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Posts Tagged ‘言語’


「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」


   


     6月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

美術学校には入ったけれど、油絵を描く力もなく、
まして、美術といえば、セザンヌは好きだけど、ピカソはなぜ?、
という私には、「現代美術」?、美術がなぜ表現手法?でした。
その私に「ことば」で、心から美術・建築・音楽までを
最も理解させていただいた人、それは「宮川淳」でした。
もし、世界で最も最高の出版物は、彼の「遺作全集」です。
そして、この著作を読んでも分からないとするなら、
もう一度、自分の知性そのものを疑うべきだと今なら言えます。
だから、私がデザインという世界への道筋は、
彼によって形成されたと確信さえしています。
当然、私の「プラトンのオルゴール」の一人であり、一台です。
私はこの作品には、回る円錐形と赤いLEDとを使いました。
音楽・ビートルズは「MOTHER」でした。
彼は客死しました。
そのニュースを聞いたときに、私の体が沈んでいく感覚でした。
彼自身のデザインに対する一節は、
私には冷徹で空々しさしかありません。
その空々しさを打ち消そうとして生きてきた気がします。
彼の客死を評論した文章はほとんど読んだと思っています。
私は「ことば」の評論が、網膜に映る美術あるいは芸術を
これほど明快にした人物はいなかったとさえ思っています。
私が、敬愛する倉俣史朗氏を評論しようとしたとき、
そのテキストは彼の著作を何度も読み返しました。
私は、自分のデザインの評論は、
必ず彼の網膜が紡ぎ出す「ことば」だったら、
どのように評論されていただろうと思うことにしています。
それは、他のデザイナーの作品・製品・商品、
そしてそのモノが日常生活で位置することも、ことばになります。
だから、形態はまさに「言語」になりうると考えるのです。
おそらく、この抽象的な文章は理解してもらえないでしょう。
それなら、はっきりと言い切れば、
デザイン・建築・美術・音楽などに対する、
あなたの知性の再考を私は求めます。
デザイナーなら、なおのこと、
あなたにデザインの才能などあるわけがありません。


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「三つの革命を促してくれた『光造形』デザイン」


   


     5月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

私は大学人を選んでもう18年目になります。
なんとしても自力でやりたかった事が「光造形」でした。
それ以前に心臓発作で何度か倒れて、
結局、162日間入院して担当医への質問攻めをしました。
流石に担当医は、一般書から専門書を私に貸していただきました。
私は人体が中空な物の集合体だと思ったのです。
「光造形」は大学でそれなりの設備が無ければ不可能でした。
様々なトポロジーの代表形態を想像力で、
当時のEWSと3D-CADでは、とても困難でしたが、
とりわけ、私を惹き付けていたのは心臓でした。
それは私がやがては「心臓障害者認定」までなりましたが、
これは見事に空洞の中に中空なパイプがトポロジー空間でした。
私は、次の三つを次世代の革命と予想して、
講義や講演ではその具体例をグラフィカルに見せていました。
  ● 遺伝子革命・・・iPSが具体例
  ● 光重合革命・・・光造形から3Dプリンターへと進化
  ● 電磁波革命・・・エネルギー(水・食糧・電力)を意図
この三つの予測はほぼ的中していたと思います。
それでも、おそらくデザイナーとしての半分は、
この進化や連鎖を思考し、具体例を「見える形態=言語」へと、
私は様々な概念や理念で希求してきたと思います。
もっとも私はデザイナーですから、
その世間的な信頼性はいつでも、
「デザイナーは外観の造形専門家」とみられてきました。
しかし、美大時代から、
「デザインは造形という手法で問題解決を提示すること」でした。
したがって、
遺伝子革命や電磁波革命は、
私の科学性=知識性を高めてくれましたから、
直接的ではなくとも、
私の「造形手法での問題解釈」を支援してくれました。
そして、「光重合」では光造形システムから、
3Dプリンター、さらにはこれを取り巻く環境までを知りました。
しかも、この三つの革命は、やっと入り口にきたようです。
私が特に3Dプリンター素材に拘っているのは、
「中空」です。
そうした素材が、「危機解決」という、
人間として生存する日常での最適な応答・回答・解答こそ、
この国難・日本の産業に出来ないかとさえ思っています。


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「位相空間で『ドッグボーン空間』という想像力」


   


     5月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

トポロジー=位相空間という訳語に違和感がありました。
米国のRH Bingは、そのトポロジー的な対象を
様々に考え出しました。
彼のビイングズ・ハウスという、
二つの部屋がある家と名付けられた空間の家があります。
これは図で見ていても、その証拠立ては難しいと感じました。
この感覚に、いわゆる漫画的には、ドッグボーンがあります。
これは空間に穴が空いていますが、その穴のある空間の内部に、
さらに、ランダムなパイプがあるわけです。
そこで、これを「光造形」出来ないだろうか、
ということを名古屋市立大学時代に、
当時のEWSで試みました。
しかし、この形態が出来たのはたった一人でした。
あくまでも、RH Bingのトポロジー思考対象でしたが、
「ドッグボーン」という印象がまったく無くて、
それなら、まさに漫画に登場する形態にしたいという想い、
その想いをかなえるには、本当に、まず空間があるべきです。
それなら、「光造形の途中で、水を入れる」という無茶です。
そして、その水の中にパイプがあるわけです。
これが出来たのもたった一人しかいませんでした。
この二人が苦労したのは、
当時すでにEWSでは、
あるソリッドな空間を支えるサポートまで出来てしまうのです。
そこで、この二つのモデルも、
中空の中のパイプはソリッドです。
正直、このパイプ内を空洞にすることは出来ていません。
しかも、位相空間の「ドッグボーン空間」ですから、
デザイン的には、空間の中にある形態・言語・空間が造形。
私のイメージは、そこから「トポロジー」的な思考を空間に、
あるいは言語にしていく装置として、
空洞に穴があっても、その空洞にまた空洞のパイプが出来れば、
そんな想いが今、3Dプリンターの素材そのものに、
新たな期待があるのです。
それが「出来れば」!・・・
コレが可能になると想像しているのです。


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「基本はトポロジーの形態が出来るかだった」


   


     4月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システムでこれが可能だろうか、
という私の直観は、フィラデルフィア大学の
Eminent Scholarと呼ばれていた元医学部の名誉教授たちの質問でした。
確かに、トポロジー、日本では「位相空間」という数学思考の形態でした。
私はトポロジーを位相空間と翻訳する大間違いに気づきました。
以後、私は空間は元来、形態であり言語だと考えてきました。
つまり、
  ・点には形が無い
  ・線には太さが無い
  ・面には厚さが無い
これらが数学的な想像力で、
場の近傍性=トポロジーということになりました。
ところが、
あるアーティスト(「点・線・面」の著者/カンディンスキー)が、
「点とは必ずこれは正方形になるといづれ理解される」。
この予測に心を惹かれました。
  ・点はピクセルを単位とする
  ・線はピクセル設定で太さが出来る
  ・面は、そうした線の太さで厚さが生まれる
このことを、当時のIDEAS(3D-CAD)でSLAデータにしましたが、
「クラインボトル」には厚みがあっても、サポーター設定が困難でした。
しかし、サポーター設計が光造形の決め手になることで、
確実に厚さがある「クラインボトル」=擬似形態が出来ました。
それから光造形形態を「トポロジー空間」と呼ぶことで、
3Dプリンターはサポーター無しで、
いわゆるレイヤー=面を積層することで、
言語→形態→空間設定がいわゆる編み目表現を可能にしました。
したがって、あくまでも見た印象は「クラインボトル」でも、
光造形と3Dプリンターはまったく異なります。
ただし、この編み目そのものが管=パイプになったとき、
それはトポロジーという数学的思考は、
デザイン的思考となり、素材がパイプになれば、
それこそ、トポロジー空間論は完成するでしょう。


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「BMW i8が実現し始めた新たな造形言語と形態言語」


   


     12月 2nd, 2012  Posted 12:02 AM

造形言語と形態言語は、
ソシュールの「一般言語学講義」をテキストにして、
デザインが果たす言語=形態への適応と応用を私は試みています。
そして、私自身が現在、
造形言語と形態言語を製品開発の実例から見いだそうとすると、
正直、造形言語 – 形態言語の構造を持っているモノは、
ほとんど国内メーカーには不在であることが無念でなりません。
「ミッション・インポッシブル」にBMWの車が登場します。
映画ゆえ、それはコンセプト・カーと言ってもいいほど、
まさに「カッコいい車」が登場するわけです。
ところが、この車は2014年に発売されることになってしまいました。
無論、いくつかのスペック・ダウンというか、
アドバンス的なことは実現されないかもしれません。
しかし、このプロモーション・CFを見ていると、
ここまでの車がとうとう世の中に存在する時代になってしまった。
私は感激し、感動してしまいます。
車、それは「移動の手段としてのツール・マシン」でした。
しかし、21世紀を方向付ける情報ツールであり、メディアであり、
しかもこれこそ「電気自動車!」という
言語性を持って登場してきたわけです。
私の「製品記号論」講義の事例・実例として紹介し、
まさに言語=形態を「読み取ってほしい」のです。
たとえば、プロモーションCFですら、一つのドラマであり、
ドライバーの運転、すなわち制御性能は、
「情報操作性能」とそのマン・マシン系はやはり、20世紀に終焉して。
ほら、21世紀は、メディアツールというモードは、
これだけのコードとのインタラクションなんだよ、
とBMWは発明しているのです。
「ミッション・インポッシブル」が、
ひょっとするとあの「007」を超えるストリー性と
登場するガジェットの様々さを超えたかも知れません。
そんな印象があっただけに、
BMW i8 はメディアとしての車であり、
情報処理としての運転性能の技術表現内容を
デザインは造形言語の意図性は見事です。
そして、デザインされたこと、意味されている形態言語には、
21世紀は、電気自動車ゆえ、
「移動手段=目的地に着く」という以上のことを恣意しています。
すなわち、ソシュールにもどれば、造形言語が意味することと、
形態言語が意味していることの「恣意性」を
技術進化をデザインが果たしていることは明白だということです。


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「もう一つの言語を教えていた昔・ロゴレゴのこと」


   


     11月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

1987?1989年頃だったと思います。
その時は、東京から福井にもどり、
「街のデザイン屋さん=イーエクスデザイン」という
会社を起業していました。
そして、すでにMacintoshはスタッフ全員、
一人一台をデザインツールにしていました。
また、その頃は、
MSXというパソコンが子どもたちにも最適なツールになりかけていました。
今、私の作品集を図鑑、年鑑的な出版を準備しています。
そのために、過去の活動内容を調べていたら、
ポスターと写真が出てきました。
ロゴ言語というプログラム言語がありました。
もう過去形でいいでしょうが、
それなりにパソコンプログラムが視覚的にも理解しやすい言語でした。
「タートル」というオブジェクトに指令を出します。
たとえば、前に5歩、右に90度、前にまた5歩、また右に90度、
前に5歩、右に90度、前に5歩、右に90度、
そうすると、一辺5mの正方形をタートルが描くという言語系です。
F5・R90を4回という具合です。
このタートルをレゴブロックで車を造って、
そこに赤外線でプログラム言語を送信すれば、
自動車は、正方形の図形の上を走るというものです。
これは、MITのシーモア・パパート教授の提唱でした。
私は、小学生高学年に福井でこのワークショップをしていました。
パソコンはまず使わせないで、タートル(亀さん)役を一人決めます。
その子はロープを持って、みんなが声をかけます。
「前に五歩、右向け右90度、また・・・・」という具合です。
こうして体を使って、正方形や円や長方形などを教えると、
最終的には、
考える子は「ピタゴラスの定理」までを
ロゴ言語で書けるようになります。
そうして、今度は、レゴブロックで、動くモノを造って、
赤外線を改造したMSXから、そのレゴブロックに発射すれば、
それは描いた図形に動くという仕掛けです。
このポスターと当時、懸命に、
その企画書やレゴブロックや赤外線装置を作成していた私がいました。
私は、そうだ!言語系には、
そのモードもあったことを今ならどう教えるべきかと考えています。
身体化させる言語は、ロゴ言語が唯一なのかもしれません。
そのようなプログラム言語、
あるいは機械語を発明する世代が出てきてほしいものです。


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「言語系は、聞くことと見ること・その相対論」


   


     11月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

新たなモノづくりとは、
「ことば」と「かたち」の相対論上にあると思っています。
したがって、私が現在、
日本の「モノづくり」は、商品産業経済論から開放されるべきと
主張する図式を掲げておきます。
「ことば」は、
「聞く」こと=音声で概念と意味性を了解することが出来ます。
また、一方では、
「かたち」は、
「見る」こと=形象で概念と意味性を認知することが出来ます。
無論、「ことば」を読み、「かたち」を読むというのは、
「読む」という認識への深度を深めていく理解性です。
だから、ことばもかたちも「読める」能力は、
人間としての理解力の程度を決定していることだと考えます。
そこで、私は、90年前にソシュールが「言語学」を構造主義的に、
あるいは記号論的に語ったことはとても重要なことだと考えます。
なぜなら、彼の著作は無く、
彼の講義録「一般言語学講義」を
テキストにすることを一つの方法だと思ってきました。
その結果が、ラング=辞書的言語・パロール=会話的言語を、
そのまま置換して、デザイン言語論として展開してきました。
それが、造形言語と形態言語です。
日本のモノづくりを商品づくりから製品記号論的に転換を求めています。
この主張はきっと私が職能家・デザイナーとして、
最期にたどり着いた
私の「ことば」と「かたち」の相対論だと断言しておきます。
大阪大学での講義をそのままに、
名古屋工大、そして多摩美大でも
今年最終の講義内容にしたいと思っています。
だから、30日には、
元スタッフや教え子たちにも
多摩美大での講義に参集してもらいたいと願っている次第です。
この相対論を決定づける事例は相当に収集しました。
結果、今、日本の企業が新商品として喧伝しているモノが
いかに産業経済を疲弊させているかも明らかです。
それなら、私のデザイン活動はどうなのかも、
自らの未来づくりの事例としてショーアップすることを約束します。


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「2012『日本文具大賞グランプリ』は書くことの再確認」


   


     7月 5th, 2012  Posted 12:25 AM

第23回国際文具・紙製品展=ISOTは盛大でした。
今年度の文具大賞は、ひとつのエポックだったと思います。
私は審査委員長として、次のことを総評として表彰式で述べました。
アナログとデジタルの融合がスマートホンで開始しました。
文具メーカー(作り手)より、ユーザー(使い手)は、
明確に、自分の日常での文房具のアナログ生活と、
スマホやPC、デジタル生活を身体的に、
能力認識として使い分け始めたことです。
それはグランプリが機能部門もデザイン部門も「ノート」。
つまり、結局は「書く」という行為に、
文房=記述・記録・筆記を決定していることでした。
私は、紙と文具において日本はトップだと確信しています。
それだけに、Made in Japanを体現している業界です。
ただ、欧州のブランドメーカーに比べれば、
低価格商品が多すぎると私は常に思ってきました。
しかし、機能部門グランプリ=Premium C.D. NOTEBOOKは高価格で、
シルクのような紙質面と書き味は世界でトップでしょう。
日本だから、日本の紙質だから、という技術言語になっています。
さらに、デザイン部門のデイリー・プランナー“エディット”は、
日常的なメモがスマホゆえに、
あらためて、一日1頁への記述を大切にという製品企画が見事に、
現代的なアナログ性とデジタル性との使い分け、
「書く」という行為ゆえに、
一日をどう生きたかということまでを商品言語にしています。
ともかく、取材マスコミも格段に増加し、
国際展の風格が育ってきました。
まさに「文具は日本がトップ」ということを
会場いっぱいに活気がみなぎっていました。


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11月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 14th, 2010  Posted 11:10 AM

11月14日 赤口(戊辰)

言語道断の世界から解放されながら、
それでも言語の連鎖環の中で、
「同断=言わず」と想いつつ、
かたちで言い尽くしたい!
そこに
デザインの世界があるはずである。

『デザインは言語道断』あとがき


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『資本主義からの逃走』
 「信号と記号は光線上にあるかもしれない」


   


     5月 14th, 2010  Posted 12:01 AM

S/N
アナログ時代、オーディオ評価には、S/N比がありました。
それは「信号=Signal+Noise」だったからです。
1960年ビートルズの登場と、
同時期頃カセットテープが音楽メディアでした。
デザイナー成り立ての頃
カセットデッキのデザインを担当して夢中だったのです。
その当時、技術陣はいつもS/N比の話で大変でした。
そして80年代直前頃、デジタル時代技術へ大転換が始まりました。
デジタル時代が呼び込んだ主軸がコンピュータだったという見方が可能です。
さらに、コンピュータは「記号」、
その一つがアイコンという表現になったということもできるでしょう。
信・記
さて、信号の「信」は人+言語であり、
記号「記」は言語+人(跪いている形象)ですから、
言語を受け止めています。
70年代後半に、「記号論」や「記号学」が提案され始めるのです。
「記号」という言葉が道元の発案言葉説もあります。
これは日本記号学会発足誌初版にそんな論文がありました。
A/D・D/A
私が、この「信号」と「記号」の組み替え技術が、
アナログ(信号)からデジタル(記号)へ=A/D ?
デジタル(記号)からアナログ(信号)へ=D/A ?
これらを、私は、現代性に配置して見ている気がしてなりません。
「気がしてならない」と、いう私の想いを書き残しておきます。
なぜなら、今、信号も記号も、それらは光線上に、
あるいは信号の光、記号の光なるモノがある気がします。
● 信号的な発想ができるだろうか、
● 記号的な発想ができるだろうか、
このところ、私に与えられているデザインテーマを熟考するとき、
この二つを交互に、相互に、対決させている気がしてなりません。
「信号」と「記号」が「光」になっている。
そんな「あかり」に包まれて考えている自分が居ると思っています。


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