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Posts Tagged ‘デザイナー’


『紙墨相発・電子ペンとノートとのインターラクション』


   


     5月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

電子ペンとそのノートがどの程度使えるかを試しました。
正直、これまでやっと日本製が一つの手法を実現していたことを
見事に抜いていました。
電子ペンがねらってきたことは、録音もできるということと
それが、iPhoneやiPadでの線描との相性=即効的な反応でした。
これはノートにペンを走らせれば、画面にはほぼ同時に写ります。
その時にLivescribeのペンで話せば録音も同時だということです。
また画面上のスケッチや文字は色をレイヤーなど不要で、
選択した範囲は自由に色変えが可能になっていることです。
もっとも、ペンはペンデザインの経験や筆記具を知らないので、
あたかもこれが使いやすいという安易な形態になっていることです。
この傾向はすぐに分かります。
かつて、デザイナーが最適と言っていたペン形状やクリップは
すぐに見破られてしまうものです。
このことは筆記具や万年筆の知識が相当に要求されているということです。
鉛筆が必ずしも良いわけではありませんし、鉛筆でも限定されています。
とりあえず、スケッチの基本形体である立方体と円柱を描けば、
一遍にペンと紙とのタッチ性=紙墨相発、書の基本が感覚的に明白です。
スケッチ描写の基本である自由曲線は、デザインストロークとクロッキーを
電子ペンとノートとの紙墨相発はトレーニングが必要です。
多分、3ヶ月程度で「思い道理」になるでしょう。
それはまさにデジタルながら「手」で発想できるはずです。

*『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』
*『AppleStore銀座イベントを終えて』
*『工業デザイン教育での「手」のトレーニング』
*『描くこと=その神髄を決定づけているペンと紙』
*「プロとして元気の素は鉛筆への作法」


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5月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 5th, 2016  Posted 12:00 AM

5月5日 先勝(丁亥)

スケッチで描く、
それがデザイナーの発想法です。
それは「手」が頭脳という
デザイン教育に要です。

言葉ではなく、手で
スケッチ=形態を描けば
発想になるということです。

川崎和男の発想表現手法


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5月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

5月4日 赤口(丙戌)

発想は言葉によるのが
ほとんど、その大半だ。
しかし、
デザイナーである私には
「描くこと」
見て、観て、
「手」が動く、
つまり「スケッチ」が
発想の大手段だと力説したい。

川崎和男の発想表現手法


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『存分なデザイナー能力が性能・効能・機能を編集表現』


   


     4月 30th, 2016  Posted 12:00 AM

編集者としてのデザイン、デザイナーとしての編集、
あるいは、デザイナーという編集者には
いわゆる
写真・イラスト・グラフィック・タイポグラフィ・レイアウトという
あらゆる表現手法が、デザイン発想を支援する性能があります。
これは小誌の性能を感性刺激としてくれるもう一つのデザイン能力です。
その代表誌は、いわゆる一般的なデザイン誌ではありません。
つまり、表現者がデザイナーであるという効能性を担保している小誌です。
これは著名であるデザイナーN氏の才能が可能にしている
デザイン戦略です。
したがってN氏と自分との年齢差は丁度10年という大先輩ゆえに、
これからの10年を指示してもらうと同時に
やはりデザイナーになるためのトレーニング時代はほとんど同一でした。
とてつもない厳しさに耐えてこそ、デザイン能力が鍛えられてきました。
この同一な体験があるからこそ
この小誌が訴求している全てを受容できます。
デザイン表現がデザインの性能をしつらえ、
デザイン効果がデザインの効能を仕組んでいることを知ってこそ、
初めてデザインが常に機能性で語られる一般性を拒否出来ます。
これからの自分の10年、その大きなヒントを得ています。
編集者でありデザイナーであるからこそ仕上がっている小誌には
デザインの性能と効能があるからこそ、
デザインと機能の関係が明白です。

*『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』
*『ようやく出版されたDEO=デザイナーのあるべき職能観』
*『ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある』
*『誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決』
*『デザインは機能美ではありえない』


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『パトローネが文化を再考察させるデザイン戦略』


   


     4月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

焼酎ブームになって久しいと言って良いでしょう。
なぜ、焼酎が飲酒としてこれほどまでに成長してきたのでしょうか?
自分なりに聞き及んでいることは、二つあります。
まず、阪大が醸造における糀菌を醸造科を廃止し東大に渡し、
東大醸造科の技術進化があったからということ。
と同時に「iichiko」のK名誉教授のデザイン戦略があったということです。
このデザイン戦略は、K氏のグラフィックデザイン展開だけではなくて、
すでに130号発刊された季刊小誌があります。
130号目を見ればデザイナーにこれを読みこなす能力が問われるでしょう。
「日本語言語論の革新へ」という特集記事を見て、
ことさらにこれはデザイナーが立ち向かえるものでしょうかと思います。
しかし、自分が強調したいのは明らかに言語論と対峙できる能力が
デザイン界、デザイナー能力には不可欠だということです。
日本語の文法、述語の世界、一人称の問題としての人物人格は、
すべからく詩的言語性や言文一致性とその時間表現性と関わっています。
結局デザイナーのそのデザインを根底で支える表現への理論・哲学性です。
洋酒であれ、日本酒であれ、とうとうそれが焼酎であれ、
飲酒という文化は現代文明の奈辺で理論・哲学のパトローネが必要です。
このパトローネに方針を与えることこそすでにデザイン戦略なのです。
したがってこのデザインスタジオに、
この小誌の編集室があることはもっともっと知られるべきことです。
デザイナー能力がこうした小誌の読者であることの
重大さを書きとどめます。

*『東京老化と地方消滅にデザイン戦略を』
*『アナログの極致=レコード再生のカートリッジ』
*『C.I.デザインの源流としての思想』
*『ファッション誌で知ってさらに自分ファッション』
*『前頭葉で「ち」と「は」=形と言語が制御されている』


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『客員教授の優れたオンリー教科書があるということ』


   


     4月 28th, 2016  Posted 12:00 AM

デザイン教育は今では二つの目的が出来ています。
それはデザイナーとしての技術習得と、
デザインを教養として学ぶ知識習得です。
私の世代は、知識習得はほとんど独学であり、
先生は入り口の話だけでした。
そのためデザイナー教育オンリーだったと思います。
だから同期はすべてがデザイナーでした。
しかし、最近はデザイナーになること自体が困難、
あるいは教養としてのみ、
そのような学生が増えています。
紹介するのは、ある美術系大学のデザイン系だけに、
デザイン評論家としても高名なS女史が、客員教授として、
自費でここまでの教科書を作成して講義しておられることです。
S女史の、自分の恩師である柳宗理先生について、
講義用に作成された小冊子を見て驚くとともに、
ここまでも準備をとのことでした。
少なからず、この恩師の解説は、まさに柳先生が海外での活動を支援された
彼女自身の体験とともに、間近で見てこられたことや、
彼女の収集品まであって最高のできでした。
惜しむらくは、
この小冊子がその美術大学のデザイン系だけのものということです。
おそらく、この小冊子だけでも一冊のデザイン教科書になります。
そしてもう一つ驚いたことは、
その大学の教員がこの4冊の教科書があることを知らなかったことです。
自分はもはやデザイナー教育は限られていますが、
これほどの準備はしていません。
デザイン系大学が、どれほど詳細な教育をしているかは、
一般大学には知られていませんが、
デザイナー技術習得と知識習得はとても優れているということです。

*『大学でのデザイン教育=デザイナー育成をめざす』
*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『主要3科目こそ受験勉強=回答訓練でしかない受験勉強』
*『デザイナー能力の格差が拡大している』
*『日本のレンダリング技術は先輩が切り開いてくれた』


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『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』


   


     4月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインは表現営為です。
したがってデザインされた表現の形態は言語だと言えます。
そこで、デザイン形態=「デザイン言語」と呼びます。
そのデザイン言語は、意味する意図(intention)を
造形言語=designing language、
意味されている内容(contents)を
形態言語=designed languageと、その二つで成立しています。
そして最近、この言語の背景にある知識や知恵という根幹こそsilience、
いわゆる日常ではほとんど無意識である「知性の核心」だと理解しました。
この無意識である知性こそデザイナーの知的背景だと決定できます。
コンシリエンスデザインこそ、知性の統合されたデザイナー能力であり、
言語表現に込められた意図と内容は、
すでに目論まれていたプライミング効果、
すなわちデザインの効用と効果を成し遂げるものになると断言します。
自分としては、コンシリエンスデザインという位置づけは、
明確にデザイン手法、その論理を言語化して、
その意味論は記号論へと向かわせることが出来たと自負しています。
これまでのデザインはすぐに機能で語られ、
装飾ある形態論に終始していましたが、
ここから明らかに小論的な論理を持って、
記号学に向かってきていると明言します。
さらに、デザイン知性は必ずスケッチでその言語展開が必要です。
それは「手」で描かれた発想表現が
プライミング効果になるということです。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『記号論は脱構築に向かっていった「かたち論」』
*『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』
*『Padスケッチにすっかり馴れ親しんだ!』


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『デザイナー能力の格差が拡大している』


   


     4月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

デザイナーの能力が想像以上に低下しています。
これはデザイナー教育の教員能力が低ければそのまま学生に反映、
デザインコンペも審査委員能力が低いと、受賞は低レベルです。
ところが反対に、熊本の収束が見えない連続する大地震に、
直・現場の崇城大学のデザイン系教員と学生、
九州大学のデザイン系教員(レジリエンスデザインがテーマ)と学生は、
目の前で起こっている被災状況に必死で取り組んでいます。
あるデザイン系大学では「防災もデザイン?」とか、もう呆れかえります。
自分は「コンシリエンスデザイン」を昨年、正式に訴求してきました。
しかし、大企業のデザイン部門では、
「デザイン思考」が社内では理解されているわけではないけれど、
他部門は、企業ビジョンとか、イノベーションがデザイン思考で改善する、
かもという期待感が最もらしくブームになっているとのことです。
とても、造形言語=designing language、
形態言語=designed languageによる、形態デザインと制度デザインが、
デザイン意図・デザイン内容で、その社会的なプライミング効果がある、
このような論理展開はまったく通じないことだと思わざるをえません。
あるデザイン事務所が小冊子130号出版をやり終えていました。
この中身は、それこそ、言語論であり、記号論でした。
素晴らしい小冊子を発行されてきましたが、
この書籍を読了不可能なデザイナーがリスペクトされないのは当然です。
40数年デザイナー、そしてデザイン学者として生きてきて、
果たして、まもなく動物実験結果がわかり、
製品と論文と、そして制度設計が待ち受けている
プライミング効果としての期待をされるデザイナーが育成不足です。
デザイナー教育に大問題があるのでしょう。
デザイナー能力格差が激化しています。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『『007』形態言語を変更した新たな造形言語の失敗事例』
*『『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『特別講義・多摩美術大学『制度設計と形態設計』』


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『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


   


     4月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

おそらく、「コンシリエンス」という新造語を作成した
ウイリアム・ヒューエルは「silience」という言葉を原型に、
con+silience=consilienceとしたのではと辿りつきました。
「silience」というすでに英語でも死語化している意味を探りました。
しかし、これは単なるデザイナーの戯言的な解釈と考えてください。
「silience」には、日常何も考えない、つまり無意識ながら、
あるとき、ハッとするほど重大な、
それこそ隠れていた宝石のようなキー単語に辿り着くことがあるという、
そんな発想の言葉が「silience」だということです。
たとえば、自分の進路がゴミだらけだとしても、
そのゴミの中に、突然キラリと光るダイヤモンドがある、かもしれない
そんな柔軟性をゴミだらけの道筋でも発見できる能力=言葉です。
だから私はデザイナーとして、
18世紀のウイリアム・ヒューエルからエドワード・オズボーンによって、
「知の統合」=コンシリエンスに至ったのなら、
paraとmetaを加えることで、さらにコンシリエンスとレジリエンスを
思考拡大していきたいと考えています。
これはかつて、アルキメデスが「メタ理論」をまとめたことを応用可能?
と考えているからです。
少なからず、レジリエンス=re+silienceとは、
redesignのごとく、silienceの否定ですが、
それこそ、積極的な否定という意味での、ストレスやプレッシャーを
「無意識の知性」で克己するという重大な意味になるからです。
パラシリエンスは、知的前提でのプライミング性があり、
メタシリエンスは、知的拡大を図ってエフェクト性があるということです。

*『芸術で学術は語り切ることができる』
*『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


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『デザイン領域の「統合」による安全・安心・防災・防犯』


   


     4月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

美大でデザイナーの教育を受けた自分にとって、
デザイナーにはデザイン技法の習得が絶対的な身体技命令でした。
社会人デザイナーとしては企業で、その身体技をさらに研磨され、
それ以上にモノづくりの技術と営業を仕込まれました。
やがて、国内外でそれなりのデザイン活動をしてきました。
大学人として、産業美術学科から芸術工学科へ、
デザイナーとして、時代と社会対応は、文理と学術・芸術の統合から
自分のデザイン領域を、大きく4つ生み出しました。
デザイン理工学・デザイン医工学・デザイン文理学、そしてデザイン政経学
幸いにして総合大学ではこの統合化を成し遂げることで、
産業・技術・環境・文化が明確に見えていました。
ところが、March.11 2011の天災と人災は、
さらにデザイン領域での目標と目的を詳細化してくれたのです。
それは、「安全」・「安心」・「防災」・「防犯」でした。
この四つを産業・技術・環境・文化に再配置するには、
文科系+理科系と学術系+芸術系を組み込まなければならないと気づき、
かつて「コンシリエンス」と「レジリエンス」を問いかけたことば、
それこそ「コンシリエンスデザイン」を定義化する必然性ができました。
すでに、美大系・工学系・教育系ではデザイナー養成は困難を知り、
世界や、地球、これからの社会や時代が、
デザイン、デザイナーへと要請する実務が見えてきたのです。
あらためて「コンシリエンスデザイン」が
「安全」・「安心」・「防災」・「防犯」を創出すると確信しています。

*『何がデザイン思考かは終わったのだ』
*『危機解決学としてのコンシリエンスデザイン』
*『自分に何ができるかという死生観』
*『コンシリエンスとレジリエンス』
*『「ふだん」・「まさか」安全と安心は相対的でしかない』


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