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Posts Tagged ‘述語命題’


『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・3」


   


     5月 5th, 2010  Posted 12:01 AM


質には「かたち」という読み方があります。
質=たちの読み方の方が会話語的です。
私は、「かたち」を「か・かた・かたち」論とした建築家に倣って、
「か・かた・たち・かち・かたち」と分離・分割、
そして統合化をしています。
この場合の「たち」=質です。が、正式に、質=かたちがあります。
したがって、「何が質=かたちとなるのか」という
述語命題はありえるのです。
それは「何が質=たちとなるのか」ということと、
通底していると考えることが可能です。
Mediaの「質」が問われている、とするならば、
それは次の三つのアプローチが考えられるのではないでしょうか。

1● Mediaの性質
2● Mediaの保証物件・身代性
3● Mediaの材質性
ということになります。
そして、おそらく、この三つが統合化・集約化・集積化が、
Media Integrationではないのだろうか、というのが私の推察です。
たとえば、という私のメモで上記をつないでおきたいと考えます。

性質
1)性質は、量の概念との関係です。
容量という性質と言い換えてもいいでしょう。
量の概念は、古代インドのバイシェーシカ学派の説では、
実体に内在している性質というのが、
的を得ているのではないかと私は判断しています。
たとえば、重さ=重量は加減算法が可能です。
しかし、温度は、加減をするには手続きが必要です。
温度が2度+3度=5度とはなりません。
2度をさらに3度加温して5度になる、
この加温性は実は素材の「質」だと考えるべきでしょう。

身代
2) 類聚名義抄の「むかへり」・日本書紀の「むかはり」「しろ」など
古代からの保証物件、身代金という代替価値です。
ここから、私は「たち」と「かち」を接合して
「かたち」論としているのです。

材質
3) 材質は素材の性質そのものですから、
これがMediaの要件内容だと考えています。
つまり、素材となる要素そのものの性質や、
それぞれの要素の構成によって成立する性質であり、
これは「量」の概念とのつながりを持っているというのが私の解釈です。

quality
それはなぜ、英語ではqualityと表したのだろうか、ということです。
何が量・quantityでそして質・qualityになったのだろうかというヒントを、
常にデザインは疑問視していることの動機に他なりません。
まさしく、「量から質へ」という時代志向に合致しています。
「質」はあらためて「かたち」であり、
Media Integrationの「かたち」だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


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