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Posts Tagged ‘東芝’


『久々にCDを購入する・・・もうその時代は終わったと思うが』


   


     10月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

オーディオからデザイナーをスタートさせたこと、
それは私にとってとても大きな幸運でした。なぜなら、
オーディオからダンディズムを学べる恩師を持てたことです。
実は、もうCDの購入は辞めました。
理由は、まだリッピングしていない相当のCDがあることと、
CDよりも直にインターネットで音楽がデータとして購入可能です。
しかし、私は恩師録音のCDは買うことにしています。
もちろん、すぐにリッピング(Appleロスレス・エンコーダ)します。
iPod classic160GBは、カテゴリー毎に5台目ですが、
まだあるCDのリッピングをすれば、もう人生はそれで充分、
一応そうは思うのですが、ついつい新曲にはひかれます。
最も、私が惹かれるのは、
なんといっても恩師と同等の力量ある評論家選出の音響と音楽。
しかし、これはもうほとんどありえません。
あとは、私が講演会スタートで利用する音楽の収集です。
もう一つは、このFB内に「オーディオファイル達のクラブ」、
その中で、信頼できる人が選び抜いている音楽は、
どうしてもともかく一度は聴くことにしています。
恩師自らの録音や、彼が選び抜いている音楽については、
なるべく、いや絶対に私の収集曲になります。
かつて、オーディオ評論家の何人かの人たちに、
東芝のデザイナーとして意見を聞いていた時期があります。
その当時には、正直、どうしようもない評論家がいました。
そうして、この人がいつかはこのオーディオ界で有名になるかも、
そんな人が現在メディアでの発言を読むと、がっかりします。
そういう意味では、私にオーディオだけでなくダンディズムを
徹底的に仕込んでいただき、
名古屋の自宅では、オーディオチェックをしていただき、
そのまま恩師連載に取り上げてもらいました。
だから、リッピングしてもこのCDは持ち続けるでしょう。

 


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「コンピュータを強く認識したときの人物と試作デザイン」


   


     6月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

東芝入社早々に、COBOLとFORTRANを学ばせられました。
大学時にタイプライターを学んでいたので、
パンチカードでプログラム打ち込みは得意でしたが、
大きな疑念が残りました。それはいづれ書きます。
しかし、Apple?の登場とMacintosh128Kで私はこの世界が、
必ずデザインの手法を変えると直感しました。
それから、様々なコンピュータやパソコンと出会い、
1990年代に、私はApple本社・ジョン・スカーリー会長直属の、
デザインコンサルタントになりました。
東京のバブルを横目で見ながら、クパチーノ本社、
その社長室で、私はアラン・ケイ氏に突然会わされました。
ほとんど躊躇も上がりもしない私が仰天し慌てました。
日本でも彼へのプレゼンがありました。
当時「Jeep」というコードネームの生徒向けパソコンです(右)。
ともかく、アラン・ケイが発明したパロ・アルト研究所での、
彼のコンピュータがジョブスを刺激し、Macに繫がる訳です。
キーボード・モニター・マウス・GUIこの四つが
WYSIWYG=(What You see What You Get)になって、
パソコンが今日に至っています。
私には、当時は七つのプロジェクトがありました。
その中で、生徒用、学生用ではありません。
つまり、小学生がバックパックに収めて使えるパソコンでした。
ちょうどその頃には、AppleとシャープがPDA=Newtonを開発。
Newton100と同等の大きさのキーボードが求められていました。
私は、現在のキーピッチを計測し直して、
そのキーピッチ余白を省略すれば、
その余白分で拡張可能がわかって実装化ができたというわけです。
もっとも、ジョン・スカリーとアラン・ケイともに、
このプレゼンを箱根でやったことは思い出ですが、
本当に存分にその頃は、
米国でパソコン開発の困難さを東洋人として知った気がします。
しかし、アラン・ケイは私にとって「雲の上の人」でした。
それでも、当時、すでに現在のトラックパッドや、
USBにつながるであろう会話は始まっていました。
「マルチメディア」全盛の時、
「メディア・インテグレーション」がコンセプトでした。


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「男の嫉妬を消去せよ」


   


     11月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

男は外に七人の敵ありと言われますが、
それは、男として生まれてきたなら
当然の道程にあるバリアーだと思ってきました。
しかも、私は団塊の世代(大嫌いな言葉ですが)ゆえ、
受験時代、サラリーマン時代、職能界(私はデザイン界)での
競争も含めて、納得の事実経験です。
私は、自分には正直、嫉妬心はありません。
ジェラシー無く、ライバル意識を整理整頓しています。
というより、障害者になってからの差別感は、リハビリ病院内や、
障害者界でいっぱい体験しました。
その前に、東芝を辞職した途端にどれほど体験してきたことでしょう。
そして、私は「敵をつくらずして味方はできない」説、
これを信仰して生きてきましたから、
「敵」と思ったら、人間関係など破綻させて構わない、
とすら思う輩ゆえ嫉妬心を消去可能なのです。
これが最も「正眼の構え」を保持できる知恵とすら思っています。
だから、男の嫉妬心をつぶさに観察し分析も可能です。
そして、我が身にかかる火の粉は、
私の極度の冷徹さ温度を極限にセットゆえ消失実現可能です。
前置きが長くなりましたが、
たとえば、日本企業の経営失速の第一因は
「企業内男嫉妬闘争のなれの果て」があります。
政治も、経済界も、商業界も、
全ての業種においての稚拙な男の嫉妬合戦を見つめています。
さらにそれはインターネットでの裏チャンネルにあふれています。
「下らん!」の一言を発するリーダー無きわが国なのかも知れません。
昔なら、ライバルとジェラシーを分別し、
ライバルならば、
「決闘」で命を代償にするほどの闘争で決着を付けていました。
しかし、男の嫉妬はライバル意識という高次元性では無くて、
低レベルのジェラシーに過ぎません。
私は、これまでこのように考え、面前で発言してきました。
「高校生時代までだったら、きっと、貴男を殴り倒している、
貴男はその程度ゆえ、縁を切らせていただきます」、と。
味方と信頼している中にこそ、裏切りが生まれます。
敵対視して、ライバル意識で闘争すれば、友情が芽生え、
敵をつくれば味方は、敵の中にこそ生まれてきます。
これが、60代になって確認できた男の処世術戦法だと思っています。
「敵無くして味方は生まれず」です。


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「インハウスデザイナー時代のライバル、そして『縮み文化』」


   


     10月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

東芝でインハウスデザイナー時代は、
音響機器デザインのライバルに一つ、Technicsブランドでした。
そのブランドのデザイナーが、飯田吉秋氏でした。
そしてその彼がフリーになっての作品は、
カードタイプにまとめられたソーイングセット(縫製用具)でした。
そのデザインがいきなりMoMA=ニューヨーク近代美術館の
パブリックコレクションになりました。
ちょうど私もフリーになってタケフナイフビレッジ展を
ニューヨークで開催する準備中だったと思います。
当時は、日本のモノづくりが「縮む文化」という評価を受けていました。
代表例は、「幕の内弁当」がその象徴になっていました。
確かに、松花堂弁当の縮み文化は抽象的な事例でしたが、
このソーイングセットは、余りにも具体的な発想で、
日本の凝縮実装性をデザイン表現していました。
以来、このソーイングセット「Plateon」は、
記憶にしっかりと残っている製品でした。
飯田氏は関西を拠点にデザイン活動をされていましたし、
JIDA(日本インダストリアルデザイナー協会の会員)でしたから、
そのうちに出逢うと思っていました。
それが、ある作品を見て、とても驚愕し、
これは新たな知育玩具だと感心したのです。
それが飯田吉秋氏のデザインだと知ったのはこのFBで分かったのです。
私は、「いいね!」を送付し、それからFBでのやりとりが始まって、
阪大研究室を訪ねてもらいました。
ご本人からこの作品とともにサインもしていただいたという次第です。
かつて、オーディオ全盛時代の話から
3.11の復興デザインにまで話は広がりました。
お互い20代には所属する企業では、
オーディオ商品競合のデザイナー同士でした。
お互いにデザイナーとしての最期の職能役割をすでに話合う仲です。
デザイナーは、その人の作品で、
専門的な職能観を共有することができるというわけです。
それも、ある種の「縮み文化」なのかもしれません。


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「Kaossilator2から音楽と音響の未来が聞こえる」


   


     8月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

モーグがシンセサイザーを発明したのは60年代。
ミニモーグとなって市販されたのが71年でした。
私はシンセサイザーのデザインを目指していました。
美大卒業を間近にして、
「デザイナーとして、音と光をデザイン対象に」と考えていました。
だから、主任教授も
「東芝に行けばシンセサイザーが出来るだろう」と説得されたのです。
確かに東芝は「オーケストロン」という
電子ピアノ楽器を商品にしていました。
しかし、私が入社直後に、
ヤマハの「エレクトーン」との競合により撤退しました。
その研究開発のエンジニアがAurexの部隊に加わったのです。
私は退院後車椅子生活になると、
KORG MS-20とSQ-10を2台で音楽というより音響を創り始めました。
それ以来、この種のシンセサイザーには強く心惹かれています。
今では、iPadの中にiMS-20もあります。
iPhoneの中には、iKaossilatorもあります。
しかし、このKaossilator2は進化してより以前機種より小さくなりました。
iKaossilatorと比較すれば、
インターフェイスは好き嫌いが分かれるでしょう。
しかし、Kaossilator2は、
シンセサイザー音源をほとんどポケットに持ち歩いている感覚です。
ポケットからメロディラインとフレーズラインで
自分の感覚をそのまま取り出すことが出来ます。
私は、この技術には、
現在行き詰まっている音楽界、作曲界の突破口があると思っています。
その突破口は音楽領域ではなくなってきているのです。
つまり、「音楽」と「音響」が
私たちのリズム感覚とテンポ感覚にどんなインスピレーションを与えるか、
これがこれからのミュージックです。
私たちは、時代時代の音楽に
自分の生涯や思い出を重ね合わせていますが、
本来、音楽も音響も、
私たちの感覚にインスピレーションを励起するコトです。
Kaossilator2に、
私はこれからの音楽+音響=イノベーションサウンド、
そんな耳鳴りが聞こえてきそうな気がしてなりません。


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「わが国の展博・コンベンションデザインは遅れている」


   


     7月 7th, 2012  Posted 12:11 AM

私の見本市・展博・展示会経験は「晴海見本市」会場から始まりました。
東芝時代、オーディオフェアに限らず70年代は、
ほとんどが晴海に見本市会場がありました。
それから、「幕張の見本市会場」が出来ましたが、
会場までの交通の便が不便でそれほどの効果はありませんでした。
そして有明の「ビックサイト」が出来ましたが、
私は失敗作だと思ってきました。
つまり、日本にはコンベンション会場が皆無と言っていいでしょう。
ミラノ市は敗戦後、
すぐにこの「コンベンション都市」をめざしましたから、
世界の見本市の中心地的存在になっています。
私は20代で、オーディオフェアのディレクターに自分から申し出て、
その実務経験をし、展博デザインを学びました。
今回ISOT(国際文具・紙製品展)では、
展示ブースの上に、アドバルーンが数個浮かんでいたので、
私のある経験を思い出しました。
晴海の見本市会場では、展示ブースには高さ制限が規定されていましたが、
私はアドバルーンを上げることを思いつき、実行したところ、
それは事件になりました。
展示会の事務局から「展示違反」、
そのバルーンを下ろしなさいと通達がありましたので、
そのバルーンの糸を切りました。
そうしたら、かえって目立ったのです。
もう事務局は何も手立てがなくて、
開催期間中は最も目立つブース位置表示になったということです。
今では、アドバルーンはOKですがまったくオリジナリティが無く、
日本の展博デザインはほとんど進歩していないことを象徴しています。
日本には展博デザイン専門の学科がまったく無いからかもしれません。
交通の便が良くて、
会場の広さや展示デザインをより高度にするべきでしょう。
いわゆる展博の企画会社にはデザイン部門が無いことも大きな原因です。
展博・コンベンション手法は日本が様々な産業のホスト国として
先進性を連続保持することは貿易立国としての重大な要件です。
10月には、二つのわが国にとって重要な展博に関わります。
さらに、展博アイテムそのもののデザインから、
新しいコンベンションスタイルを産み出したいと考えています。


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「インプリンティングされている私の「定食」」


   


     6月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

全く自慢出来ませんが、
食べ物の「好き嫌い」について私はダントツです。
トマト、あれは人間が食べる物ではありません。
動物の餌ですって、断言できます。
そして、極めて好きな食べ物は偏食しています。
カレーライス・焼きめし・カツ丼・スパゲッティ・オムライス、
そしてハンバーグ・焼きそばです。
これが私の定食として十分だと言ってもいいでしょう。
ICD=埋込み除細動器を入れてからですが、
甲殻類アレルギーになり、蟹は食べられません。
が、薬で防備して食べられることを昨年発見しました。
駅弁といえば、これもインプリンティングされたのでしょう。
崎陽軒のシウマイ弁当で十分です。
これは、美大卒後、インハウスデザイナーになって、
駐在していた磯子の音響工場(現・東芝生産技術センター)から、
当時は銀座の阪急ビル7Fの意匠部(現・デザインセンター)へ
横浜駅から、
あえて横須賀線の一等車(無賃乗車でも絶対見つからない)で、
昼食として大好きになった弁当でした。
だから、今もなつかしく新幹線で必ず食べるのです。
しかし、この弁当は確実に時代の経済状況が反映しています。
つまり、シウマイの大きさやその他のおかずも、
絶対に変化していると思います。
それでも大好きです。
ふるさと福井から帰阪するときは、必ず、「ソースカツ丼」です。
最近は、ワイフから炭水化物を制限されています。
食べ物の「好き嫌い」は絶対に直すつもりはありません。
無論、フレンチもイタリアンも中華もそれなりに極上品には、
食欲はそそられますが、
私のインプリンティングされた私の「定食」でもう十分です。


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「機関車の魅力=鉄道の魅力に潜むデザイン論理」


   


     6月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪駅に帰って来ると、
C57155の車輪が迎えてくれます。
子供の頃から、蒸気機関車が大好きでした。
「デゴイチ」か「デコイチ」かの区分にも私見があります。
そしてなんといっても北海道で、
蒸気機関車が全面ストップ寸前、まだ東芝マンでした。
それゆえに「蒸気機関車・SL録音出張」までしました。
しかもその録音はLPレコードとして商品化できました。
3重連で走りそこに雷鳴が、という素晴らしい音録りをしました。
鉄道は、子供たち、特に男の子にとっては魅力があります。
そこで、次のような課題を考えることができます。

■1.「新幹線はとても速い」だから「子供達に人気がある」
■2.「新幹線はとても速い」だから「目的地に速く着く」
■3.「蒸気機関車はかっこいい」だから「未だに人気がある」

この三つのテーマの中で、いわゆる数理的論理性は2だけです。
ところが、デザイン的な論理は、1と3です。
それには、二つの重大なキーワードがあると考えます。
まず、新幹線は流体力学的にも
造形デザインでスピード感がある形態=形態言語があります。
この造形言語による形態言語が、子供たちを虜にするのです。
また、蒸気機関車の造形言語には、力強さがあります。
この力強いという形態言語にさらには郷愁感が加わります。
したがってこの郷愁感には、
ノスタルジーやアンティック感は人間の感性を静謐に刺激します。
私は、現代デザイン・未来デザインとしての鉄道には、
速度性がある造形言語が創出されるべきだと思っていますが、
もう一方では、蒸気機関車のZゲージでは、
ドイツでの蒸気機関車のある種類に拘っています。
それは、速度感が編年的にアンティック感へ移行する感覚、
その魅力を見極めたいと思っているからです。
稲妻と雷鳴の中で、三重連で走るD51の姿=形態言語は、
今も私の脳裏には明確に思い出すことができます。
造形言語と形態言語の関係、
この構造主義性はこれからのデザイン論理として研究が必至です。


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「ビデオアート・現代音楽・オーディオの統合化をめざす」


   


     4月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

フリーになっても、オーディオデザインで生きていく、
その気持ち、志は変わっていませんでした。
東芝Aurexでは、音響機器の工業デザインに留まらず、
イベント企画=Aurexコンサートやオーディオフェアなど、
ショールーム設計、レコード編集、量販企画まで
なんでもかんでも興味いっぱいに首をつっこんでいました。
意匠部長(現デザインセンター長)にはしばしばしかられつつも、
チーフがいつも私の自由行動を許してくれていました。
実際は意匠部長もかわいがってくれていたのです。
上司には本当に恵まれた東芝は、私を鍛えあげてくれていたのです。
音響機器デザインをより拡大したい、
この想い、デザイン領域の拡大という志は今も変わっていませんが、
オーディオにビデオアート・作曲録音・多チャンネルHi-Fi再生を
作品化しようとしていました。
30-Channelというのは、
30個のフルレンジスピーカー=ロクハンを曲に合わせて
一個一個制御しようと考え実現しました。
リレー回路でSPチェンジするプログラマブルコントローラーでした。
今ならパソコンで簡単に可能です。
しかし、この投資は発表はできませんでしたが、
現在、「アンビエントアライアンス」に繋がっています。
「興味を持ったら、徹底的に納得するまで実行する」。
これこそ「行学」の基本だと私は思い、行動を起こしてきました。
どれほど当時は無駄遣い=浪費したかしれませんが、
人生において重要なことだと考えます。
だから、このことは教育者としても、
自分で作為的に重ねてきた経験ですから、
学生、次世代デザイナーには強調主張しておきたいと思います。
そして、そのようなことを試みているデザイナーということで、
フォーライフ・レコードや
「流行通信」、PLAYBOY 誌や平凡パンチ誌にも伝わり、
フォーライフ・レコードからデジタルガレージ設立や
「流行通信」に連載を持ちました。
けれども、徹夜仕事やメチャクチャな生活習慣で、
すっかり体調を著しく悪くしてしまいました。
父や金沢美大の恩師からも「帰ってきなさい」、
常に診てもらっていたドクターから
「ふるさと」へ帰れと命じられてしまいました。
丁度、ジョン・レノンが暗殺されたこともあり、
(私の青春は終わった)との気持ちいっぱいになり、
大きな挫折感を持ちながら、56豪雪になろうとする福井に戻ったのです。

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「30-Channel Programmable Stereo Systemは伝統工芸」


   


     4月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

フリーランスになったとき、
これまで周囲の親しい人たちが急に冷たくなりました。
東芝関係で親交のあった人たちは、
私が東芝社員だったからやさしかった、
このことを思い知らされました。
しかし、本当に心ある人たちは私を支援してくれました。
その支援で、やりたかったことに投資というか浪費をしました。
シンセサイザー・4chデッキ・ミキサー などを買い込み、
現代音楽のようなものを作曲し、
その再生システムを本格的に造りました。
まだマイコンがようやく4bitの時代でしたから、
リレー回路でプログラマブルコントローラーと
30個のフルレンジでトーンゾイレタイプの
壁面スピーカーシステムを造りあげました。
これは2chに音楽をステレオ録音し、
2chで左右にどのスピーカーを鳴らすかという制御システムでした。
プログラマブルコントローラーは4800カ所ハンダ付けが必要でした。
それはまさに日本人のエンジニアが出来る「技」でした。
だから「伝統工芸」だと考えて、
当時、京都で行われた伝統工芸展に出品しました。
当然コンペ事務局から受け取れない旨の通知がありました。
それは想定していたことです。
やがて、このエピソードを残しておけば、
必ず「君の作品だったのか」ということになると想像していました。
それは意外と早く訪れました。
日本デザインコミッティで
「デザインフォーラム銀賞」をいただいたとき、
コミッティのある先生が京都でのコンペ審査委員でもあったので、
その話をしたとき、
「あれは君の作品だったのか」ということになりました。
さらに、このシステムを当時「ビデオアート」が騒がれ初めていたので、
ギリシアの現代音楽とビデオアートコンペにも出品しましたが、
見事に落選しました。それでも一向に構わない、
いづれ私はそのアーティストにもなれるはずだとうぬぼれていました。
シェーンベルクやクセナキスに憧れがありました。
だからシンセサイザーで作曲し録音し、
さらに30個のスピーカーで自動演奏させるシステムづくりに、
デザインで得たデザイン対価はすべて注ぎ込んでいました。
今や、当時のシンセサイザーはiPadのアプリになっています。

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