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Posts Tagged ‘本質的’


10月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 18th, 2023  Posted 12:00 AM

10月18日 赤口(己酉)

デザインにとって、
デザイン造形の集約となる
形態=フォールムは、
常に機能と美しさが問題となっている。
これはデザインの最も核心であり、
本質的な課題・問題でもあるからだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』12 造形形態学の必然性


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7月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 28th, 2023  Posted 12:00 AM

7月28日 仏滅(丁亥)

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過去においてもあらゆる種類の
古いモノが「新しい」時があった。
・・・・・だが、
それは本質的に新しいモノではなかったのだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』7モンドリアンへのオマージュ


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12月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 2nd, 2019  Posted 12:00 AM

12月2日 仏滅(癸酉)

デザインにとって、
デザイン造形の集約となる
形態=フォールムは、
常に機能と美しさが問題となっている。
これはデザインの最も核心であり、
本質的な課題・問題でもあるからだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』12 造形形態学の必然性


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7月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 24th, 2019  Posted 12:00 AM

7月24日 先負(壬戌)

過去においてもあらゆる種類の
古いモノが「新しい」時があった。
・・・・・だが、
それは本質的に新しいモノではなかったのだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』7モンドリアンへのオマージュ


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『「KK適塾」最終回での通じていない日本語の話』


   


     4月 7th, 2017  Posted 12:00 AM

私がこの40数年語り継いできたことは、
日本の企業体で実際は「日本語が消滅」していることです。
企業では当然ながら全員が知っているはずの日本語、その肝心の意味が
全く消滅していて、本質的な意味・定義を知ったかぶりしている事実です。
たとえば、「企業」っていう本質的な意味は知られていません。
この基本は「企業の『企』」にあるのです。
よって、企画も計画も実際的内は企業内の会話にどれほど登場しようが、
企画も計画も企業行動・企業活動を真実には支えていないということです。
これは「KK適塾」最終回に私が「企画」と「計画」を再提示じました。
実際、日本のどの大学でも「企画学」も「計画学」もありえません。
書店に鎮座している「企画」または「計画」の書籍を私は随分みてきましたが、
ずばり、「企画」と「計画」この本質的意味・定義をみかけたことは皆無です。
おそらく、日本の企業、それこそ私が社会人としてスタートしたあの東芝さえ、
なぜ、企業存続の窮地にあつかは、幾たびも私は講義もしてきましたが、
まったく企業内ではこの本質的定義を見失っていたことだと確信しています。
ここで私はとりあえず、企業内がすっかり見失っていることば、
それこそ、製品・商品・投資・利益・利得などほとんどの日本語の意味を
すっかり「企業内で知ったかぶり」が蔓延しているということです。
「KK適塾」をこれで3年やってきて、未だにこの日本は、
すでに終焉した繊維産業・鉄鋼産業・家電産業があるにも関わらず、
基幹産業を見いだしていません。
なんだか、米国からの「デザイン思考」が「イノベーション」を
必ず起こしてくれるというムードがBigDataやIoTに繋がっているという、
この印象操作から解放される必要があると次期「KK適塾」では、
詳細に語っていく覚悟でします。

* 『コンセプトから逃走してほしい・・・』
* 『日沈む景観であっても景気はデザインが主導する』
* 『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』
* 『「企画書」づくりが私の休暇の積み重ね』
* 「商人の商売、その物が商品」


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『葉巻を語り直すことで「グローバル化」の神髄に近接』


   


     5月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

日本が「グローバル化」を国家戦略にして久しいと思います。
正直、自分には「グローバル化」と「ローカル化」は
同値の国家戦略だと考えてきましたが、
大きな違和感があったことは確かです。
なぜグローバル化ということの本質的で実務成果が見えないのか、
この理由を探していました。
そして気づいたのは、若い頃、海外での仕事では食事の時の話では
よく、オペラや現代美術での評判を話合う場面に自分がいるのです。
こんな場面で、こうした会話に望んでいる自分のことを思いました。
そんな思い出とともに、たまたま喫煙文化におけるタバコの歴史は、
癌の元凶ということから、総否定が蔓延しています。
「葉巻」だ、「パイプ」だなんてことはほとんど否定されています。
かつて喫煙については自分自身も禁煙をしていましたが、
改めて「葉巻」に取り憑かれた私が、大きく気づいたのは、
日本が「グローバル化」を語るのはすべて産業経済でのことであり、
「葉巻」・「乗馬」・「ライフル撃」・「鉄道模型」などの「文化」は、
日本でも余り表立ってこず、欠落していたということです。
そこで、「葉巻文化」をクラブづくりとともに、
日本の「キセル」での喫煙文化も加味することで、
確かに喫煙が病因的な元凶であったとしても、
国際的に文化を語り直すことで、政治や経済を離れた文化を共有する
「グローバル化」の語り直しを行う重要性を見直したいと思いました。
葉巻クラブの結成を言い出したら、とんでもなく様々な人からの
参加申し込みがありました。
そこでこのクラブのマークやすでに商品化しているデザイナー仲間と
クラブ結成とその理事長までを決定して国際的な存在をめざします。

*『葉巻文化、その道具こそプロのデザイナーの仕事だ』
*『葉巻文化と筆記具文化の統合性は凄いのだ!』
*『知ったとしても、ダンディズムがあると思う!』
*『酒とタバコと、そして・・・』
*『風土とゲマインシャフトがグローバルへ』


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「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」?「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」?「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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「造形の言語道断」


   


     2月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

私のデザインは、簡潔な「造形」をめざします。
多分40年間でデザインしてきたモノのデザインは、
徹底的な造形、その簡潔さ=Lessにつきると思っています。
オーディオから始まり、伝統工芸から制度設計まで、
デザイン対象領域の拡大を図ることで、
デザインの本質的な目標と目的、
その社会的意義に倫理性と美学性を求めてきました。
その代表作が、タケフナイフビレッジを設立し、
伝統工芸にデザイン導入を図り、
その作品としての「商品化展開」をしてきました。
それは素材開発から造形にモノは集約しますが、
全体的な産地存在性を明確にするコトのデザインにつないできました。
今あらためて、その中のモノ=作品としてこの「fluctus」には
簡潔な象徴性があると私自身が納得をしています。
時折、私は何にこだわって、
あるいは何をめざしてデザインをしていますか?という質問を受けます。
その回答は、「自分が一番欲しいモノ」に他なりません。
そして、デザインの目標=ゴールと目的=オブジェクトが
合致しているのは「簡潔さ」です。
それは、シンプルさを超えた意義までという意味です。
だから、「Simple is best」では済まされないことです。
「Less is more」にまで至っているかどうかということになるでしょう。
それを実現するには、多分、「最大公約数的な一人称」と言っておきます。
つまり、自分の言葉=造形言語の言語道断さまで
自分を追い詰めることだと考えています。

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