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Posts Tagged ‘田舎街’


『Mac512Kがすでに福井のデザインスタジオにあった』


   


     9月 22nd, 2017  Posted 12:04 AM

私はデザインをして製品が作品となり、商品化してしまうと、
デザインワークでのスケッチを破り捨てていました。
それが金沢21世紀現代美術館で個展をやらせていただきました。
しかも「プラトンのオルゴール展」は美術館にインスタレーション全てが、
永久収蔵・パブリックコレクションになりました。
その時、このデザインワーク時のスケッチは?と言われて、
「そんなの捨てていました」と言ったら、すごく叱られました。
過去は振り返らないと思っていましたがそれ以来スケッチは残しています。
幸い金沢展の時も、スタッフが一部持っていてくれたので助かりました。
彼は私のほとんど強烈なFAXまで持っていたのです。
先般も、私がMacintosh512Kを、スタッフ全員に持たせて、
そのプレゼンルームもということが本当?とか聞かれたのですが、
これが証拠。これらの写真が出てきて、
ほら、もう当時はFatMacと言われ始めた頃にはスタッフには使わせて、
やっと日本語使用がキヤノンで出来たDainaMacの時代、
私のスタジオ写真が出てきたのです。
このアトリエは福井駅のすぐ近くに3フロアも使っていました。
地下はショールームでした。
まさか、福井なんてという田舎街にこのアトリエがあったのです。
テーブルは人造大理石で、床は4cm高くて、まだまだなのにLAN対応。
その時には海外製でやっと出来た
コンピューター室専門のカーペットまで、
Apple本社の連中もおどろくアトリエだったのです。
とりあえず、実在していた、まだ512K時代のMacは
デザイナーが一人一台を使っていました。
その裏側ではMacintoshXLがサーバーだったのです。
当時、MacintoshXLは国内に4台で、キャノン販売からもらったのです。
このアトリエは現在の阪大の研究室インテリアに引き継がれています。

* 『1984年からMacintoshとの付き合いが私の重大経験』
* 『資本主義からの逃走』「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・02」
* 「原点回帰と思っている作品」
* 「Power Pointで創造性は破壊されていきます、なぜなら系譜から」
* 『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


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『日本人の常備薬としていまなお傍らにあります』


   


     8月 20th, 2017  Posted 12:00 AM

赤坂でフリーランスのデザイナーにならざるをえなかった私は、
40歳までの寿命と告げられてもレコード針メーカー・ナガオカでは
ジュエルトーンブランドをディレクションしていました。
が、企業方針と合わずにスタジオも辞め、福井に帰りました。
身体も相当に悪化していましたが、治癒も兼ねて
よく県内を車(カマロベルリネッタ)でドライブしていました。
福井のさらに田舎街で、古びた仁丹の看板の横に
私デザインの「Aurex」看板があって(そうか、こんな所まであったんだ)
とても感激して仁丹の看板を見た思い出が今もくっきりと残っています。
そして幼少の頃には、おじさんたちがそれこそみんな
仁丹を現代のフリスクのように、口に含んでいました。
これも日本人、日本民族とともに仁丹がありました。
そうすると、「正露丸」も思い出します。
そしてこの「正露丸」は商標権での問題視は知られていますが、
日清戦争時での下痢や脚気に対して、森鴎外なども企画した
日露戦争に向けて腸チフスや脚気問題解決の医学的で大変な発明でした。
が、「征露丸」だったことは忘れられていると思います。
そして腸チフスに対して、
私は福井県出身である藤野恒三郎大阪大学名誉教授を思い出します。
彼は腸ビブリオ炎の発見者でした。
そうして「征露丸」から「正露丸」は、今なお有効だと思います。
New Yorkで一度、日本人旅行者の3人女性グループが、
見ず知らずでしたが、深夜に私のホテルルームをノックしてきたのです。
友人の下痢が止まらないということで、
海外では常に私は携行していた「正露丸」を渡しました。
翌朝、そのグループに感謝されました。
それほど「正露丸」は今も日本人には大切な日常の常備薬になっています。
また仁丹はああした銀粒状の薬剤は、多種、民間療法的に生まれたのです。
仁丹、正露丸は日本民族の常備薬だと思っています。

* 『静電気、あたかもスタンガンでレコード盤から塵を取る』
* 「ヘッドホンにはヘッドホンアンプ必要なり」
* 『医薬品業界の誤った市場認識と経営方針・大錯誤』
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「相当困難だと思う」


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『レジリエンス=強靱な益荒男こそ大丈夫を意味する』


   


     3月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

金沢から新大阪へのサンダーバードがやけに寒かったのです。
帰宅するとワイフが風邪を引いてしまいました。
私は絶対に引かないぞと思ったいましたが、
結局、3日間ひたすらベッドに打ち伏すことになりました。
しかし、仁愛女子短大からの企画で
福井に講演で帰らなければなりませんでした。
出かけてその夕方から久しぶりに一般向けの講演をしました。
実際は、ほぼ毎月一度は帰ったり、
福井での学会では基調講演をしましたが、一般向け、
難しい話はしないでとのことでしたので、結局は、
母の実家の宮大工の祖父との思い出や永平寺、道元への思いや
当時の方が豊だったと思うことを話ました。
この直前に金沢では、あの北陸新幹線で金沢の変貌には、
正直、福井はほぼ全滅と思っていましたが、
新幹線は確かに金沢をさらに賑やかで美しい街になりましたが、
文化が崩壊していくことを体感してしまったのです。
それゆえに、講演後マスコミからの取材では、
いづれ北陸新幹線が乗り込んできても、
もう徹底した田舎街であってほしいと言って、とても驚かれました。
私自身、福井にはもう恐竜だけとも思っていましたが、
福井には17年間も社会人向けのデザイン講座「SSID」では、
2百数十名を教えてきたので、彼らにもそのことを伝えました。
それこそ、曹洞宗本山開祖の道元、
明治維新の真の立役者で26で斬首されたは橋本左内がいました。
大阪大学は適塾が根本にあり、
福井では知られていない藤野恒三郎名誉教授(腸チフス発見者)が
おられますが、このことは忘れられていますが、
杉田玄白から橋本左内については語り直さねばなりません。
そんなわけで、金沢の尾山神社、そして、
橋本左内をも守る神社のお守りを大事にしたいと思います。
ここしばらくこのブログは無理でしたが、もう本当に「大丈夫」です。
「大丈夫」こそ、
レジリエンス=レジリエンスな益荒男(ますらお)を表しているのです。

#「SSID」=Sabae School of Intelligent Design」

* 『もっと豊かな鉄道システムの統括デザインが急務』
* 「『医の知の未来』適塾175年・緒方洪庵没後150年=大阪大学」
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在
* 「ふるさと偉人の「ち」の系譜を再興したい」
* 『1800年代安政の頃・「適塾」を最も語り継ぎたい』


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『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』


   


     9月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

私の記憶では勝山市北谷で、恐竜の小指発見が、
わがふるさと福井を恐竜の街にしたようです。
昔、恐竜の本物を米国の自然史博物館で観ました。
その圧倒的な巨大さがありましたが、
現在はデザインされた妙な展示で面白さが消えています。
そういう意味では、ふるさと福井駅に着くと、
正直、金沢駅の華やかさは全くなくて、
まさに田舎街ですが、「ここまで恐竜か」と驚きます。
先般も「羽二重」織物工業の青年部会指導に帰ってみると、
工事現場の看板にまで用いられ、
様々な恐竜には「フクイなんとかザウルス」まで、
どんどんと発見されているようです。
そして恐竜博物館は、ボランティア組織での運営など、
新たな博物館のあり方としては注目。
全国の小学生男の子たちには「聖地」が勝山市だそうです。
私も一時期は恐竜の名前や図鑑を一通り完読。
男の子にとっては、
とめどない古代への夢のロマンあふれる恐竜たちです。
最近では、羽毛もあったとか、まだ恐竜の実在的な色彩も不明ですが、
アルゼンチノサウルスやディプロドクスの巨大さは、
長さが30mで100tとか聞くと、これは船舶と同等の大きさに感じます。
今は自宅には唯一のティノサウルスが一頭います。
いわゆる巨大動物は象やキリンやカバ程度でも
彼らの大きさは実感できますが、
こうした恐竜たちが生きていた時代となるとそれは想像を絶します。
勝山市北谷近辺は加越国境の山々が、大長山から烏帽子岳などが、
白山山系の手前にあり、高校時代にはすべて縦走しています。
今でも白山手前への加越国境の山々はすべて名前と、
高校時代に縦走していた思い出が重なります。
この縦走訓練が、
大学時代の後立山・立山・剣岳それから針ノ木峠に出て、
そこから一気に大町駅に下ることを4年間やっていました。
私が高校時代には勝山市北谷ならば、イワナが捕れる山系でしかなく、
まさか、この勝山市が恐竜の中心地となって、
福井県が恐竜の街として、これほど私が帰省するたびに、
ここまで恐竜で語っていると思うほどですが、
プロのデザイナーとして、地方活性のシンボルとするならば、
まだまだ知恵不足なことは確かなようです。
もっともっと、「恐竜の聖地」になっていってもらいたいものです。


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『ある時期を過ごした思い出の街の姫路城、その高度な文化』


   


     12月 8th, 2014  Posted 12:00 AM

2014年12月6日。
私は講演に呼ばれて姫路市に出かけました。
40年前に、私は東芝の新入社員として販売実習で3ヶ月、
この街、駅前大通の家電量販店で、ラジオ、TV、冷蔵庫販売。
一週間、じっくりお客さんの出入りを見ていれば、
何曜日の何時頃、お客さんの来店混雑がわかり、購買決定は、
必ず奥様が分かりましたから、量販店には支店会議があるからとかで
ほとんど映画を観たりして、そして、大量に売っていました。
サボっているのに売っていることを、他社のヘルパーから睨まれ、
それなら、直ぐに喧嘩をし過ぎて、田舎街の量販店に飛ばされました。
そこでも、売りまくりました。新人研修、西日本地区では売り上げ5位、
報奨金は当時のボーナス同等でした。
デザイナーになるための通過点でしたが、性分上、売るならトップに
懸命にやり切った街でした。
東芝の本社に戻らず、量販店に来ないかとまで誘われるほど売りました。
40年ぶりに姫路城を見ました。おそらく日本で最も美しいお城です。
ちょうどNHK大河ドラマとのコンビネーションでブームの街ですが、
私は、このお城が存在していることがすでに大宝物のある街であり、
これを後世に残した黒田官兵衛なる人物の存在に敬意を持ちます。
現代までにもこれだけ美しい建物を残した偉大な人は限られています。
後世への遺物として、美しい建物を遺すというのは偉業です。
だから、この大遺産を本当に大事にすべきだとことさら思います。
それはこの建物同様の素養が育てられてきただろうかということです。
私はとてもささやかで小さな講演会かもしれませんが、
姫路城を心から意識して、自分の役割は最大に計ったつもりです。
ところが、姫路駅に限らずですが、駅ホームは、
あれからどれだけ私たちが文明を進化させてきたでしょうか、
無念ながら、文化はその文明に比してとても貧しくなっていました。


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