kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘製品開発’


『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』


   


     5月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

東京から福井に帰ったときに、東京には在るが福井には無いものだらけだ、
どうして生きて行こうと思っていましたが、逆発想をしました。
福井にあって東京には無いもの。
それが越前市(旧武生市)の伝統工芸の打刃物であり、
あることで若手の刃物工業研究会との出会いがありました。
3ヶ月黙っている彼らに自分は難し言葉使いをやめて福井弁で話ました。
新素材開発でメーカー交渉を産地の代表として徹底的行いました。
国内外で展覧会をやり「タケフナイフビレッジ」を絶対に実現約束。
行政の力を借りずに「借金をして取り組んでもらう」ということ、
そのデザイン戦略をともかく盲信してもらうことでした。
ステンレスで鋼をサンドイッチにした高品位ステンレス鋼で
「ハマグリ刃:蛤のように断面で見ると中央が膨らんでいる刃」を
火づくり鍛造してもらいました。
世界で初めてすべて金属製ゆえの一体の刃物ゆえに、
熱湯で一変に大腸菌が防菌可能な一体金属の刃物を開発しました。
徹底的に図面に精確な研磨によりビッカー値硬度も60~62を実現。
その製品開発の中でも、高品位ステンレス鋼をグリップ部分に、
私の造形言語である「ウェーブレット(さざ波のよう波型)」を実現。
それを成しえてくれた今では親方・第一世代の加茂勝康氏が
瑞宝単光章を受勲できました。
昨年は安立勝重氏が受勲しました。
加茂氏はスキー、安立氏は登山家、それぞれの世界でも重鎮です。
第一世代では癌に冒されても「技を伝えて」と半ば命令していた浅井氏は、
工房でもう限界と言って2週間寝込んで逝ってしまった仲間です。
今、第一世代9名、第二世代20名を率いていますが、
新メンバー・新デザイナーを私は選別して、
「ナイフスクール」を本格的に開校します。
二人目の受勲お祝いの会は、さらに盛大に全員で祝いたいと思っています。

*11月5日Staff Blog
*『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
*『 ひとりの親方が逝った・・・ 』
*『タケフナイフビレッジ、恩人を見送った。』
*「鎌倉時代名刀と江戸時代名刀を語り合う」


目次を見る

『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』


   


     5月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

28歳時に交通被災、車イス使用者として生きてきました。
車イスそのものを自分でデザインしました。
しかしこのブログでは一度もそのことを書いたことはありません。
もう最近は電動車イスでの移動の身体になりました。
しかも、身体には加齢もあるのか体型変化が起こってきています。
幸いに美大時代の同級生M氏は
シーティングエンジニアとしても高名であり、
彼から早く直すべきと忠告されていました。
確かに体型の変形は内臓にも影響を与えている実感があります。
そこで、彼は身体障害者向けの様々な製品開発や商品化もしていて、
その事業での「でく工房」社長T女史まで測定支援してもらいました。
いつか電動車イスは二人で組まないと素人判断のモノが出てきています。
私の体型診断と測定、
身体保持シートの再設計のために来学してくれました。
とてもいい機会なので、医学系研究科の教授や他大学の教授、
そして学生にすでに「座る」という行為の時代遅れの人間工学から
シーティングエンジニアリングのワークショップになりました。
なぜ、人間は二足歩行で、「座る」という行為の世界的なイスの系譜から
私がモデルになって体型変形の矯正方法や車イスがどうあるべきかを
もはや使えない人間工学を超えたシーティングエンジニアリングを
新たな研究ターゲット発見課題などを私の研究室で行いました。
そして、
今や間違いだらけの電動車イスの欠点から二人の狙いを語りあいました。
彼を私の講座の特別研究員にすることにしました。

*「音を求めて『闇『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
*『誤謬へのシンボライゼーションプロトタイプ』
*『「闇に座す」=土・立、修辞学的な造形の込めた願い』
*「デザインは『付加』するものではないということ・2」
*「関西海事教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」


目次を見る

『LPレコードのアーカイブが出来上がりつつある』


   


     3月 30th, 2016  Posted 12:00 AM

僕はオーディオのデザイナーから出発という幸運があります。
東芝では当時オーディオ専門ブランドAurexに関わり、
Aurexブランドロゴから製品開発・商品化だけではなくて
ショールームからコンサート企画、
そしてLPレコードづくりまで担当しました。
単純に担当というより、
自分で企画書を書き上げて上司を説得していました。
そんな中でも、
LPレコード企画などが東芝では通らないことはしばしば。
そんな時にはその企画を
DAM(当時最大の量販店のオーディオクラブ)に、
僕は持ち込むと同時に、 DAMから信頼も受けていたので、
TV-CFやDAM販売キャンペーンのディレクターもしていました。
無論、東芝の上司にはほぼ公認をしてもらっていました。
DAMといえば、特別高度な音質のLPレコードを出版していました。
これは当時、東芝EMIの力添えがありました。
東芝EMIで担当であった方が亡くなり、その遺言から、
DAM レコードを後世に残す話が持ち上がり、
東芝の社員であり、また45回転で超厚のレコード盤制作に
まさにはまっていたことからも、協力者の一人として参加。
DAMのLPレコードは、音質の優秀さで、有名な指揮者事務所や
有名歌手グループ事務所からなどクレームが出るほどでした。
私が直接関わったレコード盤は、
「トラックダウン=レコード製作プロセス」を知らせることで
それはオーディオ機器、カートリッジやプレーヤーシステムまでの
音質チェックになるレコード盤があり、レコードジャケットデザイナー名を
入れてもらうことで、東芝に納得をつけてもらっていました。
これはバイノーラルレコード出版につながりました。
東芝ではOKがもらえなかったのですが、
DAMでのヒットゆえに、
結局は東芝のプレミアム広報として実現しました。
かつて、オーディオでの最も正確な音質レコード盤の
アーカイブが完成しました。
アナログレコード盤としては最高のモノづくりだったので、
今では徐々にファンが増えてきています。
私はひたすら音響関係のデザイナーであればそれでいいと思っていました。
だから、今でもその思いは残っています。
大学人をリタイアしたなら、
もう一度、オーディオ機器のデザインと設計に関わりたいと考えています。
すでに、ヘッドホンアンプの設計とデザインに取りかかっています。

*「企画は必ず具現化すること」
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=23523
*「ここまで粘り、あきらめないこと・・・」
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=23541
*『世界でトップだったアナログ45回転レコード盤の復活』
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=42369


目次を見る

『KK塾での実務紹介=デジタルアッサンブラージュ』


   


     10月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM

ある医療メーカー研究所のショールームのデザイン監修で、
私は「デジタルサイネージ」を基本にし、
鏡面やセンサーでの展示空間を創りあげました。
デジタルサイネージ=電子看板と言われているモノは、
騒がれているわりには、全く具体例がありません。
そして、この具体例をさらに進化させるために、
自宅玄関に、鏡面での映像表現とLED照明を実験実現しました。
さらに深紫外線LEDでの消毒システムを加えることなどを試みた結果、
これは「デジタルアッサンブラージュ」という新領域を提示可能となり
「アッサンブラージュ」のデジタル化に至りました。
元々はピカソのキュビズム時代の作品やマルセルデュシャンの作品が
彫刻概念を超越した3次元表現手法です。
まさしく、「デジタルアッサンブラージュ」は、
映像・音響・照明・空調を実現させる統合的な機器システムです。
すでに深紫外線での消毒機器:滅菌・殺菌をLED照明に仕組むなどは
大阪大学大学院・医学系研究科の私の研究室で
製品開発が終わり、エビデンス=医学的根拠の実験に入っています。
私はコンシリエンスデザイン+看医工学の実際例だと考えています。
これまで「デジタルサイネージ」が騒がれたわりには、
具体例が無かったのは、映像表現が、
さらに感覚受容の拡大が必要、この判断が私にありました。
これは照明学会の全国大会で、特に、日本が遅れているLED照明を
拡大進化させるために準備してきたコンシリエンスデザインでした。
もっと正直に言えば、デジタルサイネージはもはや進化しません。
私はコンシリエンスデザインの実務事例として、
「デジタルアッサンブラージュ」によって、
たとえば、焚き火が燃えている映像で
その空間の照明と空調が制御可能になります。
照明のための新規LEDのイノベーションで、
看医工学的な設計学と価値学によって、
全く新しい環境空間の創出が可能になると考えています。
こうしたことを「KK塾」によって、コンシリエンスデザインを
看医工学的な統合的な実際例を紹介し、かつ、次世代デザイン、
その方向性を語っていくつもりです。

* Website-HP


目次を見る

『デザインは問題解決の手法であると再度主張』


   


     8月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM

ワクチンの経皮注射器を開発してPKD*の最初の製品開発をしました。
以後、注射器のデザインに取り組むと同時に、
遺伝子検査システム・ワクチンのデザイン開発・注射器の開発から、
経鼻デバイス=鼻からミスト状ワクチンを直接経肺から血管へ注入、
そしてワクチン接種のための遺伝子検査システムも、
これまで1ヶ月→1週間を5時間検査システムまでを開発しました。
これはその経鼻デバイスがようやく工業意匠権が確立して、
遺伝子検査とワクチン開発にたどりついています。
ワクチン接種に関しては、遺伝子検査からのシステム開発を
デザイン計画してきましたが、発表は、ともかくこのデバイス、
その著作権から知財権などが図面作成時から成立しましたが
工業意匠権の成立までは公表を控えてきました。
私はデザインは、問題解決と考えていますから、
デバイスの形態設計だけがデザインとは考えていません。
よって、遺伝子の検査システムは海外のコンペで、
日本代表に選ばれましたが、海外では難し過ぎるとの評価でした。
私は医工連携では決して問題解決は不可能と講演主張してきました。
結果、「コンシリエンスデザイン看医工学」の講座で、
研究・開発・教育にまで至っているわけです。
しかし、残念なことに現在のプロダクトデザインでは、
この分野に参入出来る大学が相当に限定されていることです。
最近では、雑貨品のデザインがマスコミでもスター扱いされます。
それこそ、今、話題のオリンピック関連も単なるグラフィックで
オリンピックという国家イベントは、国家政府ですら、
デザインの本質には理解不足どころか、無知過ぎています。
平然とした盗作がデザインだという一般認識が拡張されています。
かつて、名古屋市立大学芸術工学部時代にも、
芸術工学は英文ではDesign & Architectureとし、
先端統合デザインをデザインに接頭語を私は名辞してきました。
よって、先端統合デザインが医工学デザインにまで進化しました。
その進化が「コンシリエンスデザイン看医工学」です。
この経鼻デバイスが一つの実際例だと紹介しておきます。

* PKD=Peace-Keeping Design
「PKDの途中報告」


目次を見る

『英国技能で日本流の木工テーブルデスクの自分用』


   


     4月 3rd, 2015  Posted 4:14 AM

自宅で使用するテーブルを木工家の伊藤氏に発注していました。
彼とは私が企画したDESIGN TOKYO 展のPROTO LABで出逢いました。
彼は英国で木工技術を学んでいたので、今回、私は日本独自の
たとえば引き出し構造や天板の強度構造を伝えて、
伝統的なノックダウン構成と単一仕上げ素材を熟知してもらいました。
日本の引き出しには伝統的なノックダウン構成と単一素材仕上げや
桐箪笥と船箪笥にはそれぞれ独自の方法があり、
私の役目は、こうしたことを次世代に伝えることだとも思っています。
この自宅用は、私のベッド周辺での使用を考えたモノゆえ、
細かな使い勝手を工夫しました。想像以上の丁寧な仕上がりは、
英国流の技能が、日本流での構造で見事に仕上がってきました。
これから、彼には、私が最も知り尽くしたスピーカーシステムでも
バッフルタイプのモノや、タンス・箪笥を試みてもらいたいからです。
英国では、アート的な木工を師匠を選んで鍛錬されただけに、
英国の伝統的な倚子から木工小物類にいたる技は、
木工家具を教える学校と工房を舞台に活躍しています。
だから、年に1回は、PROTO LAB出品がとても楽しみでした。
今回は、わざわざ彼の工房、八王子から阪大の研究室も見て、
私の自宅で組み立て後に、バッフル形式のスピーカーシステムを
簡単に話して伝えることが出来ました。
スピーカーボックスは、木工でも相当の知識が要求されます。
私が木工を知ったのは、美大では徹底した木工技術を学び、
さらにデザイナーとしては、スピーカーシステムの
実働モデルから量産の部材や構造では、製品開発と商品化を
全国各地の木工団地で学び、フリーになってからは、
地場産業としての木工を知ることになりました。
今回、自分用日常のテーブルデスクは巾2400mm奥行500mmで、
高さも670mmもあるモノですが、英国技能で伝統的日本流が
見事に自分のモノになったと思います。


目次を見る

『2015年が明けて自宅からあべのハルカスを臨む』


   


     1月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

自宅は大阪市谷町にあります。谷町だけれど海抜は高く28m程度。
したがって、32階トップに居るためにおおよそ120mから、
天王寺の通天閣からあべのハルカスを臨むことができます。
18歳の時は、天王寺で1年間浪人生活をしていましたから、
阿倍野には特別な思いがあり、毎日予備校に通いながらも、
近鉄デパートは予備校帰りの遊び場でした。
そこにあべのハルカスが建ちほこっています。
すでに大阪に住んで10年目になりますが行ったことがありません。
いつも、自宅から眺めているだけです。
32階ともなれば、相当に見晴らしがいいということになっていますが
私は、日本のいわゆる街の建築、そのいい加減な屋上づくり建設に
大がっかりしてしまいます。
私は、もし高層に住むとするならば、50階以上の高さが必要です。
でなければ、これから少なからず屋上の建築意匠は
徹底的に美しさが検討されるべきだと指摘しておきます。
さらに重大なのは消防自動車が消火につとめられる高さは11階まで、
だとするなら、その階以上の住人にとっての避難は、
停止したエレベーターは使えません。
私のマンション(日本ならではの呼称)にはヘリポートがありますが
使う事は不可能だと断言します。
理由はまず車イスの私はそのヘリポートには階段があり登れません。
また、この 10年、ヘリポートを利用した避難訓練、
それはヘリコプター訓練と住居者訓練が皆無だからです。
おそらく、日本の高層ビル屋上ヘリポートは使えないでしょう。
ならば米国流の50階からの避難用パラシュート製品開発が必要です。
今、危機解決学=コンシリエンスデザイン実務として、
高層ビル用のエレベーター=災害事に運用可能安全装置化と、
高層ビル避難用のパラシュート製品開発を急ぐべきだと提案します。


目次を見る

『広島の土石流災害現場で開発中ながら試用実験』


   


     8月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

「危機解決デザイン」をテーマにしていくつかのプロジェクトを
デザインディレクションしている最中に、
怖れていた大豪雨で広島が大災難、幼い人命が失われました。
私は開発遅れゆえ苦しく、開発メンバーに現地入りを要請。
彼らも当然に大焦りをしていたので、即先発隊が入りました。
「新素材」は、
Great Possibility・ Ground Possibility・Green Possibilityを
根幹にして開発してきた泥水を固め、しかも廃棄すれば自然回帰。
真砂土は土砂として、粘土質は10%です。明らかに砂土です。
砂土は粘土質12.5%未満ですから、花崗岩主体の砂に過ぎません。
しかし、液状化防止の土壌改良素材開発は見事に的中していました。
現場には取りあえず新素材を持ち込みましたが、
先発隊から、泥水そのものを仮説プールに引き込み、
この泥水は瞬間に固まりますから、それを指定箇所に運び出します。
指定場所に置くだけで、いずれは自然と一体になりますから、
泥水にはきわめて有効なことが、広島の災害現場で確認できました。
私はすでにここまでの製品開発を終えて、商品化にむけています。
しかし、短期間の製造生産装置やメインテナンスなど、
この新素材の大量化と、この素材が放射能との反応までいけば、
まったく新たな災害防御素材が出来上がると確信しています。
広島では、まだまだ行方不明者が見つからないようですし、
すでに生存予想時間もきれていますが、生きていてほしいと
ほとんどの日本人は期待していると思います。
今回の行動は開発メンバーの動きが本当に俊敏でしたから、
私はいい仲間たちが私のデザイン意図を根こそぎ信頼してくれました。
それこそ、「.tokyo」サーバー変更を言い出すわがままな指示も、
「情報化を最先端に」をすぐに実行してもらっています。
広島の大きな悲しみの中で、開発の新素材が役立っていること、
これはデザインの大きな役割を再確認しました。
これが「コンシリエンスデザイン」の第一段の解決手法です。

http://gpgp.tokyo/
『山は崩れてはならない=つちのかたちデザインが要る』
『自然と対峙することは泥水を危機ととらえる』


目次を見る

『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』


   


     7月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

福井にいる頃、すでに私は当時の織物組合の青年部会で、
新ブランドと製品開発をし、部品すら、すでに開発をしていました。
しかし、まだ若かった私は信頼されることもなくて、
そのデザイン企画は発表出来ませんでした。もう27年前です。
が、最近日本のあるとても話題企業の商品は過去の私の提案でした。
青年部会長は、現在、この企業団体の理事長になって再度、
私には重大な新ブランドづくりと製品開発指導を委ねられました。
そこで、私は日本の繊維産業の歴史性から、これだけの人物、
彼らの足跡を求めて、日本の繊維が「絹織物」からの出発を知り
起点は、由利公正(五箇条の御誓文)の仕掛けから始まりました。
「絹織物」を欧州から学べと指示した由利公正は、
京都から三名の人間が欧州の織物を学んで帰国し、彼らによって、
今年大きな話題となった「富岡製糸場」も指導をしていくわけです。
近代産業化をしていく織物産業は次第にその精緻さを求めます。
1870年には「富岡製糸場」が企画され、三人が帰国して指導し、
彼らは京都にもどって西陣織りにつながり、
福井には4名の先達によって、「羽二重」が生まれてきます。
1893年には人絹取引所までがこの産業を確約たる輸出産業になります。
私は、なぜ由利公正が殖産興業の手立てを政策に持ち込んだ理由は、
橋本左内などに学んだことが連綿としていく歴史性を辿りました。
このことを教科書の副読本にしていこうと考えています。
私はこの先達たちの先鞭性を継承してさらに再活性化を考えました。
新ブランドは、布の基本=絹からポリエステルまでを感性評価し、
その学術的な整理から、新製品発表を目指してきました。
歴史性・感性評価・織るから創るまでを発表していくつもりです。
日本の絹織物ゆえに、先達たちが「何を大事にてきたか」を
私は新ブランドと新製品アイテム開発をデザインしていきます。

『「織物・布の感性的評価軸=オノマトペ」産地福井から発信』


目次を見る

『出版を「モノのデザイン」にしていくために』


   


     5月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

モノが出来る=商品化されると嬉しくてたまりません。
だからやはり書き残しておきます。
製品開発としての出版をじっくりと自分領域で考えてきました。
今では、中国でとても安易な出版が氾濫してきています。
いわゆる作家として、美術家・建築家・デザイナーなどの、
作品集、その装丁を見ると、作品と同等な仕上がりは必然です。
しかし、作品が出版されるなら、出版製品としては、
日本の出版市場のこともあってか、もの凄く貧相になっています。
このような製本でよく満足できるものだと私は信じられません。
私はなんとしてもそれだけはプロとしてデザイナーとして、
絶対に新たな手法やそのための新治具、新器具までが必要でした。
発泡インキ印刷は、その膨らみの経年性はまだまだです。
乾燥をさせて多重のインク重ねでの輝きが必要です。
書籍函はその組み立てからも正確な仕上がりが失われています。
書籍専門家ならスピンといわれる栞ひもも二本必要でした。
さらに、3D写真は最近はとても進化してきましたが、
その3D写真についても、幾たびもテストをしました。
ところがこれを表紙それも布貼りに落とし込み圧着が問題でした。
表紙裏に大きな影響が出てしまうこと、
写真圧着の温度と接着剤に経年変化が起こらないこと、
書籍函との密接性も最近はいい加減ですが、私には無理でした。
しかも、書籍のカラー印刷インキと紙質指定も、
すべてが生産原価にひっかかりました。
私のモノづくりは、当然、儲けていただきたいのですが、
モノの本当の良さを表現するにはコストはかかりますし、
かかり過ぎてしまうことは否めません。
どうしても手造りでの精度を求めてしまって、
配本が遅れていることをお詫びします。
でも、書籍づくりの「手本」を目指したことは自負しています。

『やっと4冊目の作品集が出来上がった!』


目次を見る