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Posts Tagged ‘見過ごす’


『「青田残さず」中国古典・庭訓から西郷隆盛を通して』


   


     4月 6th, 2019  Posted 12:00 AM

「青田残さず」 。
西郷隆盛の言葉であり、元来は中国の古典「庭訓」からの
引用とされています。
私は、最初は「一人っ子」、後に母違いの妹ができました。
が、子供の頃から、父からはこの言葉を言われていました。
しかし残念ながらともかく「美田を残したい」と
財や地位や権利を囲い込むような、政治家さらには経営者、
そして、デザイン界でも同様で、社会が見逃しています。
デザイン界でも、その継承後には様々な問題が起こります。
私も恩師に関わることでは見過ごすことはできません。
恩師デザインの管理が不足していたり、
その展開が間違った方向に進んでいた場合、
オリジナルが傷つくことが気がかりです。
もはや全てが知られています。
私は世代交代をともかく見守っていますが、
こういう輩には、正面突破で忠言をしています。
何しろ世に作品、製品、商品を、「劣った美意識」で
恩師の名で送り出すことができる偽デザイナー風がいるのです。


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』


   


     8月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

デザイナーの倫理観が社会的批判、非難を受けています。
デザイナーとしてデザイン学者として至極無念でなりません。
2009年、私は知財権における著作権・商標権・工業意匠権について、
これは国家施策として、早稲田大学と北海道大学そして特許庁に、
特に「アプロプリエーション」がデザイン界では無知なことを示し、
実は、リスペクト・インスパイアー・オマージュなど、
これは盗作問題にならないように警告を与えてきました。*
ところが、ある私立大学の教員教授達(彼らは学者教授ではない)は、
そこまでの勉強も不足し、
見事に平気な盗作を、ジェネリックプロダクトなるいい加減さを
学生まで巻き込んで、その蔓延さをとうとう露呈しています。
これは現在問題のエンブレムデザインだけではありません。
私自身、1994年、ギャラリー・間で「プラトンのオルゴール」展にて、
モンドリアン、パウル・クレー、キェルケゴールへはオマージュとして
デザイン造形をしてきました。
それはデザイン手法でのオマージュ(リスペクトからのプロセス)であり、
今や、レベル無きデザイナー達が簡単にインスパイアーと言うなかれ、
リスペクトと言うなかれ、という安易なデザイン手法を否定します。
全く手法論としては無知蒙昧な方法が現代はまかり通るばかりか、
逝去したデザイナーのオリジナルを自分デザインとは許せません。
これは明らかに盗作であり、それにも関わらず、
彼らで成り立つ私立大学での教員教授たちの存在を見過ごすことこそ
犯罪行為、詐欺行為だとさえ考えてしまいます。
改めて記します。著作権は無方式登録で160カ国が加盟しています。
デザインレベルが「応答作品」という低レベルであっても、
商標権は登録審査されますから、商業主義的な登録成立も
私はデザインの神聖さ、これはパウル・クレーの置き土産ですが、
私はデザイナーとしてこの倫理性を護り抜く覚悟です。
この私立デザイン系大学は、社会的存在性はありません。

I.P.Annual Report知財年報〈2010〉


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『資本主義からの逃走』
  「『付加されているデザイン』は、デコレーション」


   


     7月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

見過ごすデザイン?
正直、これがデザインされているのだろうか、
というモノが本当に氾濫し始めています。
私はすでに60歳を過ぎてからは、「見過ごすように」しています。
当然ながら気持ちは分断されます。
「明確に言うべきだ、いや見過ごそう」という二分化が内省で起こっています。
ただし、デザイン教育の現場で自分の教え子には、
「ここがデザインではない。デザインという大誤解がある」という理由を
説明し指導しておきます。
それは次世代には伝えるべきだと思うからです。
デザインはどうしても「感覚」で捉えられます。
したがって、私も価値感の多様性については、
「あってしかるべき」態度は正確に保持しています。
しかし、「デザイン価値がたとえ付加価値として目指されてことであっても」、
デザインの本質が問題解決や、新たな文化構築ではなくて、
破壊しようとしていることや、
迎合がみえみえのモノは、
デザインではなくてデコレーションという一言で片付けることにしています。
デフレスパイラルで、デコレーションをデザインと呼ぶモノが増殖しています。
でも、デコレーションといっても、
いわゆる加飾の極致である「絢爛豪華」なモノは、充分に受け入れます。
大誤解
さて、デザインの大誤解は二つあります。

▼ Simple is bestとless is moreのはきちがい
▼ Appropriation的が現代デザインだという非見識

この二つを、最近は見過ごすようにしています。
しかし、私が尊敬するデザイン界・学識界・美術界の先生方に、
自分はこうしたモノはデザインでは無いと考えますが、という質問をすれば、
必ずこうした大先輩も同じように「見過ごし」ておられます。
私もそろそろ、信頼する学生や次世代デザイナーには「聞かれたら正確に解答」する、
そんな態勢と態度になりたいと考えるわけです。
それでも、そんなことが出来ない自分がやはり存在しているようですから、
これを「実作デザイン」で具現化創造に、と意気込んでいます。


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