kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘闇’


『「造形思考」はイメージの表現=造形への音楽的理論がある』


   


     12月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

デザインを職能にするには、線を学ばなければなりませんでした。
デザインストロークを美大では徹底的に手で覚えさせられました。
それは手が思考するという訓練だということを教わったのです。
その意味がわかってから、デザインを教える基本の論理は、
パウル・クレーが、壮大な記述を残してくれていました。
私は、オーディオからデザイナーになることができた幸運があり、
なぜ、プラトンが形態と音階を明らかにしたのだろう?とか、
いや、バウハウスで教官だったパウル・クレーは、
さらに音楽?で造形を追い求めるとか、
その分節理論で形態を求めていたことに惹かれました。
したがって、私の美大卒業から30年で、
「プラトンのオルゴール展」が、金沢21世紀美術館に収蔵されました。
パウル・クレーの日記から学んだことが膨大にあり、そのために、
彼へのオマージュを造形化し作品にすることができました。
彼から学んだことは、デザイン=造形=見えることから、
今は、如何にデザインで造形から解放されるべきかに至っています。
それこそ、色彩・音楽・音響・造形は根底で、
そのイメージが、混沌とした闇から、見えないことを、
線描という方法論が、「造形思考」と「無限の造形」にありました。
つまり、美大がデザイナー養成をここまでで停止したことが、
今なお温存されていることに、私は次世紀デザインへの反発があり、
造形と機能に押し込められていることへの対決でした。
ちょうど、私は30代を迎えるときに「記号論」に出逢い、
私の脱構築は、デザインされたから視覚化されただけでない、
まさしく制度デザインにまで、来ることができたことでした。
プラトンは、善悪に迷ったなら、美で決定すべきと言いました。
それは、音階のあり方を見いだし、さらに、音楽の分節化を
パウル・クレーは、造形の基礎にしてくれました。
彼の線描・デッサンだけを受け継いでいる現代のデザイン系大学に、
造形思考を講義できる教員はいないのかもしれません。
だから、デザイン職能が劣化していると指摘しておきます。

「手を頭脳化するトレーニング=デザインストローク」

『プラトンのオルゴール』


目次を見る

「光景の中の闇への抵抗」


   


     8月 15th, 2011  Posted 1:24 AM

人にはそれぞれの時間。
いわば賞味期限のように、
生命時間が誰かが決めているようです。
神が決めているらしいようです。
私が28歳で車倚子になったとき、
「君はあと平均で40歳まで」されました。
その医師は医師ではないと思っています。
そんなこと言うか・・・「怒り」いっぱいでした。
こんなドクターには何人か出会ってきました。
本来は医師という天職につくべき人間ではありません。
性根が暗くて医師免許があっても「ヤブ」な医者です。
大学医学部で講義を持つときには、
天職としての医師資格について語る事例にしています。
車倚子生活を告げられた時にも平常心で受け止め、
たかだか車倚子、歩けない、それがどうした、とすら
思えるほど私は冷静でしたが、
40歳までという宣告にはその医師に以後反抗しました。
ところが、気がついたときはすでに40歳になり、
そのときには憧れだった「毎日デザイン賞」を受賞。
以後、すでに22年生き延びています。
親友や級友やその奥様などが逝ってしまいました。
今では父母も叔父叔母、伯父伯母も居なくなりました。
だから、私の周辺でそのような事態が発生すると、
正直うろたえます。
人間の絶対時間を想い知らされます。
ただし絶対時間が「闇」世界につながってはいません。
これは私が絶対時間切れかもしれない三度の体験です。
私が、この世に戻ってくるときは、
必ずベッドの周りから大きな声が聞こえてきました。
医師・看護師のみなさんが声をかけてくれました。
正直もう眠くて、とても快感の中にいる自分、
それなのにその声で起こされると、
嘔吐・寒気・悪寒・発熱・気絶という苦しみがあります。
だから、私はこの世にいる時間そのものが、
本当は「苦しい時間」なのだと思います。
きっと、赤子として生まれ出る時には、
この世に出たくないと思って泣き叫ぶのでしょう。
私は、光景というのは生死の景観であり、
光と影では、必ずしも影世界が「闇」だと思いません。
むしろ、「闇」は、生きている人間が携えている、
とてつもなく抵抗しがたい世界観だと考えています。
まさに、「死に至る病」=絶望=闇なのでしょう。
だから、希望に自分を差し向ける苦しみが、
絶対時間の中で何度でも体験しても、
耐え抜ける力が「希望」だと思っている次第です。

目次を見る

「闇の中・中の闇」


   


     8月 13th, 2011  Posted 11:53 AM

人それぞれに闇があります。
この闇は生来先天的に秘めています。
そして、この闇が性分や性格として、
個性と勘違いされる以前には、
幼少で「悪魔化」します。
人間の成長期に現れる「反抗期」にその片鱗をみます。
正直私は一般的にこの時期の幼児や小児という種類、
その人間風を忌み嫌います。
これも一人っ子ゆえの生理的かつ心理的、
さらに動物的感情だと自己分析ができる老年域です。
となると、こうした闇の中=闇に包まれた人間と、
確約として心の中に闇を抱いている人間存在、
そして、闇など全く無い人物がいることは確かです。
人間と闇の関係は、以上のようにすっきりした範疇に、
決して留まることなくいわゆる「演技」が加わります。
しかも実態は「本心の中核・本心を包囲・疑心させない闇演技」です。
疑心暗鬼が万一私をおそえば、その解明、
特に、闇事であるにもかかわらず、
土足で踏み込んでくる輩には攻撃をするべきです。
今、国難の中、さらに時折また恐怖を与える地震列島にあって、
もっとも「闇の生産」によって、
責務放棄をしているのは政治そのものです。
資本主義社会と民主主義社会にこれほどの「闇」が潜んでいたことを
あらためて私たちは確認しました。
資本主義の具体例では、株主総会でのこんな質問回答が象徴しています。
「今後、この電力会社には夢を持てるのでしょうか?」
回答は単純明快だったそうです。
「夢などあるわけがなくなったことをお伝えしています」。
民主主義社会の具体例では、
「フクシマ原発の復旧には30〜40年は覚悟せねばなりません」。
30~40年寿命なきリーダーの台詞であってはならないのです。
この二つの政治経済的「闇」が私たちを取り囲んでいるから、
私たち自身、この「闇」には、
かえって無頓着になってきているようです。
確実に断言できること、
それは「闇があれば夢は破壊されます」、
そしてもう一方では、「夢があれば闇を消滅できます」。

目次を見る

「一条の光明は創出するもの」


   


     8月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

闇に一条の光明を、
これは私たちが闇にあるときに
必ず願うものです。
しかし、これもレトリックでしかなく、
一条の光明というのは、
創り出すものでしかありません。
それはまさに暗闇に入れば一本の蝋燭が必要です。
すなわち、暗闇に光りを見いだすには、
「蝋燭のような」発光体がツールとして不可欠です。
「蝋燭のような」というレトリックに何が、
その闇を明白にするかということです。
蝋燭は灯りであり、その正体は火です。
したがって、「蝋燭のような」というレトリックの本質、
レトリックではない具体物がツールになりうるでしょう。
「闇」という表現はレトリックではなくて、
メタファーという意味がみえてくる気がしてなりません。
特に未来が闇のごとく不明な場合には、
未来の不明さはレトリックにすることは容易ですが、
メタファー的に「闇」は置き換えること不可能です。
今、日本の未来は「闇」です。
この国難そのものが「闇」であるからには、
少なからず一本の蝋燭のようなツールが必要です。
しかし、これはすでに「ような」ツールではありません。
私が意図していることは、
国難のわが国・日本の未来を「闇」にするわけにはいきません。
今夜もその「闇」への一条の光明=蝋燭のような、
灯り=火となるツールを見つけ出すか、
あるいは発明、創出しなければならないと考えています。
結論は、ツールの創出というデザインに他なりません。
火が文明の基本であったように、
今、未来の日本は再文明化出来るツールの発明、
何を創出するかというデザインです。
デザインは、一条の光明を創出すると確信しています。

目次を見る

「『闇』に統合されている意味要因」


   


     8月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

闇=ψ{音・暗・響・意}。
闇が含んでいる意味性のことばは、
音・暗・響・意を飲み込んでいます。
ψは美度性を表す記号を引用。
闇には音・響が、耳鳴りとしてあるかもしれません。
そして暗=光がありません。
その暗闇で音響の有無も無い空間だとすると、
本来あるべき意味性までが剥ぎ取られています。
ここからは、私の体験、重篤状況と言われていても、
私自身は闇空間に身体があります。
その空間には三度行って帰って来ました。
最初は交通被災で胸椎を圧迫骨折、
胸骨六本内二本が肺に突き刺されて呼吸困難。
一日放置で体力有りとなって手術。
私は闇空間に居ました。
音響無く、遙か彼方に光の輪が見えていました。
次は、越前和紙産地で和紙見本を紙漉していて心臓発作。
気絶していましたが、全く同じ闇空間に浮いていました。
そして敗血症で多臓器不全寸前まで闇空間。
これら三回とも同位相の闇空間には遠方に光の輪。
この輪に吸い込まれていきます。
とても快適で快楽性があるほどですが引き戻されると、
途端に悪寒・嘔吐・高熱が始まります。
この三つの病態が幾たびもサイクルになります。
私はこの闇空間が現世と彼岸の間にあることを実体験しています。
おそらく、これがいわゆる臨死体験なのかもしれませんが、
私は体験しながらも確信も信用もしていません。
むしろ「闇」といわれる空間性の意味に、
音・響・暗・意が包含されていることを確認しています。
まず、闇空間に位相に音響と光の関係を考えることが出来ます。
私はあらためて「闇」の意味の中に自分を配置してみます。
それが、自分を思考停止にする大きな圧力と考えるからです。
思考停止には暗闇・音響・光が介在していると思います。

目次を見る

「見ること聴くこと・支えてくれる物質」


   


     6月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ロドプシン。
専門的な呼称は色々あります。
大学時代に「葉緑素のような物」、
それが最も印象に残っています。
視覚物質と一応呼ぶことにしています。
一般的には、自動車免許の試験問題に、
暗所視反応とか明所視反応とかで、必ず問題になっています。
トンネルに入る、明るいところから暗いところに入る、
そうすると目がその明暗に反応するという、
明暗を視覚細胞がコントロールされている物質です。
これは視覚細胞にどう働いているかということですが、
このロドプシンは、視覚だけではなくて、
聴覚にも影響を及ぼしているのかもしれないと思います。
あくまでも私流の推測ですが、
たとえば、目を閉じてオーディオで音楽を聴くのと、
目を開けたまま、
音を聴くのとでは違いが絶対にあると思っています。
それは、音をさらに精微に聴くというのは、
まさに「音色」という言葉を日本人は持っています。
音が見える、という感覚は、
闇という文字にも表象されているように、
暗いところで、視覚物質の働きは、
音が闇の中で、色付いて「見える」という感覚です。
音が見えるというのは、
ロドプシンが視覚から聴覚にも認識性を与えている、
そんな気がしてなりません。
したがって、明暗のコントロールが、
音色を感じ取る感覚に通底しているのでしょう。
音が「見える」ということには、
視覚物質であるロドプシンが、
聴覚細胞にも繋がっているという私なりの想像力です。

目次を見る

「資本主義からの逃走」
 「『痛み』・・・辛いことはこの世に戻るとき」
  


   


     3月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

人体・生体はポリ袋
ポリ袋に水が詰められています。
そのポリ袋など、針先で簡単に孔が開きます。
孔が開けば、水はそのポリ袋から漏れ出します。
人体というのは、70%が水です。
人体をポリ袋に喩えれば、まさにポリ袋など簡単に破れて、
水が漏れ出すように、命がなくなります。
生命というのはおそらくこのポリ袋の水が漏れ出してすぐに息絶えるという代物でしょう。
この世・あの世の狭間往来
私は3度、この世とあの世、その狭間の暗闇を往復したという個人的な現実、
他人からみれば幻想だと片付けられるでしょう。
3度の体験は、サイクルが決まっています。
まず、失神していますが、これは確実に幻想の中にいます。
動物らしき物がいたりしますが、
現実に引き戻されると、病院の天井や室内環境が見えます。
そしてまた多分失神しているのでしょうが、
闇の中に引き込まれると、遠くに光の神々しい輪が段々と近づいてきます。
そこで、気づくのです。
この道を戻ろうという意識になると、ドクターやナースが大声で呼びかけてくれます。
「眠っては駄目です」、とか・・・
「まだやり残していることあるでしょう」、・・・とか。
そしてとてもまた痛みも無くて心地よくて苦痛は快楽的な気分になります。
するとまた闇の中を・・・・・
これを何度か繰り返して、明らかに現実を体感すると、
まず、強烈な寒気で体が震え出し、次に吐き気、そしてまた高熱で失神です。
この繰り返しが、短くて1週間、長いと2週間です。
この世は辛いという現実
はっきりと言えることは、「この世」に戻るときの苦痛を超えた「辛さ」です。
つまり、「この世」に存在するためには「辛い」コトだらけです。
「あの世」へのプロセスは、光の輪に吸い込まれていく快楽が在るということは確かです。
「かけがえのない大切さ」=『痛み』
現実は辛いことがいっぱいだということを識れば、
『痛み』こそ、自分だけの辛さの確認=現実的な自分存在の確認だということです。
『痛み』を識る、自分の痛みも他人の痛みも「かけがえのない大切さ」、
これがアイデンティフィケーション、哲学者・中村雄二郎先生の定義は、
私自身の「生と死」への往来で納得していることです。


目次を見る

12月11日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 11th, 2009  Posted 1:22 PM

12月11日 仏滅(庚寅)

「音」は、「言」ということばと
明確な違いがあり、
「識」や「闇」に
「音」の形象があるがごとく、
日本のことばや時間と空間の
文化的な根幹を成している。

『プラトンのオルゴール』
「プラトンのオルゴール」からビートルズ


目次を見る