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『資本主義からの逃走』
  「製品と商品には大きな差異があります、要注意!」


   


     3月 3rd, 2010  Posted 1:37 AM

製品と商品
私は「新製品発表」をしました。
「商品ではない」とか、「値段」を聞かれます。
違うのです。この問いかけを洗い出すこと、
これが私の目標でした。
それから「商品」というモノづくり目的に入ります。
どこの企業でも、そしてマスコミも「製品」と「商品」は
同義語で使われています。
これが実は「企業」の活動=収益目標と企業存在の目的、
いづれも読み違い・勘違いが横行しているのです。
私は常に新たなクライアントに入っていくとき、
「御社の製品はどれですか?」と尋ねます。
そうして、
「それは商品ではないですか」ということで、
混乱を与えてしまうことばかりです。
したがって、学生への講義では、
この「製品」と「商品」の言葉の背景、歴史を教えます。
いづれこのことについては詳細な書籍を出版します。
私の「Business Design Model」では、
「製品」と「商品」を明確に区別しています。
なぜなら、インハウスデザイナーは、
「商品デザイン」をさせられています。
だから、「商品が売れたかどうかで、デザイン評価」、
そのまま、デザイナー力量が問われるのです。
まず「製品企画・製品計画」から「商品企画・商品計画」、
この「四句分別」が企業内で出来上がっていないのです。

「商品」は殷の時代まで「商」という国に原点があります。
制作・製作・製造・生産
「製品」は「制作・製作・製造・生産」であって、
まだ「商品」の手前のモノです。
私が今懸命に訴求しているのは、
収益構造=経営仮説=ビジネスからの社会化=利益還元、
つまり仮説モデルの革新です。
あらためて、考え調査してほしいのは、
「製品開発」と「商品開発」は何が異なっているのか?
「製品収益」と「商品収益」との経営仮説とは何か?
この二つをまず、「企業」の目的と目標、
実は、「目標」と「目的」も異なっています。
この論理を確実にしての「経営仮説」に、
デザインを導入する重要性と大事さを再確認してください。


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『資本主義からの逃走』
 「製品要因は、実装技術というエンジニアリングの神髄」


   


     3月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

実装という設計
Apple社でコンサルタントだった当時、
もっともプレッシャーは英語・それも会議での英会話。
デザインは常にまずfeasibilityの検討から入ります。
二つの領域の技術検討です。
電子回路関係と筐体構造や機構設計関係でした。
そこで多用された言葉がありました。
回路関係ではLayoutであり、
機構構造ではConfigurationでした。
しかし、日本では、この両方の意味を兼ね備えた言葉、
「実装」という用語があります。
なぜなら、回路でも構造が出てくるとLayoutでは、
何か不足性が残るのです。
同様に、機構といってもその配置となれば、
Configurationでは、言いきれません。
Configuration Layout
私は「実装」をConfiguration Layoutと提案しました。
以後、私は国内でも、
実装=「コンフィギュレーションレイアウト」と言って
使っています。
つまり、回路と機構、その内部配置が外観を決定します。
だから、デザインの決定要因なのです。
要因というのは、要素という静的部品ではなくて、
動的要素を要因と呼んでいます。
素材という要素をどう「実装」という要因でまとめるか、
ということをエンジニアとの議論で高めていって、
それこそ発明へ向かわせるというのがデザインにとって、
最も重大で重要というのが、
私の基本的・基礎的なデザインへの態度です。
エンジニアには、回路の話にも割り込み、
筐体や機構設計にも割り込んでいく姿勢が必要です。
まさしく、デザインと技術、
デザイナーとエンジニアの関係が一体化したとき、
私はほとんど発明であり、
それが革新への道程だと考えます。
Technologist
そして、その「実装」と「造形」ができてしまう人間が、
これからの「テクノロジスト」であって、
こうした才能の育成が、技術・実装とデザイン・造形を
統合化できる教育こそ、これからのモノづくり教育、
ということです。
製品要因=実装は、技術から造形、造形から技術を
補完的に成し遂げるテクノロジカルアートだと思います。


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『資本主義からの逃走』
「製品要素としての新素材開発で性能性を高度化する」


   


     3月 1st, 2010  Posted 10:00 AM

新素材開発
「新素材開発」、これはデザイナーにとって、
いや、私にとっては最も興奮するテーマです。
ところが、デザイナーが「素材開発」に参画するため、
素材への科学的、特に化学的な知識へ近づくことは、
ほとんど不可能だと言ってもいいでしょう。
したがって、それこそ無知識なままに、
頼るのは、こんな素材だったら、こんな形態や、性能で、
どれほどのことが可能になるかを感覚、野生、野性という
ほとんど直感を働かせるだけです。
原始的には、軽い・薄い・頑丈とかから始めます。
やがてどの程度という度・量・衡の世界観を提示します。
そして、それを実現してくれるエンジニアに出会うと、
もうそれは神様です。
神様が与えてくれた贈り物です。
M
MaterialはMotherやMedicineやMusicなどと
共通の「M」という文字を持っています。
母や海=生むや振動を表すヒエログラフ=象形文字です。
だから素材=Materialからのデザイン発想は重要です。
素材は製品要素として「性能性」そのものの母体です。
私のデザイン手続きには、常に、第一段階が素材開発、
無理なら、素材選択と素材選別が最重要課題です。
ところが、これまでのようには新素材、
とりわけ、化学的な合成で産まれた素材は、
「常に懸念はないか?」という問題意識が不可欠です。
環境ホルモンの問題、
エコロジーの問題、
リサイクル性の有無や
廃棄後の安全性と安心性をどこまでも想像力で、
「おもいやる」必要性があります。
佇んで考え込みながらも、やはり、新素材の開発は、
デザイナーにとって、わくわくするテーマです。
2000層のフィルムで、現状素材の様々なテクスチャを再現、
しかも、静電タッチから荷重センサー、圧電素子、
さらに、化学的にはまだまだ困難なボロンまでが、
今、私の野生を突き動かしています。


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『資本主義からの逃走』
  「製品コンセプト・一人称では三つが基本」


   


     2月 28th, 2010  Posted 1:10 AM

清・潔・簡・明
私は東芝のインハウスデザイナーから出発しました。
その時の「想い」は今なお崩していません。
身体的には、車イスになり、心臓障害をいだきながらも、
それでも、私は「デザイン領域の拡大」が目標です。
製品コンセプトは、常に三つで十分だとさえ思います。
それは、自分自身=一人称から決定すれば、
● 清々しいこと=清
● 潔い=潔
● 明快=明確な簡潔さ=簡素

以上が、私自身の精神性や、そんな存在感で生きたい、
ということにつながるからです。
だから私の製品デザインには、
その一人称がそのまま反映し反射し吸収されたモノに
結実してくれればいいと考えてきました。
しかし、
清々しく生きる、というのはとてもむずかしいことです。
潔いというのは、きっぱりさとさっぱりさです。
簡素で明快であるというのが、清潔さを必ず与えます。
私が「喧嘩道」と呼ぶのは、
この三つを成し遂げるためには、
自分へのこの三つの問いかけです。
自分に喧嘩を仕掛けることです。
私の「製品デザイン」は無論、「好き・嫌い」で
受け取られています。
時には、川崎和男のデザインは嫌いだ、と、
幾たびも言われていました。
それでも私が、「私のデザイン=一人称で語りつくす」、
この姿勢や態度が気にいらないのは、
「嫌い」というあなた=一応、二人称のあなた自身へ、
問いかけます、とうより喧嘩を売ります。
聞かせて下さい。
● あなたは、清々しい人ですか?
● あなたは、潔いですか?
● あなたは、明快・簡潔・明確・簡素ですか?
という「喧嘩」を売りたくなります。


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『資本主義からの逃走』
 「*Business Design Modelのコンセプト訴求*」


   


     2月 27th, 2010  Posted 1:00 AM

私は「ビジネスモデル」の歪みを指摘しています。
その歪みを是正するために三つの条件を前述しました。
製品コンセプト
そこで、三つの条件から
「製品コンセプト」の強力な訴求性について記します。
「製品」と「商品」は、まるで違いますが、
経営者でこの違いを明確にできる人は少ないというのが、
デザイナーとしての経験です。
にもかかわらず、「製品」も「商品」も、
「金融」にまとめた現代経済は大きな失策だと断言します。
つまり、彼らの「したたかさ」が、
自分たち金融主体の存在否定に連続してしまったのです。
収益構造のモデル化は、今後ますます自分たちが、
その中で苦しむことになります。
「不況」=depression=「鬱病」医学術語です。
「金融」の「鬱病」治療は、直線的に結論づけると、
それは「デザイン」の手法と思想しかありません。
「コンセプト」という言葉自体、
あるいはこの言葉の意味も不明確なままの「経営本」は、
私にはあきれかえるほど多く次々と出版されて、
またベストセラーの低能さを追い求めるサラリーマンの
悲しさ=まさに搾取されている実態を見ています。
ゆえに、一端、ベンチャー企業ともてはやされても、
多くの倒産を見てきました。
その倒産に至らない方法論は「経営論」ではありません。
「デザイン論」です!
まず、「商品」のベースとなる「製品」、
そのコンセプトには明快な(明確さではなく)主張です。
私はデザイン実務の結果の実例で、
「製品コンセプト」の訴求性を見せたいと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「*Business Design Modelとしての実証*」


   


     2月 26th, 2010  Posted 1:55 AM

Business Design Model
3月2日に新製品デザインを発表します。
これは、Business Design Modelとして、
その実務実例を製品としてまとめました。
ここでも前述してきました「ビジネスモデル」が、
特に、日本では大きな誤解の中で歪んでしまいました。
もう一度、「ビジネスモデル」の本来の定義にもどります。
まず、「ビジネス」ですから、これは経営=収益構造です。
収益構造によって利益を得ます。
そして、その利益還元を社会化する「モデル」という、
サイクル・円環・スパイラルだったわけです。
したがって、その収益から社会還元は「モデル」となる、
オリジナリティや、知財性からスタートすることです。
ところが、オリジナルな知的発想の独占性が必要でした。
その独占性=知財性は、収益構造になるわけですから、
利益独占性に優位性があるということになったのです。
結果、「社会還元」は無視というか、
経営儲け主義の欲得の中で喪失してしまいました。
ここには、「製品」・「商品」よりも、
「金融」に直結する「モデル価値」で、停止しました。
私は、「金融」の基本である
「製品価値」・「商品価値」に、
不可欠であった「デザイン」の位置が、
全く狂ってきていると判断してきました。
そこには、もう「ブランド」や「商品イメージ」を
超越した方法論が必要だと考えてきました。
まず、「製品」のアイデンティティには、
三つの基盤が必要だということです。
●「製品コンセプト」の強力な訴求性です。
●「製品要素」としての「新素材の性能性」です。
●「製品要因」としての「新実装技術の機能性」です。
こうした三つが「商品化」に向かって、
初めて「企業特色であるモノづくり思想」、
これが「ブランド」を構造化するという思想です。
その「ブランド」には、
基本としての「コンセプト」は、「商品の効能性」です。
これで、もう一度、「ビジネスモデル」のサイクルは、
企業収益から社会還元という美学性と倫理性になります。
これを私は「ビジネス・デザインモデル」として、
デザイン」先導による
ビジネスモデルの再構築をめざしたということです。


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『資本主義からの逃走』
 「デザイン職能は市場経済論を変化させられるか」


   


     2月 25th, 2010  Posted 1:00 AM

連綿とした三国志とデザイン
私は、デザインの本質が、情報公開に及べば、
「市場経済論」は、もろく崩壊すると予測しました。
「情報統制」はきわめて困難です。
かつて、中国のある大学から、講義依頼がありました。
私は、条件を提示しました。
● 靖国問題を日本人として意見を述べたい。
● 教科書問題をデザイナーとして述べたい。
● 敗戦処理での関係改善策を世代意見として述べたい。
しばらくして、次のような返答がありました。
「今回の依頼は取り消したい。
なお、あなたがそうした主張を持ち込むならば、
あなたの入国は、決して認められることは無いので、
こうした条件は、二度としない方が賢明です。」
とのことでした。
そして、2年後、またある有名大学の教授から、
直接に面談にて、講義依頼を受けました。
そこで、再び、私の条件を述べました。
そうしたら、まったく反対の意見を言われました。
「是非とも、そこまでを盛り込んだ講義をしてほしい」。
私はとても驚きました。
そして、以前、断られた事を伝えると、
「あの大学とは、言葉も文化も違います。
私たちは、日本人デザイナーとしての意見こそ、
これから私たちの「デザイン」を見極めていくためには、
絶対にそうした意見を聞きたいのです」、と。
また、私はびっくりしたわけです。
彼らは、一段と「デザインの理想主義」に、
向かおうとしていると感じました。
理想主義としてのデザインが中国を!
おそらく、日・米・欧で留学体験のある教授たちは、
「中国とデザイン」、あるいは、
同じ中国国内であっても、言語差異と文化差異を
明確にしながら、「理想主義としてのデザイン」を
求めている、という意志に、
中国という国の「三国史記」がまだまだ連綿としている、
ということを知らされたのです。
「デザインと市場経済論の構造」は、
必ず、なんらかの変容から、
革新があるのではないかと考えています。
そして、隣国としてそのことを期待しています。


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『資本主義からの逃走』
  「社会主義市場経済論でのデザイン職能」


   


     2月 24th, 2010  Posted 1:00 AM

デザインでの予知と予測
現在、中国の「模倣」はやや活発さから、
新たな段階に進行しています。
そこに、デザインを「設計」から、
「策略」「新資源」として位置づけた、生産技術の進展が
明確に読み取れます。
すでにデザイナー育成教育においては、
韓国、台湾、香港での教育を学ぶという姿勢です。
決して、
日本のデザイン教育ではないということに、
私は大きな失望と、日本のデザイン教育の再構築を
強く意識しなければならないと思っています。
彼らは、すでに「設計」という生産手段の一つでは無いのです。
策略
「策略」というのは、
「付加価値」としての生産価値ではありません。
私は予言しておきたいと思います。
膨大な人口の中に潜んでいる「デザイナー才能」です。
この「才能」が主導権を持ち始めたとき、
わが国のデザイン主導力は、相当に、打ちのめされます。
韓国が、この20年で育成してきた「表現分野」は、
スポーツから映画・ファッション・コンテンツ、
そして、デザインでした。
「社会主義市場経済論」は、「資本主義」国家経済を
超越しようとしていることは明らかです。
無論、まだまだ国内統制が「開放」されてはいません。
ひょっとすれば・・・・・・・という・・・・
軍事力中心の政治体制は、歴史的には幾たびも、
その成功事例は残していません。
果たして、「市場経済論でのデザイン職能」は、
デザインの本質が、情報公開に及べば、
私は「市場経済論」は、もろく崩壊すると、
今度は予測をしておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「社会主義実現のための市場経済論の見事さ」


   


     2月 23rd, 2010  Posted 10:00 AM

生産力強化への
学びとしての模倣
「南巡講話」によって、「市場経済論」は、
多言語・多文化である中国在住大衆=「中国人」を、
統一する見事な教条主義であり、共同幻想付与論でした。
日欧米は、資本主義に立ち入ってくるこの論理の策略を
見過ごしていたのではないでしょうか。
無論、中国での反体制者たちへの、
「弾圧非難」の正当性こそ、
自由主義であり民主主義の本意意識だと、
批評したに過ぎなかったのではないだろうかと思います。
以後、チベットへの侵攻弾圧、国内での統制監理の強化は
共産党一党支配を専制政治を圧倒的なものにしました。
大きく見つめ直せば、三つの根幹があります。
● 生産力を「個人化」させて、収奪と富の集中支配
●「個人力」をあたかも自由さだと情報統制の徹底
● 国家権力=一党専制支配力は軍事力の増強へ結合
この三つは、生産力強化のみが経済と計画の基盤という、
見事さだったものと考えざるをえません。
具体的に言い換えてみましょう。
生産力は「商品価値」づくりです。
その「商品価値がもっともアイコン性あるモノ」を選別、
すなわち、日欧米「ブランド価値の模倣」です。
これはわが国も、
敗戦直後にモノマネ・コピーの経験に重なります。
「生産力の強化育成、その即効性」を得る手法は、
産業発展史では同等です。
「あなた方は、モノマネ・コピーは学び構造ですから、
どんどんやりなさい。そして苦情は国家が謝罪をします」。
こんな中国の市場経済の裏構造が見え隠れします。
そこに、米国での「金融工学」には、
大きな失策がありました。倫理観の大きな欠損です。
倫理性は中国同様だったものと判断せざるをえません。

北京オリンピックと上海万博が実現します。
この二つが、
市場経済論と一党支配軍事力統制はまだまだ不明ですが、
明確に成功したのは、日本からの収奪は侵攻しています。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義での自由を踏みにじっている『市場経済策略』」


   


     2月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

市場経済策略の意図
本来は社会主義を基本としていた中国は、
中国統一専制主義によって「中国人」を生みだしました。
「中国人」は多言語・多文化の人々を統一する総称です。
そして、彼らの社会主義は新たな「自由競争社会」に、
「市場経済主義」を国家戦略=策略としました。
社会主義の国家統制、その弱点に気づいて「南巡講話」
見事な社会主義弱点と資本主義弱点を再検討しています。
それならば、これがこれからの世界的な経済主義か?、
となると、大きな疑問が残ります。
しかし、明らかに、国家統制の計画は経済とした主張は、
中国に「開放」というさらなる「幻想」を強化しました。
そこでは、個人的能力を国家権力に集中させます。
結果、「富」の配分は特権階級には容認されていますが、
これこそ、「格差社会」を明確にしつつ、
反国家政策派は、徹底的に弾圧されます。
「自由」は、市場競争の勝者にのみ「富」の保有が、
国家的=中国共産党の容認によって保証されています。
私は、この策略主義での合理性と反民主性を、
もっともっとわが国も、検証すべきだと考えます。
計画と経済を国家的統制でのみ実現できる、
この一方的な策略=デザインの理を見つめ直すのです。
明確に、市場経済策略には、
国家権力としての一党支配による軍事力が基盤です。
この軍事力は、国際関係論でのパワーバランス力まで
市場経済論には社会主義思想を集権化しています。
軍事力はとめどなく不安な恐怖感を、
資本主義を信仰している欧・米・日には与えています。
社会主義的市場経済論を、超越するのはすでに、
経済を最重視すると国家計画政策で、
資本主義での「自由」を語る時代は終わったのです。


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