kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2010


5月3日Staff Blog


   


     5月 3rd, 2010  Posted 10:00 AM

5月3日

常にスケッチブックとペンを持って、
スケッチをする
BOSS(川崎和男Kazuo KAWASAKI)。

芯の柔らかさや発色の良さから、
最近はほとんど、この
ステッドラーエルゴソフト色鉛筆
使っています。

スケッチブックは蛇腹になっている
MOLESKINE Japanese Album
以前Detour展MoMA Design Storeにて
スケッチも展示しました。


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5月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 3rd, 2010  Posted 9:00 AM

5月3日 仏滅(癸丑)

製品であるTVは、
スイッチが入っていないときに、
その存在を際立たせるのだ。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・1」


   


     5月 3rd, 2010  Posted 2:27 AM


「容」を「かたち」と、
ふりがなをつけて表現した作家に浸りきっていた時期がありました。
容姿や容貌という字形文字につながる漢字です。
欲の対語とも言われ、「空」のごとく空っぽにも関わらず、
容量という、中にものを入れるゆとりや、
「刀を容(い)れざるなり」など、
着物姿の女性を「美しく」表現するために、
その作家は当て文字にしていました。
デザインするモノの姿は、
容姿、容貌が「美しく」あってほしいという
私なりの願望を私もこの漢字に託したのです。

命題から述語へ
さて、「デザインとは何か」とか、
「自分とは何者か」というのは、命題への問いかけです。
しかし、今や、情報としてモノは、その姿=容を外観化しています。
それは、外観から命題へという傾向があります。
私は、「述語論理」に価値観が集中し始めている時代、
ということを述べてきました。
おそらく、「資本主義とは何か」とか「民主主義とは何か」、
これらも、世界中が、
命題論理に時代も社会もひたすら懸命だったのかも知れません。

私は「容」という漢字で、
モノの容(かたち)=Mediaがデザインである、
とひとまず言い放ってしまう述語的思考から、
integretionへと向かうものと考えます。
これまで記載してきたことに連続させれば、
「内容」がかたち=形態から形式になるから、
それをデザインと呼びます、ということです。

アンチテンション
私の代表的な製品アイテムに「メガネフレーム」があります。
20世紀最後に、
「アンチテンション」という「容」を商品化しました。
「メガネとは何か」という命題を離れたのです。

「アンチテンションがメガネである」という
述語的なデザインをしました。
アンチテンションというのは、
レンズにフレームの歪みを与えないこと、
だから、瞳孔距離を変えてきてしまった「形式」を
変貌させた容貌にしました。
そして、今ではレンズにテンプルを拡げても歪みを与えない
「形式」=「形態」がフレームメーカーでは、
重要なアイテムになっています。
メガネフレームはMediaであり、Toolでもあります。
そして、何がメガネフレーム「容・かたち」となっているかは、
レンズに常に与えていたテンション=ストレスを
解放するという述語的概念に
デザインを与えてきたことだと確信しています。


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5月2日Staff Blog


   


     5月 2nd, 2010  Posted 10:00 AM

5月2日

ずっとブルーの小物たちを使っていた
BOSS(川崎和男Kazuo KAWASAKI)。

最近では、
クロコダイル皮のブラックがお気に入り。
スケジュール帳に、メモ帳、名刺入れです。

正鰐亜目に属するワニ目は、
アリゲーター科、クロコダイル科、ガビアル科
の3科に分類されます。
こちらの小物はクロコダイル仕様。

因みにクロコダイルとアリゲーターの違いは、
体を覆う硬い鱗板(りんばん)に
熱感知器官がある(クロコダイル科)か
無い(アリゲーター科)か、だそうです。


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5月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 2nd, 2010  Posted 9:00 AM

5月2日 先負(壬子)

TVはスイッチが入っていれば、
放送の内容が
その空間に存在する。

そのとき、
TVという
製品のかたちは消去している。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integration・形式のデザインは内容を一新・10」


   


     5月 2nd, 2010  Posted 12:01 AM

形式
私は特に「形式」に焦点をあててMedia Integrationを考えてきました。
「形式」ということは、
それこそアリストテレスからカントにまでもどって、ということになります。
しかし、私はデザイナーとして、
とりあえずは、
「形式のかたち」、あるいは「かたちの形式」として考えます。
しかも、この二通りをMediaの統一統合性に、
日常的なデザイン活動の下敷きにしています。
この下敷きの上の紙にスケッチを描いてると想像してください。
「形式のかたち」も「かたちの形式」も、
いづれも、かたちを別称していくことにします。
私はとりあえず、次の呼び方を与えておきます。

●形式
●形相
●形体
●形態
●形骸
●形容

です。
それは、具体的な製品それぞれにこれらの言葉を与えていくと、
私には観えてくることがあるのです。

かたちは「内容」=容はかたち
それは、総称する「かたち」には、
こうした言葉に回帰することが「内容」になっていることです。
デザインという営為は、
まさしく、この回帰した内容を外観化しているのでしょう。
式=識・相=総・体=対・態=替・骸=概・容=様なりです。
言葉あそびだと一括されそうですが、
もし、感覚的に一瞥で外観を捉えたときの印象は、
この位相に当てはまっているでしょう。
まさしく、
Media=Tool・Media?Toolのかたちが統合化されるのは、
「かたち」が「内容」をすでに決定しているのではないかと思うからです。
最近作であるCOOL LEAFは、
形式の古典的な解釈・アリストテレスである、
質料=materiaと形式=formaに回帰した、
「キーボード」という形式と内容をIntegrationさせたモノでした。


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5月1日Staff Blog


   


     5月 1st, 2010  Posted 11:44 AM

5月1日

BOSS(川崎和男Kazuo KAWASAKI)も参加の、
2009年の12月の「連塾」JAPAN DEEP 3

その内容を収めたDVDをいただきました!
各3枚組、全4巻の豪華なセットです。

8時間にもおよぶ長丁場の、白熱した議論が
当時の興奮と共に収録されています。


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5月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 1st, 2010  Posted 9:00 AM

5月1日 友引(辛亥)

音楽は、
その再生装置・音響製品の存在を
消去することができる。
その関係は、
建築空間の中にある。

一脚のイスが、
その空間の存在を
消滅させることに等しい。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


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