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Posts Tagged ‘知識’


『赤・この色がブランドを決定づけている』


   


     1月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

私は女性が幸運だと思うのは、ハイヒールを履くということです。
ハイヒールの歴史では、男性の物だったことから始まります。
勿論女性にとってハイヒールなんてとんでもない物かもしれません。
最も、私はハイヒールのデザインは、もっと歩きやすいことが重要。
そして、私はハイヒールは最低でも7cmの高さが履けることです。
多分、女性にとってはハイヒールなどは無い方が良いことも分かります。
ハイヒールのシルエットが社長室(男性)のピクトグラムという、
そんな洒落たサインを見たことがあります。
また、このハイヒールを進化させた若い日本人デザイナーがいます。
このハイヒールは、最も著名な歌手が履いていて、
これを履けるということの意味性には、
現代的な明確な記号論が必要であり、ハイヒールの未来性こそ、
男女差の美学性を担っているのかも知れません。
そのハイヒールで靴底を真っ赤にしているブランドには、
ブランド表現の効用性が少なからず経常利益に結びついています。
私自身、靴紐も赤で靴底も赤になるべくオーダーをしてしまいます。
製品のある部位で、ブランド性、効能性を語りきっていること、
これは商品展開においてはとても重大なことであり、
モノ真似があっても、ブランドのオリジナリティの守備範囲は、
知的財産権の大きな守り方であったことは確かなことです。
私は少なからず、ハイヒールについても「学んでいます」から、
その歴史、素材、知識、ブランド特長についてはワイフ以上だと
自信をもって自負しています。それは意味がない?
いえいえ、とても重大なことです。
このファッションデザインという、流行性や装飾性を超える、
利益率はすでに、この色指定で、大きな予測を創り出したデザイン。
すなわち、加飾性を乗り越えた経済的な効能デザイン力があります。
靴底を赤にしたデザインではないという、
もう一つ先行したデザインの策略性を学ぶべきと考えます。

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11月02日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

11月02日 丁丑(赤口)

デザイナーというのは自称できる。
しかし、
その根本には
美的な見識と知識、そして技能が要る。

その見識の根幹は「嘘つき」でないこと、
利用できることは利用する。
最も許せないのは、
嘘つきで利用する奴、奴らです。

このような奴らこそ、
最も許せない喧嘩相手です。

川崎和男「喧嘩道」


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8月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

8月10日 癸丑(先負)

歴史は権力で再作成されたモノにすぎない。
まして歴史小説はフィクションである。
小説は仮構に過ぎないから、
確信すべきコトでは無い。
しかし、
歴史から「学び取る」コトは、
知識と感性と感情の制御力を育む。
したがって、
仮構装置を歴史から
マイナスさせる力こそ、コトの創出、
鍛え上げなければならない一つだ。

「川崎和男 強い人弱い人」


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8月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM

8月3日 丙午(友引)

デザインの基礎知識は
「知識」であり、
その体系にある。
体系化された知識とは、
語彙とその意味である。
よって、
その語彙の意味を
体感できる臭いと香りは
「センス」である。
しかし、
知識薄い人の言うセンスでは
全く無い。

「川崎和男 強い人弱い人」


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『陶磁器の二つの歴史・創れないモノまた創れるモノ』


   


     2月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

私は陶磁器には二つの歴史があると見ています。
縄文弥生にあった六古窯の歴史と、
秀吉の朝鮮征伐により日本にもたらされた家元制度の歴史です。
そして、私が陶磁器には進化が無かったというのは、
かつて革新されてつくれたモノが現代では創れなくなったモノ、
もう制作不可能だったモノが現代、なんとか再現できるモノです。
日本が貿易国家になっていった九谷焼(右)はもう再現不可能。
比して、現代、弥生時代には出来たであろう越前焼(左)です。
九谷焼は明らかに有田焼技能が北前船で伝わったであろうこと、
しかし、有田での輸出品よりはるかに技術開発されましたが、
現代、九谷でこのガラスのような磁器と絵付けはもう出来ません。
福井にいたころ、越前焼ではないと私は主張し過ぎて、
越前焼には出入り差し止めでした。
ところが、陶器である六古窯時代を再現する若手が出てきました。
これら陶磁器はいづれも日本の伝統工芸です。
私は恩師から、伝統工芸にデザインを向ける時のまず知識、
その蓄積を教えられました。
そして、革新的な「造形」の新製造生産システムづくりです。
したがって、伝統とは継承ではなくて「革新」です。
ところが、日本のモノづくりの大誤解が最近まかり通っています。
それは、日本の伝統工芸への美的なセンスの全く無い、
プロデューサーを自称する輩に「産地」が騙されているのです。
伝統工芸の革新づくりには勿論、現代生活への適合性が必要です。
だからといって、安易な手法での商業主義では台無しになります。
こうしたモノを見たときには、徹底的に非難します。
問題は、もはや再現できなくなった技術の復権である高度化と、
再現が可能になったなら、過去になった伝統性への裏切りです。
デザインにとって、日本の伝統工芸には未来があるのです。

【ブログの関連記事】
『磁器お皿・三つのパターンと料理手法に進化無し』
『陶磁器産業地を視察して・伝統産地は県行政を決定する』
「六古窯・越前焼ー若い才能が復元から再興を始めだした」
「陶磁器は進化も革新もしていなかった、私の判断」
「自然から学んだはずだった・・・のだが?」


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『三つの革命・予測は当たっていた』


   


     1月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

大学人になって18年になります。
18年前に、私は三つの革命を予測しました。
「光重合革命」は、光造形から3D-Printingを経過しています。
「電磁波革命」は、範原発を促し新たなエネルギー革命を予測。
「遺伝子革命」は、とうとう遺伝子読解を成し遂げています。
特に、私が考えてきた遺伝子革命は4D-CADになるものと考えます。
昨今話題の自己遺伝子を判定するブームになりつつありますが、
実際は遺伝子判定では、実子判断だけではなくて、
将来自分の疾病予測も可能になってきました。
また、自己遺伝子で服用可能な薬剤決定も可能になっていますが、
薬剤経済学的な制度によって緊縛されているのも事実です。
しかし感染症判断では、デザインがこのシステム開発が可能です。
だから、私は今後のデザイナーの知識獲得では、
この三つに対応できうるデザイナー教育が肝要だと思っています。
それは、デザイナー教育においては、
専門学校や美術系大学では不可能になってきていることです。
もちろん、デザインは問題解決手法にデッサン力は不可欠ですが、
それ以上に、理科系的な能力が必要です。
私自身はすでに大学も定年退官しましたが、
総合大学での理工学・医工学・文理学・政経学すべてが基盤だと、
これからも主張していくつもりです。
そのシンボルとして「遺伝子革命」へのデザイナーの眼力、
これが最も大事なことだと認識しています。
つまり、知識・見識・良識・胆識を遺伝子で判断すること、
そんな時代が必ず来るでしょう。
そうなれば、デザイナーになる能力判断も可能になります。
ようやく、感染症を遺伝子判定するシステムがデザインでこそ、
革新させていく時代に入ってきたという印象があります。


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『桜=日本という誤った大間違いのイメージ表現』


   


     1月 15th, 2014  Posted 12:00 AM

このことは指摘し書き残さなければなりません。
もし、桜が日本をイメージする表現だとしても、大間違いを、
私は指摘し、この表現に安易に乗っている馬鹿どもを許しません。
100円ショップに、阿南漆で生産されたお椀にすら、
桜がそれらしく装飾されています。
桜を表現するデコレーションのデザインです。
最も安っぽい表現が、なんと日本イメージになる低レベル。
なんでもソメイヨシノを植林すればそれでいいとする有名建築家。
その存在も私は大否定しておきましょう。
なぜなら、ソメイヨシノこそ、日本の桜を台無しにしてきた、
とんでもない存在だからです。
ソメイヨシノを植えれば、他の植物を殺す存在ゆえに、
日本の桜文化も否定してきているのです。
有名建築家なら知識として知り置くことです。
これが見事に中国製で阿南漆の100円ショップお椀になり果て、
その浅薄な知識が「日本表示」のマークにもなり果てています。
桜はまさしく日本を表現するシンボルであるだけに、
その知識の深度が必要です。
浅はかな無知識な「桜」表現を私は全否定します。
それは、日本人の知識人ゆえに、
万が一海外から、「あぁ、とうとう日本人も浅はかな!」という、
そのようなことを言われないためにです。
桜=日本、このイメージこそ、
日本のわび・さびにつながる重大な思想が必要です。
しっかりと、桜のイメージを見ているプロがいます。
そのことを忘れないでいただきたいと思っているのです。
桜=日本このイメージにはまともな思想が必要だということです。


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『「KK塾」大野ゆう子教授からスタートしました! 』


   


     10月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

デザインディレクターとして、これまでの経験と知識から、
私は私塾をスタートしました。私自身が主宰していきますが、
私とペアでの講師は最も選び抜いています。
現代最も「デザイン」が主導すべき中心テーマは四つです。
この塾そのもののデザインには目標と目的が時代を先導します。
そのキックオフには、医療看護学では「この人」を選びました。
やはり、想像以上の講演をしていただきました。
本当は上海での講演を延ばしていただいてもやってもらいました。
私がこの塾での中心である「危機管理デザイン工学」発想を、
真っ直ぐに受け止めていただいて、医療・看護・工学は、
科学性と倫理性への決断性をいっぱいいただきました。
聴講してもらったある人のノートには、そのメモには、
お母さんの手当からお医者さん、体位交換からロボティックス等。
私は先生と医療看護で拘ってきた「二人称の医療と看護」を、
改めてデザイン+看工融合での新しいアイディアが浮かびました。
大学病院での医療と看護の体制には、
どこかで身内意識=二人称=あなたへの依怙贔屓を避けます。
しかし、私と先生は、その二人称を最大に大事にしてこそ、
第三者、三人称の彼ら彼女らへの医療看護が可能ということを
言い続けてきました。
私はこの塾の今後に、PFI・AAC・DDSへの展開に進めます。
PFI?・AAC?・DDS?、これらは聴講する人にだけ伝えます。
理由は、先導する船頭さんはほんの僅かでいいからです。
KK塾の夢、理想、希望は大野先生とも仲間である生田先生です。
と思っていたら、TV「日本のミカタ」東大特集で、
まさに、生田研の活動が取材放映されていました。
生田幸士先生が大野先生の話を受け継いで語ったもらう予定です。


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『「知とちの急行」松岡正剛氏と大阪で対談講演』


   


     10月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

私が知の巨人として最も敬愛してやまない松岡正剛氏と対談。
彼が京阪電鉄と阪大企画での「鉄道祭」プロデューサーとして、
一つの対談講演に私を指名してもらいました。
ところが、講演会場にはエスカレーターということで、
スタッフたちから「危険」とのことでしたが、
久しぶりの対談ゆえに私から強硬に納得をしてもらいました。
まず、私が大阪で何を感じ、
かつて上方と呼ばれた大阪の低迷さは彼も同様というスタート。
私は大阪弁で失われた言葉を指摘しましたし、
昨今の大阪が全国ベストでトップ項目は「犯罪ばかり」を伝達。
彼も大阪の低迷さや、上方文化がここまで破壊されていることを
きわめて論理的、彼らしい鋭い指摘を受けました。
彼との出会いは90年代からの付き合いゆえに、体調のことも、
これまでお互いが出会ってきた重要人物のことも理解済み。
さらに彼はデザインから建築、そして歴史観・現代感までを、
彼の言葉では、私との異質性と同質性がきわめて明快な間柄です。
彼には、来春出版予定の私の作品集では、
筆頭に評論を書いてもらっています。
私は、彼こそ「芸術の知識を知性で、科学の知識を感性」可能な
代表的かつ見習うべき巨人としています。
彼と対談に限らず、会話をする度に私は大きな刺激を受けます。
おそらく、対談時間があれば話は止めどなく続く相手の一人です。
新たで大きなヒントを短時間ながら一杯いただき、
私は、大阪からふるさと福井に行きました。
今、関わっている「ふくいの織物」を国際化するためです。
そして、今日は私が主宰していく「KK塾」の第一回目。
看護学の第一人者である大野ゆう子教授にお願いをしました。
「未病先防」と「冒険伝説」を頂いています。
私はまた大きな刺激をうけるでしょう。
大野ゆう子教授ともすでに長い付き合いをしています。


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『「カリグラフィ」のペンとインクとインク壺』


   


     10月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

「カリグラフィ」は美しい文字を書くこと。
書くというのは、欠くという原意からきています。
それは、パピルス(織物)からペーパーになって、
その表面を引っ掻いて、マイナスの行為であるから、
まさに、文字を「作る」作業です。
私は「カリグラフィ」と「書」を対等なものとしてしていますが、
そうなると、「書」は和紙に墨を染みこませますから、プラス。
つまり、染みこませて「造る」作業だと思っています。
もっと厳密に言えば、カリグラフィは創作であり書は創造です。
私が、「カリグラフィ」に選び抜いているペンは、
すべてイタリア製ですが、それに匹敵するインクは「青騎士」。
このインク自体が特殊ですが、色あいは私にとっては、
これ以上の色はありえないぐらいに思っています。
ただし、このカリグラフィのインク壺はとても似合っていますが、
私自身は、デコレーションされていてスタイリングとしては、
機能性が欠落しています。
だから私が選び抜いているインク、特に日本製は優れていますが、
そのうちに紹介したいと思っています。
美大時代にレタリングのインクは指定されていた意味が、
プロになって、やっぱりそうだったのかと思います。
自分が「書く」という行為は、自分の知識で欠落していること、
「欠けている」ことを埋め合わせるがごとく、「書く」のです。
そうして、「カリグラフィ」はデザインとして創作にあたり、
「書」は創造ゆえに、それらを「文字」が知識を用紙に、
染みこませている行為だということがわかります。
それゆえに、「文字」と「知識」はその人の人格表現ですから、
「文字」の品格が求められているということは明らかです。
それだけに、文字のためのペン・インク・インク壺には、
絶対に人格ともどもに周到な意味があると思っています。


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