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Posts Tagged ‘電子ブック’


『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』


   


     9月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

30~40代の頃、私は国内外の雑誌を30~40冊は読んでいました。
最近は、時折、本屋さんの店頭で立ち読みする程度で、
あとは電子ブックの雑誌やワイフの読む女性ファッション誌などです。
学生時代や社会人デザイナー成り立て当時は、オーディオや音楽雑誌で、
若いときにはデザイナーなら少なくとも購買も15冊と言っていたものです。
ところが、最近の雑誌よりも企業広報誌やカード会社の広報誌の方が
雑誌内容にはまとまりがあるようです。
いわゆるファッション系は年齢もあってか,興味があまりありません。
そして商業誌丸出しというか、時計などは流行づくりが丸見えです。
私がプロとしての眼鏡などは
知識不足どころか誤記の多さには呆れています。
オーディオ・ビジュアル、さらにPC関連雑誌などは
まったく時代遅れであり、
オーディオなどは連載をしてみてすぐにその雑誌が
商業誌ゆえの哀れさで自分から連載を辞めました。
車などは、もうほとんど興味がわきません。
今、興味は専門誌である万年筆や鉄道関連程度です。
もっとも専門であるデザイン関係誌は、
国内外が時代遅れ甚だしくて、全く読みません。
結局は、インターネットでのサイトの情報が時間対応しています。
新聞?はもう定期購読しなくなって10年にはなるでしょう。
ファッション系などでは、
やはり定番的なブランド系雑誌はグラフィックス的には優れています。
雑誌情報では何が欠落してきたかということになります。
多分、三つあるのだろうと思っています。
一つは編集人としての職人魂でこれを伝えようという程の専門性が大欠落、
一つは雑誌ジャーナリズム思想などもう喪失しています。
逆に私が凄いと思っている万年筆などはまだまだ学べる時代性があります。
一方、眼鏡など専門性の大欠落には、腹立ちを覚えます。
これはオーディオビジュアルや車などは、
ジャーナリストや評論家が居ないのでしょう。
先般、教え子で大新聞の記者に、
「ジャーナリズムって、一言で私に伝えなさい」と聞き返したところ、
半分だけ応えました。
私は、ジャーナリズムはどんなジャンルであれ、
情報の市井的な日常で、権力それは商業的な圧力を、それこそ、
「ペンは剣より強し」による情報編集力での教示性だと答ました。
すでに私はもう老年ですが、とりわけファッション性は、
「モードの体系」を超えるほどのジャーナリズムを求めています。
そして
私自身の日常の編集力を生み出すジャーナリズムは失いたくありません。


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『たとえ電子ブックで読んだとしても、映画ストーリーに!』


   


     7月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

もともと中学時代から小説家志望だった私にとって、
読書対象は、小説・百科事典・辞書、そして専門書です。
小説家はどちらかといえば女流作家であり、次には文章力です。
私の明確な文章力というのは詳細で緻密正しく、文節量の読みやすさ
そして、小説家を決めたら徹底的にすべての著作を読むことです。
私は、高校時代には小説家になるためにどうすべきかを
徹底的考えぬいた自分の進路を決めていましたが、
気づいたら、美大に行き、デザイナーを天職にしていました。
デザイナーとして、それなりに著作も書き、出版してきました。
これまで全著作を読破した作家はまだ12~3名程度ですが、
なるべく文庫本になってもらえれば、蓄積するには好都合です。
最近は電子ブックであれば、それで充分かもしれませんが、
なんとなく、読み飛ばしてしまうことと蔵書にする意味には
大きな違いがあると思っています。
「男ともだち」、久しぶりに丁寧で緻密な表現でした。
なぜか小説といえば、男と女、時代小説、心情ものに惹かれます。
私は、できる限り「共時性」を時代とともに、
小説=私の能力では書き上げられません。
映画=監督をしたいとは思いませんが、見届けたいと思っています。
音楽=これはオーディオマニアでありすべてのジャンルが好きです。
デザイナーでスタートしたときには、シンセサイザーデザインを
そして社会人としてオーディオだけでいいと思いつつも、
やはり、どこかで小説家への憧憬はまだ胸の内にあるようです。
しかし、デザイナーとして、しかも工業デザイナーとしては、
すでに「図鑑」と呼ぶ作品集も、もう一冊は出版したいのです。
ひたすら、この若い小説家の全作品を読み切るつもりでいます。
この小説ストーリーが映画になったらと思っているくらいです。
その時の音楽も、ポップなら、クラシックならと思っています。

「書くための万年筆の真の意味」
『出版を「モノのデザイン」にしていくために』
「デザイナーを選んだ理由を再度確認」


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『電子書籍の誤ったデザイン解決、けれど使わざるをえない』


   


     7月 6th, 2014  Posted 12:45 AM

電子ブックはパソコン登場以来、最も望まれたモノだったでしょう。
私はこの登場から使ってきましたし、
いわゆる印刷された紙書籍=本とこの痕跡を見届ける人生、
それが「本好き」人間には本ある生活で流れていくと考えています。
これまで、いくつかの電子ブックも試してきましたが、
今はこの三冊に落ち着いています。一冊は原書を持ち歩き、
また「自炊本」も含まれています。
しかし、電子書籍がボードであることにはデザイン不足があります。
デザイナーとしては、かつてApple社コンサルタント時には、
かなりアイディアを拡張し焦点化してきましたが、
その発想にはまだまだ及んでいるとは思っていません。
とりあえず、電子ブックは1500冊は持ち歩けている自由さがあり、
それなりの便利さは「読書チャンス」になってくれています。
願わくば、常に持ち歩ける書籍がこのデザインでも仕方ありません。
ボードデザインから解放されたデザインを希望しています。
だから、現状の電子書籍?電子ブック?もこの形式からの離脱こそ
デザインテーマだと考えざるをえません。
書籍の分配方法は、さらに進化を求めたいと思っています。
いつも、人生最期にはこの本を読みたいと次々に考えてきました。
一番は「ファーブルの昆虫記」とか何人かの小説家全集があり。
現在の電子ブック形式のままで教科書にはなってほしくありません。
とりあえず現在の日常での「読書」に一つのスタイルがあるだけ、
その大きな理由は、デジタルな読書スタイルのファッション化です。
今のスタイルには、未来の読書が見えてきていません。
街中からは書店が消滅し、インターネットには図書館があります。
しかし、なぜ私たちにとって「読書」スタイル、その対象は、
決して、これまでの装丁された書籍からは、ボードではありません。
そうした反対意見を持ちながらも現状の電子ブックは便利なのです。
正直、私が認識しているのは、「私の読書」スタイルをもう一度、
この世にいる限り再熟考しなければならないようです。

「時流の読書=信じないというスタイル」
「書店の存亡・バーンズアンドノーブル」


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「時流の読書=信じないというスタイル」


   


     3月 31st, 2013  Posted 12:00 AM

私は読書好きだと思います。
小学時代には日本文学全集(角川書店)も、
世界文学全集(平凡社)も、読破していました。
一人っ子だったから、本は友達だったのです。
だから友人、親友は本の中にいっぱいいました。
これは今も学生達には
「亡くなった親友をいっぱいつくること」と言っています。
私の読書スタイルは三つあると思います。
まず、専門、専門周辺はできるかぎり本も持ち、読みまくること。
絶対に読んでおくべき本は好き嫌いなく読むこと。
時代ではなくて時流に合わせた本もできる限り読む、というスタイルです。
今夜紹介するのは、
今、世界的な大ヒット作と言われる「銃・病原菌・鉄(上下巻)」です。
基本は、
「なぜ、先進国と後進国には大きな差があるのだろう」
という質問の解明です。
地球の緯度=東西関係と南北関係が出てきます。
大麦・小麦と家畜、これはたった14種類しか、
いないということが根底です。
そこに、銃での大量殺戮や鉄による武器が加わり、
天然痘とマラリアが語られます。
これだけで歴史の解明は誰もが納得してしまうのでしょう。
だから、私にとっては「時流としての読書」でした。
この上下巻の話は十分にできます。
私は問題観をもっています。
そこには宗教の話はあまり語られていません。
確かにこの話の延長には、
文明が絶対に破壊に向かっていくということになります。
だから、この著者が書いたあと二つの著作も読んでしまうつもりでいます。
高校時代は哲学書をノートをとりながら読んでいました。
このノートは今も残しています。
なぜなら、哲学といわれる分野に、
すべての著作の根本があった気がします。
ただし、ある人物がこんなことも書き残しています。
「今、世間でもてはやされている著作などは、
ほとんど歴史にも残らないだろう」と。
これは明言です。
そのような著作も随分ありますが、
名古屋から大阪に来るときに相当に処分しました。
そろそろ、私は本も整理しておきたいと考えますし、
もう読書もいらないかもしれないと思いますが、
学生から、
「誰々がこんな評論を書いていますが・・・」とか質問を受けると、
やはり、買い込んで読んでしまいます。
大阪では、絶対に寝室には本は持ち込まないと言っていたのですが、
ベッドの周辺には本だらけなのでなんとかしなければなりません。
そういう点では「電子ブック」は、
本を読むスピードも三日かかるのは2日で十分です。
読書で最も大事なことは、
「信じる」という段階を相当に自分がチェックすることでしょう。


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『資本主義からの逃走』
 「ATOMがBITSを、BITSでATOMに、
        それは新素材開発での造形デザイン」


   


     2月 2nd, 2010  Posted 1:00 AM

FEP Front End Processor
ワープロは、日本独自の発明でした。
英・Word Processorとは異なるBits文字世界です。
さらに、日本語フロントエンドプロセッサーも、
日本語処理を可能とした大変な成果だと思っています。
だからFEPが無料である必要はありません。
しかし、そんな時代が近づいていると考えます。
日本語は、パソコンやケータイでは、
不利な言語体系であることがDigital技術で、
明白になりました。 
それは、BITSをコスト的に考えれば英字に比べれば、
コストは2倍です。
ハングルとも2倍差があります。
そこで、パソコンやケータイでは無くて、
電子ブック(これは変な日本語です)での日本語、
その進化を私は、これまで正確に追いかけてきました。
すでに確立しているFEP(IN PUT)が電子ブックでは、
「EFP」(OUT PUT)=日本語アウトプットが不可欠です。
「書籍(ATOM)」という形式の要素としての日本が、
電子ブック(BITS)形式にはもう目前です。
私はe-Bookが各種進化するたびに収集してきました。
しかし、これらはすべて英文字でした。
「青空文庫」が立ち上がって、なんとかMacで、
という発端時の様子も間近でみてきました。
今、私はKindleを、Kindleで購入したコンテンツを
iPhoneでも読むことができる時代になりました。
Kindle・iPhone
i-Pad
そして、とうとう大変な話題であった、
憶測や推測のiPadが商品化されました。
が、日本語処理=「EFP」は、
KindleもiPhoneもBITS技術は開発されていないので、
日本語電子ブックになる明確な日程は届いていません。
それはBITSの問題ですが、私は別の視点で、
大きな見落としを、デザイナーとして確信しています。
それは、電子ブックの「形式」ではなくて「形態」です。
「形態」=ATOMを決定づける素材が、
まったく開発されていません。
すなわちATOMとBITSの相互作用を忘却していす。
もうひとつ付け加えるなら、デジタル機器の機能です。
その機能の重大さは「清潔さ」です。
「書籍」を一ページづつ舐めた指先でという風景より、
「不潔さ」を解消しているATOM性が皆無です。
それはBITSを包んでいる形態の「素材」の進歩です。
私は、その「新素材開発」をベースに、
ATOMとBITSの相互作用性をデザインしました。
まもなく発表します。


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