体系」へのデザインコンセプト論
私がチュッパチャプスを事例にしていることは、
現在文明での「モノの体系」へのデザインコンセプト論である、
と考えて読了していただくことを願っています。


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