kazuo kawasaki's official blog

『柳宗理作品の軽薄で見識不足な批評は叱られる!』


   


     5月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

先生は工業デザイナーの真の草分けでした。
それこそ、父親の「民藝論」とデザインとの対峙をどれほど
実は苦しんでおられたのかもしれません。
したがってアート、特に石彫刻作業の手仕事を激しく非難され、
「コツコツと石など削って、穴なんぞ機械で空ければいいんだ!」
「牛の糞より汚い!」、在学中、何度も私たちは聞かされました。
確かに、先生は必ずスケッチではなく、石膏を削ってモデリング。
手で考える。かたちは手から生み出していく!
手の痕跡は工業製品だからこそ、絶対に残すな!と。
機械で創ってどこが悪い、手づくり、手の温かさが基本ではない!
しかし、現代の柳宗理作品の造形評価には、
時間をかけて練り込んだ造形で手の温もりがあるという軽薄さが多く、
それこそ、”あったかインダカラ〜” が先行した批評を読むと、
直伝で、手づくりの真の反映とか、機械生産だからこその正確さを
私たち金沢美大生は徹底的に教え込まれたと思っています。
「柳宗理の作品には”かわいさがある”」なんて評価こそ糞です!
木で作られているから、温もりがあっていい、というのは
とても貧しい見識だと私たちは自然に学んできたと思います。
今、民芸はほとんど手芸と同様な形態言語で受け取られています。
これは大きな間違いであり、柳宗理のデザイン記号を私は、
むしろ数理的な製品記号論という解釈で無意識さを選んでいます。
工業システムだからこそ、手づくりよりも機械づくりでこそ、
自然さが生まれてくることを知りなさい!と聞こえてきます。
売らんかなという商業主義を徹底的に厳しく非難をし、
見識豊かな商業主義に汚されていない工業システムを尊ばれました。
ゆえにかもしれませんが、
私がメガネメーカーに、最初に、「角膜提供の企画書」を書いた時、
「彼なら、造形以前に企業の社会姿勢を書いて当然」と、
金沢美術工芸大学は、私をその企業に紹介してかつ、
困惑している企業に、「社会的役割からの提案」を認めました。
「だから、工業デザイナーは儲からんのだ」と、
先生の高らかな笑い声を美大の卒業生は耳鳴りになっています。
同級生の光野氏が、国会議員選挙に立ったとき、
先生は住民票を移すというまでになった純粋さを私たちは
生涯、デザイナーの倫理観として護り抜く覚悟でいます。
だからこそ見識の欠落した軽薄な批評に、私は牙を剥きます。


目次を見る

『柳宗理のオーバルとエリプス製品数理記号的な造形論理』


   


     5月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

ラングからパロールは「創り出すこと」は出来ない。
エリプス=楕円は形態言語であるが、オーバル=楕円は造形言語。
私はこれを柳宗理のスーパー楕円論だと仮説定義化しています。
この論理からは、
「モノは無意識に生まれてくる」=アンコンシャスビューティであり、
しかもアノニマスデザインとなる実際例の一つは関越道のトンネルです。
ほとんどの人がまさか、このトンネルデザインには
土木工法を決定している造形言語があること自体が無意識です。
丹下健三の建築、亀倉雄策のポスター、
そして柳宗理のトーチホルダーは東京オリンピックを
おそらく世界で最初にデザインが引導しました。
そして今日のオリンピックデザインが日本から始まっているのです。
建築家もグラフィックデザイナーも有名ですが、
もっとその美意識の根底では、柳宗理の存在は無名の受け入れがあり、
特に、金沢美大の私たち弟子には、
なぜ、勝美勝氏がディレクションしなければいけなかったのか、
その理由が分かります。建築とグラフィックと工業デザインは
当然のこと激しい美学的な闘争・大喧嘩があり、
三人の闘いの調和は急務だったのでしょう。
私はその話を聞かされてデザインを学びました。
柳宗理には、彼の父親・柳宗悦の強烈な民藝論が立ちはだかり、
さらに祖父・柳楢悦(数学者・海図開発)へのライバル心があり、
血縁関係からのゲマインシャフト性への信頼があったのでしょう。
私はあらためて、
工業デザインは最近は私も含めデザイナーとしての明記が公知されますが、
結局、具体的にはこのトンネルのごとく、
アノニマスなモノとして、社会一般に溶け込んでいくのです。
つまり、パロールであるオーバルをデザイン意図とし、
エリプスというラングによってデザイン内容は受け取られています。
「デザインは意識活動である。
?しかし、自然に逆らった意識活動は醜くなる。?
なるたけ自然の摂理に従うという意識である。
?この意識はデザインする行為の中で、究極のところ無意識となる。
この無意識に到達したところより美が始まる。」
柳宗理が我々デザイナーに書き残していただいたメッセージです。


目次を見る

『柳宗理の造形言語と形態言語としての製品数理記号論』


   


     5月 11th, 2015  Posted 1:06 AM

2015年5月9日、金沢21美術館にて、
金沢美術工芸大学同窓会と同級生からの指名=使命で、
「柳宗理生誕100年記念」講演を私なりに果たしました。
柳宗理先生の直教え子として、先生の理念・哲学、
そして作品概要を語りました。が、作品概要であり、
その詳説を書き残しておきます。
柳先生の作品、その造形にはデザイン意図=造形言語としての
楕円、私はSORI-OVALがあると名辞しています。
それはデザイン意図であることから、問題解決と発明意図が
日常的言語=パロールとしてのオーバル、SORI-OVALがあります。
一方、そのユーザーは柳宗理の形態言語としてのデザイン内容の
これをSORI-ELLIPSE=ラング=辞書的言語を受け取っているという
エリプスの製品数理記号論を論理化しています。
それは、たとえば、数理造形のアルゴリズムゆえに、
デザイン内容からデザイン意図、つまり、形態言語から造形言語、
SORI-ELLIPSEからSORI-OVALを創りだすことは不可能ということです。
つまり、端的に言ってしまえば、デザイン意図からデザイン内容、
パロールからラングは「生まれる」が、
ラングからパロールは「創り出すこと」は出来ないという、
ずばり、製品は無意識に生まれてくるモノだという論理に一致します。
まさに、黄金比的な常数が、柳宗理のスーパー楕円論があります。
工業デザイン創世期の代表である柳宗理のデザイン美学は、
この製品数理記号論があるということです。
現在、造形理論と形態議論は仮説化しておかなければなりません。
先生の「モノは無意識に生まれてくる」=アンコンシャスビューティは、
確実にこの製品数値記号論で語り伝えていくことができると
私は確信しています。


目次を見る

「連休中は休筆します。」


   


     5月 2nd, 2015  Posted 9:33 PM


目次を見る

『腕時計には本来、機能性の無いモノだった』


   


     5月 2nd, 2015  Posted 12:00 AM

私はある時期から時計もコレクションになりました。
そうしたら、Apple Watchが登場してきて、
果たして手に入れるべきかどうかを迷っていました。
なぜなら、Apple Watchを身に付けるべきかで迷ったからです。
そして、明確になったことがあります。
自分の時計のコレクションを見ながら、
時計を最もそれこそ性能的に進化させたのはブレゲでした。
また、日本がクォーツの知財権を放棄したことで、
時計原産地であるスイスの苦悩は10年に及びました。しかし、
彼らは機械式性能を進化させることや、国立時計士を制度化して、
スイス製こそ、腕時計であることを証明してきたわけです。
さて、Apple Watchは、デジタル式のウェアラブルPCですが、
確かに高額なモノも発売して、時計市場の席巻を狙っています。
私自身は、ムーンフェイス式に今は最も興味がありますが、
気づいたことは、時計は効能性の証であって、
ファッション性として、どの時計を身に付けているかが問題です。
そういう意味では、デジタル式ウェアラブル時計は、
機能性が拡大したのではなくて、
効能性を捨て去り性能をデジタルにしているモノです。
ということは腕時計の存在は効能性=何を身に付けているかが重大、
性能は、たとえばムーンフェイスで、効能性が確約されているだけに
どのようなファッションスタイルであっても、
三都市の時間が分かる効能と性能があるということにすぎません。
結局、腕に装着してみれば、
Apple Watchは性能だけに期待できるだけであり、
確かに、スポーツタイプと言われればそれ以上の性能はありません。
結局、時計はブランドという効能性が性能を決定しているだけであり
腕時計というモノには、機能性はまだ人類は見いだしていないと
私は思っています。
つまり、時計・万年筆・メガネという男の持ち物には
まだまだ、機能性の発明が求められていると判断しています。
ちなみに、この万年筆はブランドモノであり、デジタル、
スタイラスなのです。明確な効能的な性能進化があるだけです。


目次を見る

『センスの有無?は、香りか臭いかだと思う!』


   


     5月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

デザイナーにはセンスが必要です。
そこでよく質問を受けるのは、センスって先天的?後天的?、
このことをよく質問を受けます。
私は、ようやく、センスは先天的であって、
しかもそれは後天的には訓練もされなければならないと思っています。
センスとは、本来は「臭い、香り」を実感出来るかどうかが、
フランス語圏内にて育ってきていると読んだ経験があります。
実感というのは、特に、「臭いと香り」を嗅ぎ分けるという
これはあくまでも視床下部で判断が直ぐに立証されるほぼ野性だと
私は理解しています。
したがって、ファッションデザイナーが名を成し効を遂げれば、
必ず「香水」というモノのデザインが出来るというわけです。
それは、香水は、本来は香りで有るべき判断が、
臭いとして耐えがたきモノならば、それは決して香水ではありません。
それだけに、私は臭いと香りをかぎ分けるがごとくに、
センスの有る無しは決定出来るものと考えるからです。
それは、香水の知見に関わる重大事だとさえ考えています。
ファッションデザイナーのデザインの極致は、
如何にその香りを纏うことができるかどうかであり、そのデザインです。
また重大なことは、香りの判断である視床下部はすでに先天的に
その判断基準が決まっているということです。
しかし後天的にはこの視床下部のトレーニングが可能だとも思うのです。
だから、私は視床下部に直接的な官能力には、感応、間脳、そして
さらに私はデザイナーには観応力の養成が絶対に必要だと考えています。


目次を見る

『金沢美大には伝統的なアノニマスデザインがあった!』


   


     4月 30th, 2015  Posted 12:00 AM

金沢美術工芸大学は今も日本の大学では最も小さな大学です。
全校学生が600名もいない大学であり、なおかつ入学困難な大学。
反対に今、私は大阪大学、国立大では学生数最大 18万人います。
その金沢美大には、大学創立時には、
柳宗理先生は欧州から特にバウハウスの流れを持ち込んで頂き、
もう一方で米国へデザイン留学生第一号であった平野拓夫元学長、
この二人が戦後最初に日本のデザイン教育を
ほぼ完璧なものにしたと私は判断しています。
なんといっても、それは工業デザインが、
いち早く日本では総括的に欧州と米国流を統合的に確立されました。
それはいわば民藝の「アノニマス性」が顕著だったと思っています。
最近、そのことがとても明快になったのは、
日本で最高ランクのホテル、ホテルオークラの建て替えについて、
海外から大きな反対運動が起こり、そのホテル建設については、
米国から戦後一番にトータルなデザインが反映していたことです。
おそらく、私世代の金沢美大卒業生なら、
このホテルに戦後最良のデザインがあったことを知っているはずです。
海外のしかもデザイン界はこぞってこの反対運動が開始されました。
このデザインは平野拓夫先生であり、この反対運動を私は大賛成です。
このホテルこそ、日本で戦後最初のIMF国際会議のために建設。
そして当時の日本政府はそのデザインを米国に発注したところ、
余りの高額に仰天しましたが、
そのデザイン事務所に米国で平野先生と同級生がいて、
結局、官僚だった平野先生がロゴタイプはじめデザインをしていました。
まさにあのホテルが日本で最初のアノニマスデザインになっています。
しかし、金沢美大でデザインを学ぶ学生は、
柳先生の作品と平野先生の作品で、
欧州のデザインと米国のデザインその実際の実務作品から
先生たちの後姿で、デザインを学んだと私は思っています。

「日本で最初のスクリプト体・恩師のデザイン」


目次を見る

『教え子で得をしたことがあります。・・・』


   


     4月 29th, 2015  Posted 12:00 AM

柳宗理先生にとって、私は反抗的な弟子でした。
ところが、私は先生の薫陶を4年以上も受けていたことで、
とても得をしたことが二つあります。
一つは、ニューヨークMoMAで、アッキーレ・カステリオーネ氏が
個展を開催していた時、ちょうど私は招待されていたこともあり、
その個展の会場で、彼に挨拶をしました。
「君は日本人か?、日本には親友がいるんだ」。
「私は柳宗理先生に学びました」、と言うと、
彼はとても喜んで、強くハグされてしまいました。
「そうか、そうか、教え子か」と喜んでもらいました。
(とんでもない教え子にも関わらずでした)
そして、東芝でのデザイナー時代には、よくオーディオの師匠、
菅野沖彦先生です。東芝時代には数名の評論家の先生自宅に、
企画や新製品の評価をもらいに出入りをしていました。
その中で最も親しくなり、先生には新製品企画を応援してもらいました。
そんな折りに、美大で誰に学んだかと問われました。
「柳宗理先生でした」と答えると、
「これをあげる」と言われてもらったのはLPレコードでした。
しかもそのレコードの制作ミキサーは、菅野先生自身のものでした。
柳先生の母上である、オペラ歌手だった柳兼子女史のレコードでした。
彼女は、あの柳宗悦の奥様でした。
東芝時代にレコード盤は2000枚ほど持っていましたが、
CDになってからは50枚ほどに、そのCDもハードディスクです。
けれどもこの50枚ほどのレコード盤の中にまだ私は持っていました。
最近は、やはり、もう一度、LPの再生システムを、
組み直すべきかとさえ考えています。
それは、LPレコードを整理しなければ良かったとさえ反省をしています。
私は、柳宗理先生に学んだのは、デザインだけでは無くて、
これほど得をしてしまったとさえ思っています。


目次を見る

『これからのデザインを語るために=・・・signare・・・』


   


     4月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザイン=designを語るために、その原意・原語としての
ラテン語、designareという言葉を40年間も追い求めてきました。
それは、あくまでもsignareを中軸にして、その展開に注目したのです。
1970年だから、レジリエンス=resiliennceが騒がれるようになり、
もう一つのsiliumやsilienceが気がかりになっていました。
それこそ、科学者=Scientistという言葉も、
結局は造語であり、そのことを言い始めた人物がひっかかっていました。
ウィリアム・ヒューエルという人物の存在であり、
彼がまた造語化した「コンシリエンス」が、思いがけずにも、
この概念を利用してエドワーズ・オズボーンは、
この造語に新たな概念を付け加えていくわけです。
私が何よりも人智の凄さを知るのは、思考する連続性や連鎖性であり、
その凄さこそ、人間が思考する動物であり、なおかつモノづくり、
その設計や企画、すなわちデザインという行為です。
それもなぜ、設計し企画するのかと問い直せば、決まって、それは
問題解決であり、難問対策に直結していることです。
私は美術大学でデザインを学ぶことで、デザイナーになりましたが、
これまでいつも立ちはだかっていたのは装飾であり、
デザインは装飾では無いという教育を受けて育ってきた私には、
最大の問題とは「死なないこと=生きのびること」という、
その問題解決でした。特に、March 11.2011=東日本大震災は
私に決定的な問題解決と対峙しなければならなくなったことです。
designを徹底的なコンテクストで考え続けてきた私に、
今、大震災=生きのびるという問題解決のために、
resilienceとconsilienceが浮かび上がっています。
これこそ、間違いなく、「これからのデザイン」であり、
その具体的な実務事例を提示していくこで、
明らかに未来のデザイン、そのあり方を提案出来ると考えています。


目次を見る

『書かれた柳宗理デザイン=現在出版の書籍で継承可能か』


   


     4月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

柳宗理先生の生誕100年記念は、アジア主国で展示会が開催。
そして、柳先生が高齢になられてから、
現代デザインの批判とデザイン理念の基本論として出版されました。
どの書籍を読んでも、一致していることは、
これは先生の生涯を通しての「商業主義批判」と、
「デザインは生まれてくること」と「ゴミになるデザイン批判」です。
生涯貫徹されてきた「手の思想」が書かれています。
実際に、大学4年間、更に社会人新人時代、金沢美大に戻ってからと
私はちょうど3期間に、それぞれの思い出があります。
大学時代も新人時代ともにまずは反発反抗していた気がします。
金沢美大で非常勤にもどったときには、車イスの私が、
ふるさとの伝統工芸、その産地で、特にゲマインシャフト性を
もう一度教わりなおしていました。
また、車イスの身体になったことでは心配をかけました。
先生の作品群については、
いづれ金沢美大に収蔵されると思っていましたが、その後、
様々な経緯を平野元学長や同窓会のメインの先輩、中でも同級生M氏は
「柳宗理記念館」設立にまでと苦労を重ねていたことでした。
私はその傍観者でしかなかったとを正直に告白しておきます。
そしてデザイナーの仕事はまさにアノニマスであるからなのでしょうか、
芸術作品的な扱いにはなりませんから、
デザイン記念館設立ができるのは金沢の伝統性に他なりません。
私はむしろ、ロラン・バルトの「モードの体系」そっくりな事象が
こうした先生評論の書籍には強く顕在化していると思っています。
そして、何よりも大事なことは、アート作品同等以上に、
生活を真に取り巻いていたモノと人間の歴史は強く社会が
護り抜くべき義務だと位置づけていますから、
最も、柳宗理の全作品とその資料は、金沢美術工芸大学が、
なんといっても一番に語り継いでいくべきであると考えます。
しかし、現在の大学は組織としての脆弱性を露わにしていることを
私は書き残さなければなりません。胆識的美学性の欠如があります。
したがって、これからのデザインを私は教え子代表として、
柳先生からの理念系譜でこそ語り継ぎたいと思っている次第です。
「モードの体系」にしても、書かれただけのデザインの貧弱性を
なんとしても抹消しなければなりません。
抹消させる最大の武器は未来創出のまさにデザインに他なりません。

柳宗理生誕100年記念講演


目次を見る