kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘編集’


「作品集の台割り・また再び、今度は全面ディレクション」


   


     10月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

2006年は、私にとって重大な年でした。
阪大に移籍、
大個展の開催・重篤となる敗血症というほどエピソードの連続でした。
大個展は「金沢21世紀美術館」で七つの部屋をいただき、
30年のデザイン活動の作品を集結させて披露することができました。
おそらく、あれほど大きな個展はもう開けないと思っています。
だから、この個展には全勢力をかけました。
結果、相当の疲労も重なってとうとう敗血症になって、
あの世への道を丁度3回目ですが往復してきました。
さて、この時に集大成となる作品集を出版しました。
作品集は2冊目でした。http://amzn.to/UZeQpS
ただ、作品集に関しては、自分がタッチするとなかなか決定できないから、
台割り・編集は他のデザイナーに任せるべきという話があります。
私も親友のグラフィックデザイナーS氏から
このことを言われていたので任せました。
この作品集は販売されています。http://amzn.to/RrHuvm
まさしく私が重篤状態の時には、
ワイフが阪大の私の研究室で
「個展会場の設計記録(青本)」をまとめてくれました。
来春、阪大を退官するにあたって、
ある出版社から記念出版の企画をいただいています。
ようやく全体像ができてきたので、台割り作業に入っています。
当然、私はアーティスト・カメラマン・建築家・デザイナーの作品集は
相当に蔵書として持っています。
そこで、あらためてそうした類の作品集を
このところ時間をかけてじっくりと検証しました。
そうして比較検討すると、
なんといってもファッション系の有名ブランドの作品集・写真集は、
編集も豪華ですが、台割りには必ず「革新性」があります。
今、私は、今度出版する「私の作品集」には、
私の履歴や私の生い立ちや趣味も掲載します。
さらには、発表していないプロジェクトも選別して掲載するつもりです。
特に、
グラフィック関連はまったくこれまでの作品集には掲載していませんから、
是非とも盛り込みたいと考えています。
ともかく、「台割り」には基準となる黄金分割表づくりを
スタッフに任せてスタートしています。
来春3月2日の「最終講義」の日に出版予定です。
私の生涯1948(胎児)1949(出生)から2012年まで、
世界・日本・デザイン史の年表にしたがって
「編年体的な編集」をしたいと考えています。


目次を見る

「机上の一本はスケッチ用万年筆」


   


     8月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

正直、私の万年筆コレクションはそれなりです。
万年筆は中学入学祝いでパーカーをもらいました。
以来、大人になったらこれをコレクションにしようと思っていました。
フリーランスになってから、いつも選びに選び抜いています。
二人のアドバイザーがいました。
一人は万年筆専門店の女の子、店員さんでした。
万年筆談義が徹底的にできるとともに、
彼女にはお店を持ってもらいたいほどの知識があって、
教わることが多かったのですが、
今は辞められてしまいました。
残念ですが手紙をいただきます。無論、彼女は万年筆手書きです。
インクの選定がまたまた優れてイイのです。
今、購入するお店の社長さんからは、
笑いながら「バカですね」とか言われながらも、
真剣に選んで薦めてもらい、さらにコストダウンをしてもらっています。
もう一人いました。
文具大賞時の専門誌編集長には肝心なことを聞き出すことができます。
ともかく、
「スケッチ用万年筆」を発注して、条件がありすぎて断られました。
その時彼女が薦めてくれたのが
「DELTA ラ・チッタ・レアーレ1KS」でした。
DELTAといえば、ある映画で使われてブームになったブランドです。
さて、インクはDELTAもいいのですが、私としては、
どうも、スケッチ用に、パーカーのインクが向いていると感じます。
このところ、スタッフからのスケッチには、
ほとんどこの万年筆でラインやコメントを入れています。
自分の思いつきは、ほとんどはボールペンですが、
ようやくペン先が馴染んできたようです。
パーカー5thは優れたアイディアでしたが、
これよりは、DELTAのこれの方がスケッチに向いています。
「スケッチが描ける万年筆」は、
自分でデザインすべきかと思っています。


目次を見る

「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」


   


     7月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

永世中立国家を維持しているスイスは私には謎国家です。
永世中立によって「平和」のために、
全国民皆兵制、全ての住宅にシェルター設置は義務です。
スイスの防災マニュアルを読みました。
文字だけではなくグラフィックデザインとして、
本当に素晴らしく美しい本になっています。
まず、祖国ということ、
国の自由・国民の自由を定義しています。
これこそ「愛国」の基本でしょう。
あらゆる災害・戦時体制・原爆から死刑にまで、
国民がどう平和で安全に、
「いざ」という場合がとても懇切丁寧に、
おしゃれなイラストとともに編集されています。
国家転覆への情報対処・情報戦を
国民の認識方法まで述べられています。
「平和憲法」の文言にだけ頼っているわが国との違いを
あらためて、見直す必要があると思いました。
これは、憲法の具体的な行動規範です。
国民が平和で安全を確保する基準とは、憲法で制定していますが、
その具体的行動を「日常生活」でどう認識し、
しかも国民皆兵制ゆえに、成人は女性も武器訓練があります。
特に、私は、国家転覆の情報コントロールと死刑の記述は、
これなら国民全員が納得できると思いました。
スイスには死刑はありませんが、
国家維持を破壊する者や国家転覆者には、
絶対死刑というのは、説得制があります。
日本は、天災が一段と厳しい環境下にあります。
政党の嘘だらけの「マニフェスト」など不要です。
だれでもが分かりやすい、憲法を読むのではなくて、
具体的に、自分・家族・コミュニティ、そして国家が、
平和と安全を維持していく具体的な行動規範こそ、
安心国家の安泰性を確約するものと考えます。


目次を見る

「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


目次を見る

「連塾・最終回=10年を語る前に、松岡正剛という『ち』」


   


     5月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

「連塾」の指南者、
松岡正剛は10年を彼らしく「切断」しました。
10年間この「連塾」を率いた彼について、
いつの日かという彼の前での「私純情」を語るときが来たと思います。
1991年、箱根の「強羅花壇」で私は彼と出会いました。
箱根で「国際マルチメディア会議」がありました。
Apple社・ジョンスカリー会長が全世界から、
当時のコンピューター専門家から企業トップを集めた会議でした。
三日間缶詰での会議でした。
懇親会は「強羅花壇」が会場であり、
現マクドナルド社長の原田氏が営業本部長として総括されました。
民間からは私と松岡氏、そしてA氏(元官僚)B氏(作曲家)4名。
私はスカリー会長の直属デザインコンサルタントでしたから、
この会議中も、会議の合間にデザインモデルのプレゼンをしていました。
懇親会もどこまでお金がかかっているのかという盛大さでした。
ところが、和室に入れなかった私が別会場に一人の時、
松岡氏が入ってこられたのです。
(この人が『遊』の編集長だ!、やっと会えた)
そんな感慨と、『遊』の超美人女性デザイナーKK女史に会えるかも、
私は瞬間的に想像したことを思い出します。
それから、交流が始まりました。
私も読書量は人並み以上という自負がありましたが、
松岡正剛は100万冊は読破しているとすら思っています。
あらゆる分野に精通し、特に「日本を語らせたら超巨人知」でしょう。
千夜千冊(もはや1000冊を超えています)は、
おそらく世界にもあり得ない「書評アーカイブ百科」編集事実です。
「千夜千冊は世界的事件」という評価まであります。
私の著作も取り上げていただきましたが、
それは私へのラブレターでした。
「だから、私も松岡正剛に惚れ抜いています」と、
「連塾終了」の知らせ直後に彼に知らせ、
懇親会でも連塾参加者の皆さんにまで惚れていること発表しました。
昨夜、別れるときに「紙墨相発」を送るから、
松岡氏も「私の自宅に必ずまた行くから」と。
「連塾」、そのテーマは「日本という方法」でした。
これからがこの方法論が必至になっています。
これから時々、彼との話題・課題を書いていきます。
その季節が私に訪れたのでしょう。


目次を見る

「東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から」


   


     12月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

震災直後のNHK取材は3D撮影であり、
監督されたNHKメディアテクノロジーの智片通博氏に
阪大で特別講演をしてもらいました。
依頼後時間が経ちましたが、
かえって「風化しそうな」記憶を再確認できました。
私自身は震災直後から東芝で
「復興計画デザイン」に関与してきました。
ほぼ10ヶ月かけて「全計画」を書き上げ、
来年早々、東芝トッププレゼンします。
デザイナーとして40年の実務経験からの発想です。
講演では、取材編集はあの日の参議院予算委員会から始まります。
時間経過にそったNHKの天災時対応の詳細や、
そうした放送台本が放送直前の修正まで見ることができました。
私はメモを相当に取りました。
講演を見聞し、幾つか私の心に残り書きとどめたことです。
●震災の歴史的記念は
これは残すべきかは被災された方の気持ちが大事で記念館など不要。
●市町村合併によって町名に何ら東北地方性が失われていた。
●1000年に一度の天災でこそ
「役立たない技術」などはまったく人類に不要。
●NHKは日本人全員の生命と財産を守るマスコミとして
相当の日常的準備訓練があったこと。
●「みちのく」を復旧し復興することが政治で可能だろうか。
●マスコミとしてのNHKに対して、
ミニコミの必要性がもとめられますが、そのあり方。
●箱根を境界として、
日本が二分されてしまった現状から国力再建の可能性。
私は、あらためて国難の中にたたずんでしまっている
自分を客観視しました。
講義後、講座担当教授としてこのような話でまとめました。
1860年、日米修好通商条約提携に向け、
勝海舟・福沢諭吉が乗った咸臨丸が出航。
1854年から1859年は「安政時代」、社会不安に天災続き、
特に大阪も安政南海地震で大津波、
結果、難波(津波災害から)、梅田(埋め田)という地名が生まれるほど。
NHKでも若い取材者は、精神的ショックが相当だと聞きました。
現実、大学生にもボランティアに行きつつも、
そのやりきれなさで自殺者が出ています。
私たち日本人にとって、この震災・津波・原電事故は、
日本を「壊滅」させました。
それ以上にタイでの洪水は、産業的海外基盤を失っている状況です。
祖父や父世代が、日本を敗戦ながらも「楽園国家」にしてくれました。
その楽園環境に麻痺していたのかもしれませんが、
現実、まだまだ復旧さえ進まないわが国は
本当に「絆」をもって再興すべきだと再決意しました。

目次を見る