kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘形態’


『資本主義からの逃走』
 「ATOMがBITSを、BITSでATOMに、
        それは新素材開発での造形デザイン」


   


     2月 2nd, 2010  Posted 1:00 AM

FEP Front End Processor
ワープロは、日本独自の発明でした。
英・Word Processorとは異なるBits文字世界です。
さらに、日本語フロントエンドプロセッサーも、
日本語処理を可能とした大変な成果だと思っています。
だからFEPが無料である必要はありません。
しかし、そんな時代が近づいていると考えます。
日本語は、パソコンやケータイでは、
不利な言語体系であることがDigital技術で、
明白になりました。 
それは、BITSをコスト的に考えれば英字に比べれば、
コストは2倍です。
ハングルとも2倍差があります。
そこで、パソコンやケータイでは無くて、
電子ブック(これは変な日本語です)での日本語、
その進化を私は、これまで正確に追いかけてきました。
すでに確立しているFEP(IN PUT)が電子ブックでは、
「EFP」(OUT PUT)=日本語アウトプットが不可欠です。
「書籍(ATOM)」という形式の要素としての日本が、
電子ブック(BITS)形式にはもう目前です。
私はe-Bookが各種進化するたびに収集してきました。
しかし、これらはすべて英文字でした。
「青空文庫」が立ち上がって、なんとかMacで、
という発端時の様子も間近でみてきました。
今、私はKindleを、Kindleで購入したコンテンツを
iPhoneでも読むことができる時代になりました。
Kindle・iPhone
i-Pad
そして、とうとう大変な話題であった、
憶測や推測のiPadが商品化されました。
が、日本語処理=「EFP」は、
KindleもiPhoneもBITS技術は開発されていないので、
日本語電子ブックになる明確な日程は届いていません。
それはBITSの問題ですが、私は別の視点で、
大きな見落としを、デザイナーとして確信しています。
それは、電子ブックの「形式」ではなくて「形態」です。
「形態」=ATOMを決定づける素材が、
まったく開発されていません。
すなわちATOMとBITSの相互作用を忘却していす。
もうひとつ付け加えるなら、デジタル機器の機能です。
その機能の重大さは「清潔さ」です。
「書籍」を一ページづつ舐めた指先でという風景より、
「不潔さ」を解消しているATOM性が皆無です。
それはBITSを包んでいる形態の「素材」の進歩です。
私は、その「新素材開発」をベースに、
ATOMとBITSの相互作用性をデザインしました。
まもなく発表します。


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『資本主義からの逃走』
 「点・線・面から立体への数理造形 9」


   


     1月 18th, 2010  Posted 8:00 AM

Bitな「点・線・面」

BitはAtom時代の「点・線・面」を変えました。

●「点」には大きさがあります。

●「線」には幅があります。

●「面」には厚さがあります。

これは数学的思考での「点・線・面」ではありません。
Bitでは、「点」はピクセルとなりました。
「線」はスプライン曲線となり、
やがてベジェ曲線が本格的にパソコン内に入りました。
1988年当時を思い出します。
これまでのペイントソフトだった「ビットマップ」と、
「オブジェクトオリエンティッド」が変革しました。
「イラストレーター88」がMachintosh上で、
描画システムをまったく変貌させたのです。

●β-スプライン

私はすでに「βスプライン」を
カナダのソフト企業で、3D-CADの基本として、
個人的に演習をさせられていました。
だからかえって、ベジェ曲線の複雑さでは、
「立体化」=3D-CADとして、
「面」構成は複雑になるだろうと感じていました。
そして、
「面」に厚さが必要というのは「光造形システム」で、
まだ「平面での歯車」を知った時の啓示でした。
やがて、この歯車が立体化してくるとするなら、
それはインダストリアルデザインの手法が変容する、
という直感がありました。
すぐにその手法は「ラピッド・プロトタイピング」に
なってしまったのです。

トポロジー空間の形態論

私はこれなら「トポロジー空間の形態論」が、
必ず、展開できるとモノになっていく!、
という直感でした。
カンデンスキーの「点・線・面」が、
歴史的な記述になった、と思いました。
「トポロジー空間・トポロジカル形態」論は、
まっすぐに私の行くべき道を示唆してくれました。

人工臓器のデザイン

これが「人工臓器のデザイン」になっていくわけです。


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1月13日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 13th, 2010  Posted 6:00 AM

1月13日 先負(癸亥)

情報化社会ではますます
民主主義を唯一的な規範として
盲信している。

そのために隠蔽されていることが
多くなっている気がする。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


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1月10日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 10th, 2010  Posted 6:00 AM

1月10日 赤口(庚申)

眼=まなこは、
目の具体的かつ抽象的文字として、
民という形態を含んでいる。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


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1月7日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 7th, 2010  Posted 6:00 AM

1月7日 先負(丁巳)

ことばとかたちの関係に、
考案すること、思考すること、
その結果を 
「見て分かる=I see」形式や形態や姿勢、
そして容姿として表すことが、
論理を超越して
私達の生活意識には必要だと考える。

『プラトンのオルゴール』
統合化していくデザインの意味


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『資本主義からの逃走』
 「景気循環論から離脱させるデザインをめざす」


   


     12月 22nd, 2009  Posted 10:00 AM

循環させるための付加価値

資本主義でほとんど完全防御されていた経済性の循環。
しかし、「循環」には、必ず、異変が起こります。
そのことは、マルクス以後、様々な経済学者によって、
また様々の資本の投機と回収、あるいは資本の貸借など、
その手法論や合理的な運用が論理化されてきました。
私は、「モノづくり」の初期段階で、
デザイン」を投機してきました。
それは「回収」されるべき利益構造が、まったく、
資本論はじめ経済的な論理では説明も解釈も困難でした。
そこで私が見つけたのは、「感覚」で受け止める「価値」、
モノの「存在」でした。
私の資本主義からの離脱はこの発見時から始まったのす。
まず、大きな疑問が常にありました。
「特殊解」と受けとめられる「かたち形態」には、
決して、「価値」、それこそ「付加価値」であろうが、
「全体価値」であろうがその「存在」が意識化されません。

特殊解的な形態

したがって、
そうした「特殊解」的な「かたち」には、
一般的な「価値」すら生まれず、「存在」させた、という
「事実」だけが残りました。
この「事実」だけがデザイナーの「労働対価」だとすれば
デザイナーには、
「景気」というある種の指標は無関係だということです。
この構造が、
とりわけ、日本の企業にとっては好都合だったのです。

景気からの離脱

デザイナーの存在、頭脳的、感覚的、時に芸術的労働者は
「付加価値を創出」する職能集団に仕立て上げることが、
最も容易に組織化することができました。
だから、デザインを「付加価値」と言い切ったのです。
その「付加価値」は、「欲望を刺激」して、
「欲しい」、「買いたい」、という、
流行ファッション・風俗・サブカルチュアに、
仕立て上げました。
私は、この一見、
文化へと交代させたかのような「循環」と「代謝」から、
私のデザインを離脱させることで、
「景気」とは無縁の「モノづくり」のデザイン職能を
めざしてきたと思っています。


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『資本主義からの逃走』
  「理想主義の破綻、芸術家の憤りは哀しく自死なのか」


   


     11月 5th, 2009  Posted 11:36 PM

革命の指導者達がカリスマ性をもち、
英雄性をたたえられると、
歴史的には、必ずと言っていいほど、
指導者達の中に、さらに、
スターが求められるようになります。
結局、革命の「理想主義」は、
権力闘争となり、
純粋な理想主義の芸術家は、革命家には目障りな存在です。

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ウラジミール・レーニン
10月革命時の演説には、カリスマ性があった。

ロシア革命も同じ展開を見せるのです。
しかし、ロシア・アバンギャルドの芸術家は
あくまでも「理想主義」を追い求めました。
なぜなら、
芸術=デザインの表現は、
理想主義を離れれば、
即、それは表現の美は、伝わることは無いと
彼らは確信していたからでした。
私はそうだったと信じています。
だから、
「我々に、新しい形態を!
号泣が聞こえてくる」と、
マヤコフスキーは自死して逝ったのです。

私は、デザインという職能が、
資本主義という、あたかも理想主義
よりそった「造形形態の表現」であったかも知れないが、
私も、デザイナーという職能家として、
いつも、
「新しい形態を!」と
叫び続けてきた気がしてならないのです。

たとえば、秀吉に対して、
千利休が自死を求められたとき、
利休も、次のように叫びました。
「力囲希咄」と!
これこそ、
芸術表現者、あるいはデザイナーの
理想主義」の破綻に対する、
憤りであり、美学の叫びだと
私は思い続けているのです。

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「茶美会」裏千家への茶杓
力囲希咄
Kazuo Kawasaki Design


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『資本主義からの逃走』
 「イデオロギーの吟味、構造と機能から・・・」


   


     10月 14th, 2009  Posted 2:58 PM

イデオロギーは、
「形態」概念と「機能」装置だったことは
まちがいありません。
しかし現在、「イデオロギー」自体が消滅しています。
あらためて、この認識が時代感覚になっているようです。

それは、「資本主義・対・共産主義」の対比や対決で、
それぞれの背景、
つまりイデオロギーの形式と内容の構成での論理でした。
この構成は、歴史的に蓄積されてきた構造と機能です。
そこでその構造と機能から見直すことが
私は必要だと考えています。
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イデオロギーという17世紀末から18世紀を経て
その観念論や感覚論という知恵は人類にとって、
かけがいのないものでした。
それを吟味する義務があると私は感じています。
エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(w)に戻ってみる、
その必要があるとすら感じているのです。
再度イデオロギーの「構造と機能」には、
私たちが「観念論や感覚論」に何を委ねてきたのかです。
そこから、
あらたな地平、
あらたなタブラ・ラサ(白紙状態)へ
何を書き込んでいくべきかということでしょう。
私はデザイナーという立場では、
まず、論理の構造には「概念形態」があり、
感覚的な機能が「意識装置」になっていると分析しています。
したがって、あらたなイデオロギーの是非論を加えることで、
初めて、「資本主義・民主主義」の革新化、
あるいはイデオロギー自体や超・イデオロギーの創出、
そのデザインが可能になると判断しています。
それこそデザイナーの職能に直結しているはずです。


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