kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘平常心’


『M8.2マクロレンズはまだ使いこなすことが出来ない』


   


     11月 17th, 2017  Posted 11:00 PM

まだ本当に使いこなすことが出来ません。
本当のもうこのカメラだけに向かって、練習をしなければなりません。
M8.2のマクロレンズで、しかも私の体勢、
それは車イス上から撮影するというハンディキャップはかなりあります。
ただ、これまでの私のカメラ遍歴では、美大時代からマクロレンズ仕様と、
ASA400に拘ってきました。
マクロレンズで撮るのは自分デザインの詳細部です。
これまででは自分デザインのメガネ写真は金沢21世紀現代美術館での
個展ではメガネのインスタレーションに使いました。
マクロレンズ撮影は、自分デザインを覗き込むのが大好きです。
何よりも心が落ち着き、なおかつ、デザインそれも造形の至らなさ、
それに最も気づきつつ平常心に戻れることです。
そんなこともあり、ともかく標準レンズでもなく、
しかもファインダーレンズだということですが、
ともかく人前に出せる作品にはとてもなっていないのです。
カメラ自体が高級でもあり、最低限の私体勢での撮影にアクセサリーは完備。
正直、この写真も下手くそです。
大慌てで、なんとか自分体勢で普段使いのデジタルカメラで撮影しました。
かつて、中判カメラでのマクロ撮影では商品写真にまで出来たのに・・・
そういう意味では、モノに自分が負けてしまっています。
モノの使い心地を極めるには、使い勝手をマスターすべきです。
まして、デジタルですが、このクラスともなると、
自分がどれほど使い勝手に慣れて熟知しているかです。
アナログとデジタルの比較では、よくデジタルの安易さが言われがちですが、
このカメラに限って言うのならば、デジタルゆえの難しさ、
困難さを自問自答で知らされます。
そういう意味ではアナログ優先も疑う必要があると思います。
ともかくマクロレンズでの撮影は、カメラと自分の関係を明確にします。

* 『最高のカメラシステムはまだ使いこなせません』
* 『とても酷使していた中判カメラがありました』
* 『ハサミを鋏から「刃裟美」としての相対論の記述』
* 「デジタルカメラに向かい合うとき」
* 「カメラ修行は今なお・・・」


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6月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 17th, 2013  Posted 6:34 PM

6月17日 甲寅(先勝)

限界
乗り越えるのは平常心

『デザインは言語道断』限界


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「光景の中の闇への抵抗」


   


     8月 15th, 2011  Posted 1:24 AM

人にはそれぞれの時間。
いわば賞味期限のように、
生命時間が誰かが決めているようです。
神が決めているらしいようです。
私が28歳で車倚子になったとき、
「君はあと平均で40歳まで」されました。
その医師は医師ではないと思っています。
そんなこと言うか・・・「怒り」いっぱいでした。
こんなドクターには何人か出会ってきました。
本来は医師という天職につくべき人間ではありません。
性根が暗くて医師免許があっても「ヤブ」な医者です。
大学医学部で講義を持つときには、
天職としての医師資格について語る事例にしています。
車倚子生活を告げられた時にも平常心で受け止め、
たかだか車倚子、歩けない、それがどうした、とすら
思えるほど私は冷静でしたが、
40歳までという宣告にはその医師に以後反抗しました。
ところが、気がついたときはすでに40歳になり、
そのときには憧れだった「毎日デザイン賞」を受賞。
以後、すでに22年生き延びています。
親友や級友やその奥様などが逝ってしまいました。
今では父母も叔父叔母、伯父伯母も居なくなりました。
だから、私の周辺でそのような事態が発生すると、
正直うろたえます。
人間の絶対時間を想い知らされます。
ただし絶対時間が「闇」世界につながってはいません。
これは私が絶対時間切れかもしれない三度の体験です。
私が、この世に戻ってくるときは、
必ずベッドの周りから大きな声が聞こえてきました。
医師・看護師のみなさんが声をかけてくれました。
正直もう眠くて、とても快感の中にいる自分、
それなのにその声で起こされると、
嘔吐・寒気・悪寒・発熱・気絶という苦しみがあります。
だから、私はこの世にいる時間そのものが、
本当は「苦しい時間」なのだと思います。
きっと、赤子として生まれ出る時には、
この世に出たくないと思って泣き叫ぶのでしょう。
私は、光景というのは生死の景観であり、
光と影では、必ずしも影世界が「闇」だと思いません。
むしろ、「闇」は、生きている人間が携えている、
とてつもなく抵抗しがたい世界観だと考えています。
まさに、「死に至る病」=絶望=闇なのでしょう。
だから、希望に自分を差し向ける苦しみが、
絶対時間の中で何度でも体験しても、
耐え抜ける力が「希望」だと思っている次第です。

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4月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 13th, 2011  Posted 9:30 AM

4月13日 先勝(戊戌)

限界を自覚したとしても、
限界までなんとか平情にやりぬける力が
「平常心」ということであるなら、
私は「平常心」など
まったく意識したくない。

『デザインの極道論』限界


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3月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 30th, 2011  Posted 9:30 AM

3月30日 先負(甲申)

限界
乗り越えるのは平常心

『デザインの極道論』限界


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8月04日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 4th, 2010  Posted 6:17 PM

8月04日 大安(丙戌)

限界
乗り越えるのは平常心

『デザインは言語道断』限界


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