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Posts Tagged ‘大勘違い’


『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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11月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 30th, 2015  Posted 12:00 AM

11月30日 仏滅(庚戌)

日本のデザインを国際化、
その役割を
大勘違いしたどころか、
個人的な利用と、
その役割を私物化した存在は
必ず、その実態を明らかにする。

川崎和男「喧嘩道」


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『何がデザイン思考かは終わったのだ』


   


     10月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

デザインはエンブレム問題・盗作問題・Gマーク問題で
一般的な不信を背負ってしまいました。
これは未だにデザイン=問題解決の手法というより、
デコレーション・装飾性や付加価値性が強いからです。
一方では、「デザイン思考」これなどはスタンフォード大学からの
借り物に過ぎませんが、私はユニバーサルデザインを
米国から持ち込み、その定義を政府に提示した一人です。
しかし、ユニバーサルデザインも誤解され、
ヒューマンファクターデザイン:HFD、UXデザイン、
インクルーシブデザインなどの大勘違いを指摘しました。
そうして「デザイン思考」に行き着いたわけですが、
この借り物を「コンシリエンスデザイン」にしました。
根本は、March 11.2011東日本大震災から、
気候異変・感染症増大に対してのデザイン実務背景を整理しました。
これは文科系+理科系をさらに学術+芸術にして、
信頼学・価値学・保健学・防衛学を加えることで
安全・安心・防災・防犯へ。
デザインを危機=危険時を機会として
解決を図るデザイン実務文理学際学にすることが可能になります。
危機解決では、リスク:起こるであろう危険だけではなくて、
クライシス:起こってしまった危険との、両方の危険回避と解決を、
デザイン実務に向けるという論理的な図解も、
学術と芸術の学際はデザインに集約するという段階に至りました。
実際は大阪大学大学院の医学系研究科にこの寄附講座を設置して
後期からは私が授業をやり、社会的には「KK塾」を
霞ヶ関にある大阪大学の分校的な場所で講座を開設します。
講師は、私がすべてのとりまとめをしますが、
選び抜いた講師陣を配置することになっています。
「KK塾」は、以前は大阪で実施してきましたが、
どうしても東京でという
この要請が強いことや講師陣を東京にも拡大することができます。
「デザイン思考」が例えば、医工連携+デザインになってきましたが、
私が看医工学という、保健学がきわめて真の人間学、
それは環境化(人工:ロボットや情報と自然との調和ではない)に
最適であることをこの図解では、明確になっていると考えます。
当然にPKD=Peace-Keeping Designと「完全無菌」対「抗体保健」を
なんとしても3.11復興と気候異変+感染症防止に向ける開発は
年内には、「デジタルアッサンブラージュ」としての
機器装置からロボティックス情報環境づくりで
これがデザインであるという、
デザインと何らかの発想を大転換できると考えています。


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『資本主義からの逃走』
    「アレオパジェシカから遊離した表現の自由」


   


     12月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

アレオパジェシカ・表現の自由
「アレオパジェシカ」から見直します。
1644年に英国の詩人のパンフレットでした。
詩人・ミルトンのこの指摘は現代にまで
「人権」を語る重大な発言として世界基準で支えてきました。
それはある種当時の権力=検閲への怒りそのまま「表現の自由」を激しく求めたことでした。
「表現の自由」というのは、まさしく「人権」の具現です。
しかし時に、私はなんでもかんでも、特に偏重したマスコミがこの「権利」を振りかざされると、
何ともイヤな気分におそわれます。
何かというと「表現の自由」となるわけですが、
私は、この「表現の自由」には表現する側に尽くすべき義務があると思います。
それは、人間の営為である「表現する」という権利は自然権ですが、
その自由さは当然として社会的な倫理観に照合された美学性が必要だと思っています。
アレオパゴス・倫理観
ミルトンは、ピューリタン革命時に絶対王政によって検閲されることへの怒りを、
古代アテナイに存在していた裁判所・アレオパゴスから名辞されていると言われています。
つまり、この裁判所での決定事項には、
当然のこととして人間としての倫理観が徹底されていました。
それだけに「表現」は人間の自由権利だから、
すべてが許されているという、特に、マスコミの偏重思想団体や、
宗教法人として納税もしないようなところからの表現発言には異を唱えたいと考えます。
ミルトンに限らず、ロック、ボルテール、さらにはガリレオまで、
学問的な真理を守ろうとしたことも「表現の自由」につながっています。
キリスト教・反ベクトル
私は、この背景にはキリスト教の根底にある懸念、
すなわち相反する矛盾が見え隠れしていると思えてなりません。
「自由」には「拘束(検閲)」という反ベクトルが働きます。
「平等」には「差別」という反ベクトル、
「愛」には「暴力」が反ベクトルです。
したがって、私も「表現者=デザイナー」ですから、
「デザイン表現は自由」であるべきという基本権は十二分に理解できますが、表現者であるまえに、社会的な存在者としての社会的な義務を十二分に果たしているかが問われるべきでしょう。
「表現」に明らかな拘束性、差別性、そして暴力性が感じ取れることは、
「表現の自由」の大勘違いだと指摘しておきます。


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