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Posts Tagged ‘終焉’


『セルロース素材によるわが国の基幹産業化』


   


     3月 5th, 2017  Posted 12:00 AM

時間はかかってきましたがようやく着地点が見えてきました。
ちょうど、3.11東日本大震災の前に、
この素材は今後わが国のしかも国内で素材が賄えるということでした。
セルロースであり、それは自然素材の樹木・絹・麻から、
落ち葉、間伐材、古紙・紙粉を、
セルロースパウダーにすることでした。
今やまだ日本はブリスターパック=プラスチックで、
これさえ産業化は遅れていますが、欧米は全て紙素材パッケージです。
既に広島土砂災害、御嶽山爆発でセルロースパウダーは確実に運用可能。
現在は、セルロース素材利用によって、除染も、土砂災害も、
実験結果を積み上げてきましたので、いづれ東北現地に入ります。
私の直感では、除染だけではなくて土壌改良や「パリ協定」にわが国の
デザインだからこそ、それも「基幹産業化」とリスクキャピタルから、
ベンチャーキャピタルの戦略から戦術までが可能になると予測しています。
それが「コンシリエンスデザイン」であり、
パラリンピックでの「看医工学」は確実に「老年医療」にも繋がります。
今わが国最大の問題は、それこそ私が出身してきた「東芝」の企業崩壊は、
明らかに「サラリーマン企業の終焉」になるでしょう。
そこにセルロース戦略とカーボン戦術をデザインから提示していくことです。
ところが、「パリ協定」の無視宣言を米国の大統領からの反対宣言など、
おそらく、グローバリズムの改変は起こるでしょう。
それだけに、改めての地球存続性は、
先般の恒星に7つの惑星発見、月に在るヘリウム3など、
希望は見えています。
ともかく2050年まで(生きていないでしょうが)のデザイン、
その目標と目的でのデザイン成果の「美学」は置き土産にするつもりです。

* 『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!』
* 「『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語」
* 「デザイン成果としての『かたち論』は生涯論考するだろう」
* 『「森羅万象悉く神なり」は樹木と二酸化炭素の関係』
* 『除染されていない間伐材へのデザイン開発』


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『「モノづくり」国家観を再度、商品分類で把握すべき』


   


     11月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

日本は絶対に「モノづくり」の国家観を
忘れてはならないのです。
おそらくIT産業での金融工学的な手法では、
1000社のベンチャー企業は30年後には2.8社しか残りません。
特にベンチャー企業はいわゆる企業合併(乗っ取り)で
企業資産を増加させていく時代は終焉しました。
「モノづくり」国家観をPPM よって、企業の利益を
明確にしているメーカーは見たことがありません。
自分はStar商品・Cash Cow商品・Problem Child・Dogということを
視覚的な分類をしていくと、たとえば何故、伝統工芸産業や
地場産業が低迷していくかを図解的にメーカー=製造業での
商品分類が明確になります。
伝統工芸にしろ、地場産業でもStar商品は皆無と言って良いでしょう。
そこで、Problem Child商品内の吟味によって、
ここにStar商品をデザイン、それも付加価値ではなくて、
全体価値で産出することで、これは金のなる木商品にすることが、
絶対に可能になる論理をまず掲げ、価値創出による商品戦略を
もう一度、日本の「モノづくり」を、生まれ成すべきと考えています。
かって鉄鉱石を輸入し、その加工に付加価値を込めれば、
それが日本の基幹産業になるけれど、デザインは全体価値ということを
自分は40数年間主張してきました。
衰退していく伝統工芸産業も地場産業も、もう一度、
デザイン=価値創出をStar商品によって産出すべきだということを
自分のデザイン戦略にしたいと、具体例を産業創成化していく覚悟です。
「KK適塾」では、この具体例を見せることを考えています。
デザインは決して「机上の論理」ではなく、付加価値でもありません。

* 「危機解決産業の創成は3D-PRINTING中核重要拠点として活動」
* 『次世代デザイナーへの手本になりたい事例を発表予定』
* 「ブランドは付加価値ではないということ」
* 『ようやく出版されたDEO=デザイナーのあるべき職能観』
* 『愛着と愛用がデザインの全体価値である』

 


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『イスと空間、空間の質量を自在化するデザイン』


   


     9月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

イスや壁掛け時計一つで、
建築空間は一辺に空間の質を変えてしまいます。
さらに音響で空間の質量を自在に変更することが可能です。
工業デザイナーは、空間を建築家よりモノで自在に出来る職能です。
自分もいくつかのイスを自分デザインしてきましたが、
まだ、とても代表作にはなりませんから、大きなテーマです。
現在新素材で、これを乗り越えたい、というモノデザインをしています。
かつて、名古屋市立大学芸術工学部の新設時に、
「イス達」を集めようとなり、とんでもない費用要求にはさすがに、
名古屋市に駄目出しされました。それでも歴史的なイスは多少あります。
このスーパーレッジェーラは、シェーカー教徒のイスの影響があります。
軽量さ抜群なれど、イス性能での無謀さがありますが、
イス効能としては歴史的な名作になっています。
だから、イス機能の判断は難しいところだと思っていますが、
イスデザインは、一つのテキストであり、イスのコンテクストはあります。
名古屋時代に買い求め、シートが壊れて修理は待ちぼうけでしたが、
生き返りました。
すでに人間工学からのイス設計は終焉し、シーティングエンジニアリングが
これからのイス設計、イスデザインに進化すると判断しています。
「ジェネリックプロダクト」は駄目、まして盗作などはデザイン倫理を破壊、
これは俄然、許せません。

* 『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
* 『モダンデザイン源流を自分デザインにしてはならない!』
* 『ジェネリックプロダクトの盗用悪用が始まっている』
* 『「時計」はデザイン対象、デザイン力量が試されている』
* 『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』


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『サラウンド形式ゆえに3.3chと呼びます』


   


     8月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

この方式がいいかどうかは正直不明ですが、
4K液晶TVのスピーカーシステムとWifiによるコードレス化で
音場をつくりました。
そして、3.3chというサラウンド環境です。
なぜ、というと、全面のセンタースピーカーにはウーハーがあります。
そして背面の左右にも、それぞれがウーハーを持っているからです。
ワイフはこの部屋にあった7.1chを構成するスピーカが4つになったことは
OKでしたが、センタースピーカにしていたJBLのそれなりのモノが不要には
驚きと無駄な出費とか言われてしまいましたが、
やむをえないことです。3.3chのサラウンド方式は気にいったようです。
ともかくWiFi空間ゆえに、スピーカーコードが無くなったことこそ、
これが技術の大進化だと思います。
そういえば、いわゆるオーディオビジュアル環境は、
これまで随分と変えてきたことは確かなかことですが、
なんといっても、映画とコンサートでの音場は絶対に良くなければ、
というこれが自分の音響へのこだわりでした。
実際このスピーカーシステムのコードもそれなりの選び抜いたモノでした。
サラウンド形式は7.1chとの差はありそうですが、
音場的な環境としては、これが正解かもしれません。
自分の想像では、全面と背面で、2.2chでも可能かもしれません。
つまり全面と背面にウーハーを2台、そして前面に1台、背面に1台で
4つのスピーカシステムがいいのではと思うのです。
部屋から持ち出したスピーカーシステムはLINNとJBL、
そしてドイツのエンジニアによって調整されたDENONでした。
これらの中心にあるアンプ性能こそ、再設計の必要があるのでは、
これが今の自分の思いであり、国内外、どこに行こうとInternet経由を
今は一番に考えています。
おそらく、これまでのTVキー局のTV放映の時代は終焉するでしょう。
その時、適うならサラウンド形式のスピーカーは1台になるでしょう。

* 『TV映像と音響のHi-FiとWi-Fi化はこれからだ』
* 『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』
* 『Beogram9000でアナログ感を鍛え直すべきか』
* 『7.1chTVのセンタースピーカーはこれからエージング』
* 「わが家PCオーディオのセンターは、まず音像」


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『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


   


     8月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

哲学というと「機械について記せ」ということが浮かびます。
それは美大時代に哲学という一般教養の試験問題だったからです。
その正解が何であったかということよりも、
次に思い浮かぶのは「独身者たちの機械」とか、
それを題材にした大ガラス作品を芸術の一ジャンルというより、
芸術とは何か?を聞くよりも「何が芸術か」という接し方を教えられた作品。
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という理解困難さです。
大ガラスは二分され、上部は花嫁であり下部は独身者たちの機械という対比。
これはコラージュより明らかにアッサンブラージュという形式でした。
少なからず花嫁と独身者は女と男であり、社会構造での人間の欲望装置。
花嫁と独身者たちの機械を結びつけているのはチョコレートです。
あたかも、女性が男性への恋の手続きとしてチョコレートは
独身者である男達のチョコレート粉砕の機械になっていることです。
自分は「デジタルアッサンブラージュ」を提案しています。
その根幹には、
これまでの芸術が幾たびも才能あるアーティストによって、
芸術作品は社会構造への訴訟を繰り返す表現で裏切りを重ねたことでした。
そして最も重要なことは、これまでのアーティストは、
まったく「デジタル」、まさにデジタル文明を知らなかったことです。
しかし数学者たちが気づく以前に点は限りなく正方形に近づいているとか、
色の多様性はアナログ的な理解よりもデジタル的な解釈が先行していたこと。
おそらく、デザインとアートの差異性から、
デジタル的な大ガラスの実体は自分にとっては、液晶画面に映し出されて
しかも動いているというデジタル性を語り切る必要性があるのです。
その表現性には主観性を残すことはあり得ないのでしょう。
デジタル機械としてマルセルデュシャンが、レディメイドを残し、
アッサンブラージュを残したこの大ヒントを引き継ぐことで、
「デザインとは何か」が終焉し、
「何がデザインとなるか」というデザイン解答を用意したということです。

* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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『「くまモン」参加のワッペンでレジリエンスデザイン』


   


     8月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

先般、東京で誤報が流れました。
誤報であっても、日本人には必要なことだと思わざるをえません。
案の常、我々には「熊本大震災」はまだまだ連続していますが、
報道が無いと終焉したような錯覚が起こってしまいます。
現地では九州大学、そして現場熊本の崇城大学が
「レジリエンスデザインチーム」として、地道な活動をしてくれています。
バックアップできることは本当にささやかなことですが、
「レジリエンスデザイン」という領域がやることは、
これまでの「強靱化」というよりは、はるかに次世代、そして、
日本ならではの大切な提案・提唱になっているもとの考えます。
三つのワッペンを最初にデザインして、ようやく熊本県の認定で
目星のシンボル「くまモン」マークも使用可能になりました。
レジリエンスデザインチームの建築系ではコンペ企画も実施されるでしょう。
阪大の私の研究室でも明確な製品開発と商品化をねらってます。
ようやく、たかがワッペンかもしれませんが、
デザイン力の具体的な実務がワッペン一つの裏側には一杯潜んでいます。
今「全瓦連」がほとんどボランティアで修復に入っています。
このところ、日本では連続した地震が頻発します。
それだけに、3.11も熊本も明らかに、
日本民族の「知恵」=Silienceにするべきです。
次世代デザインではレジリエンスデザインとコンシリエンスデザインが
切っても切れない密接な関係にあることはこのチームにテーマが出るかぎり、
デザインの拡大、デザインの実務性は明確になります。
もはやユニバーサルデザインでは解決不足は明らかです。
それこそ、人間工学の一分野が「シーティングエンジニアリング」のごとく、
知識、学識、の大変革が起こっていると言って構わないでしょう。
「学際化」なんて誤魔化しだと言い放った無能さにはあきれるだけです。
レジリエンスを明確化するコンシリエンスデザインは
すでに本格的な実務としての次世代デザインに、
たったワッペンデザイン1枚で表現されているのです。

* 『熊本の草木鳥がレジリエンスのシンボルになる』
* 『公・自・単・情・安・省・空を暗記せよ』
* 『レジリエンスデザインチームだから屋根材・瓦を新開発』
* 『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』
* 『熊本大震災への新たな瓦屋根材のデザイン開発』


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『HUSATとInternet of Medical Thingsのデザイン言語 』


   


     7月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

美大時代からの盟友・光野有次氏はデザイン対象でも同志です。
彼の唱える「シーティングエンジニアリング」は、
人間工学を超えて、これこそわが国にやっと登場してきた
HUSAT= Human Sciences and Advanced Technologyの
主要なデザイン工学。
自分は車イス生活者として、
体型が変形してきたことを全て見せて、
彼からの大きな支援を受けられることはとても幸運です。
正直、学生時代から人間工学には不信感をもってきただけに、
今回は自分がモデルケースとなって、これを体系化していけるはずです。
人間工学の統計的な平均値からの設計論には大きな偏りがありました。
自分の経験では、まずヘッドホンのデザイン設計からその疑問があり、
メガネフレームのデザイン設計では
幸いにして眼球を解剖出来る立場だったため再確認出来ました。
車イス設計では自分なりのHUSATでデザインを実務実現しました。
しかも体型の変形・高齢化ですっかり自分がモデルになることが可能です。
彼自身も車イス設計から海外製販売会社の日本支店長経験もあり、
現在の特に電動タイプには大きな違和感を持っています。
ユニバーサルデザインを最初に国内に持ち込み、結局、
ユニバーサルデザインはHCD=Human Centered Designに変更しました。
これこそ、HUSAT+HCDをConsilience Designへと、
自分自身の車イスで実験して実務化できます。
まさに造形言語としての「シーティングエンジニアリング」は、
形態言語としてのHUSATされたデザイン内容と効果が生まれると考えます。
しかしながら、すでにデザイン工学としての人間工学は終焉していることを
強く訴求していかなければなりません。
IoTがInternet of Medical Things=IoMeTの骨幹に、
「シーティングエンジニアリング」が成立することは間違いないでしょう。

*『ユニバーサルデザインの原意』
*『座姿勢の複合制御性能とその機能化からのIoMeT』
*『「コンシリエンスデザイン」名詞格を接頭語にした新概念』
*『ヘッドホンにはヘッドホンアンプ必要なり』
*『ヘッドホン選別の私のポイント提案です』


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『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』


   


     7月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

車イス生活を余儀なくされて来年は40年になります。
本当に正直よく生きながらえているものです。
すでに私の体型は変形が来ていて、
しかも今ではすっかり電動車イスを使用していますが、
自分にはとても幸運なことがあります。
美大時代同級生に、「シーティングエンジニアリング」を
打ち立ててきた親友がいるのです。
以前から、「体の変形を指摘して、俺が直す」と言ってくれていました。
彼はすでに身障者向けの様々な開発をしてきた日本ではトップクラスです。
彼を阪大の自分の研究室の特別研究員になってもらっています。
おそらくわが国では最初に
「身障者向けの家具から用品の開発」をしてきた男です。
彼に計測とシートの作成を頼みました。そして使い心地を確認して、
再度、また体型の変形を矯正する
「シーティングエンジニアリング」を適用してもらっています。
「シーティングエンジニアリング」はこれまでの人間工学を進化させている
新しいデザイン医工学のHUSATになろうとしています。
おそらくHUSATを知る工業デザイナーは
まだほとんど国内にはいないでしょう。
HUSAT=Human Sciences and Advanced Technologyです。
今、彼:光野有次と自分が組めば、最も強力で新たなHUSATとして
車イスは勿論、椅子そのものの設計を革新することができるでしょう。
何と言っても、自分が使用者のモデルになれること、
彼も自分も美大では徹底的に
モノづくりのトレーニングを体で覚えてきたこと。
ユニバーサルデザインは、自分が米国から持ち込んできましたが、
最早その時代は終焉していて、人間工学も不可能なことを
HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」を
「コンシリエンスデザイン看医工学」に配置したいと考えています。

*『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』
*『車いすのレジリエンスとノルアドレナリン』
*『少数派のためのデザインから・再度、再検証』
*『公・自・単・情・安・省・空を暗記せよ』
*『インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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『女衒同族と羽織ゴロたる民法TVも国会も同罪である』


   


     1月 23rd, 2016  Posted 1:30 AM

敗戦後、米国がわが国に押しつけたのは「新憲法」でした。
その実現=民主主義(資本主義経済社会の大衆養成)具現のために、
用間=諜報の具が用いられました。
この記述が明言される時期が、
僕は到来してきたものと考えざるを得ません。
それには冷静な判断と3.11によって破壊されてなお、
全く正当さと釈然としない日本社会があります。
特に大誤解されている民法TVと、
その労働者であるタレントと呼ばれる芸能人、
その支配がまさに用間でしか無かったことを忘れ
なおかつ同族経営化での事務所と称した芸者置屋と
女衒同族の存在を僕は嫌悪するからです。
しかも、未だに民主主義のジャーナリズムを
構築できない民放TV局への怒りが僕にはあります。
SMAP=Sports Music Assemble Peopleというのは
とても上手い名辞です。
私なりにこの芸能人=タレント集団は、
S:スポーツ・M:音楽・S:アート趣味・P:演劇に
とても秀でたテレビ男芸者達でありそれぞれに優れた才能がありました。
しかし、用間の手立てでしか無かった彼らの労働成果は、
見事彼らの収入であるとともに、大衆への夢売りを成し遂げました。
よって、彼らが女衒同族からのパワーハラスメントは、
SNSはすでに終焉し始めているエセ・ジャーナリズムTV放映とともに
強烈に非難し、TVと週刊誌での経済効果の分配の構図は成功させました。
しかし、敗戦直後から配置されてきた芸能による労働意欲の洗脳継続は、
やがて大きな崩壊を迎えることを明確化しました。
SMAPの正当性=真摯に彼らの役割を果たすことと
彼らの労働条件への抵抗は全て葬られたのです。
国会で彼らの話題が至極真面目に取り上げられましたが、
これによって、
僕たちが政権から放置されている事態を知る人々が居るのです。
SMAPが女衒と現代の羽織ゴロと化した破滅間近の民法TV局は、
SNSで武装されている現代社会構造には無知過ぎます。
現政権も、本来、議論を徹底すべきは、
違法公然としたスキーツアーバス事故を
せめてSMAP同等なる国会議論を放映すべきでした。
そのバス事故で、15名もの社会構成を成し遂げる能力を
国会議題からも外していたのです。
無知なるTVジャージャリズムには期待もしていませんが、
国会こそ、超党派での議論を積み上げる術としての用間を
再考すべきだったことを書き残します。


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