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Posts Tagged ‘審美性’


6月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 26th, 2012  Posted 9:30 AM

6月26日 戊午(大安)

デザインされた「光の棚」そのものの
審美性と、その棚の上でこそ確かめる
ことのできるモノの審美性=この二重性を
意味性・非意味性・無意味性から
一般解を求めてみたい。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』9造形された形式


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『資本主義からの逃走』
    「 富の分配は『豊かさ=審美性の共有』にあらず」


   


     9月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

本当に豊かな時代はあっただろうか
日本が豊かだった時代は本当にあったのでしょうか?
私はもう一度、この探索をし直すべきだろうと思います。
少なからず、戦後の高度経済成長から、
日本の奇跡と呼ばれ「Japan as No.1」の時期はありました。
現代の若い世代には、そんな時代イメージはTVの中での一シーンにすぎません。
私自身、社会人になってすぐに「オイルショック」・「バブル」・「円高」・
「リーマンショック」、そしてまた「円高ドル安」でした。
私にとっては昭和30年代(小学時代)が「豊かな時代」だった気がします。
それは「貧しい時代」だったのです。モノには全く多種多様性はありませんでした。
価値感にも多様性はありませんでした。
だから、モノを大切に大事にしていた時代だったことは確かです。
私は、畳もなく、ガラス窓の無い住宅に友達が住んでいたことを思い出します。
しかし、「笑い声いっぱい」でした。
確かに「イジメ」もありましたが陰湿ではありませんでした。
喧嘩も充分にしましたが、ナイフを使って級友を刺殺することなどはありえませんでした。
豊かさの核心=審美性
敗戦意識は、「貧しい」という観念をすり替えられたと思います。
「貧しいこと」からの脱出は、
「お金持ちになる=豊かになる」という意識が入り込んでしまったのです。
この大きな勘違いが、現代アジアに根付いています。
日本が真の「豊かさ」をガラパゴスという批判から再構築する立場だと考えます。
したがって、高級=高額であり、高級感は高額なモノにある審美性ではありません。
極貧なれど「美」を生み出そうとしている芸術家、
芸術家は極貧ということも当然だった時代がありました。
私が美大を選んだ時には、「食べていけるのか?」という評価が一般的であり、
美大は道楽学校だったのです。
デザイナーは芸術家でも無いだけに、美大進学は進学校での信頼は皆無でした。
これは今なお、デザインは決して芸術的印象はあっても、芸術的価値として評価はされていません。
「豊かさ」の核心にある「審美性」、
あらためてデザインが創造する「デザイン審美性」の創出を私はめざしたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
    「 富、あるいは高級感をという文脈の再考」


   


     9月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

富としての高級感
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、西太平洋・トロブリアンド島民、
彼らのことを紹介しました。
それは「労働」・「仕事」の成果、その評価のことでした。
彼らなりに、富の分配方法はあるでしょう。
しかし、私たちの産業経済でひたすら「豊かになること」は「富の分配」でした。
私たちはその「富の分配」結果を熟知してしまったと考えていいでしょう。
そして、もし、富ではなくて審美性や美学となると、
もうひとつ重大な価値感覚があります。
「高級感」ということです。
日本語は、この「高級感」は、言葉もこの一つに集約していますから、
「何が高級感?」ということでは、多様な定義が可能です。
しかし、たとえば英語なら、「高級感」は様々な語彙があって、
それぞれの語彙に、それぞれの感覚に制限や限度があると思うのです。 
とりあえず、五つ挙げておきます。
   ■ High class
   ■ Deluxe
   ■ Quality
   ■ Exclusive
   ■ Expensive
さて、この五つには確かに高級であり、贅沢であり、豊かさがあります。
私は、「富」という概念には少なからず、こうした価値感が宿っています。
それは「富」が集中蓄積されたところに「程度としての高級さ」があると言ってもいいでしょう。
私たちが日常生活の基盤としてきた資本主義、それによって構造化された階級、
あるいは格差には、程度たる「高級さ」があることは否めません。
高級感と審美性
したがって、私たちが今、真に再考を求められているのは、
「高級」を加飾している審美性は確実に、資本主義が育んできた局面性だと言っていいでしょう。
実例とするなら、
「ブランド価値としての高級感」;「高級ブランドの審美性」を議題にすることができます。
そうするとこの議論はやはり「富の再分配」が、
社会主義に対して資本主義が勝っていたということなのだろうかと私は考え込んでしまうのです。
考え込みつつ、「高級」なモノのデザインも随分としてきました。
それは単純には「高級」=「高額」だっただけかもしれませんが、
そのモノにもちろん審美性を意図してきました。
いわゆる「高級」なモノにも、私のひとつの嗜好性があることも認めておきます。
私なりの納得と矛盾、そして、それでも「高級な審美性」も確実にあるわけです。
「富」・「高級感」・「審美性」は、あらためて論考されるべき大きなテーマだと思っています。
私は、おそらくマエンゲ族やトロブリアンド島民の「耕作行き届いた畑」に、
審美性を確認できる感性があるのかどうかはまったく不明であることを告白しておきます。


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『資本主義からの逃走』
    「 『富』を見失ってきたイデオロギーの文脈」


   


     9月 3rd, 2010  Posted 1:38 AM

「富の分配方程式」
資本主義も社会主義も、イデオロギーだとするなら、
私たちは、本来のイデオロギー、何がイデオロギーかを未確認のまま、
この二つの主義主張で分断され闘争させられてきました。それが20世紀です。
いづれのイデオロギーも、『富』とは何であったのかを見失なってきただけだったのでしょう。
『富』を生産し、分配し、蓄積することの結果を、私たちは20世紀末にはっきりと認識しました。
反省しなければなりません。
それは、富の分配方程式が経済図式にすぎなかったことと、
私たちという種の存続性さえ危ぶまれている現前で、たちすくんでいる有様です。
マエンゲ族とトロブリアンド島民
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、
西太平洋・トロブリアンド島民、
いづれも無論働きます=生産しています。
しかし、彼らの生産は、いかに「美しい畑作」をするかということです。
畑生産での収穫量=「富」ではないことを私たちはもっとその価値を熟知すべきだったのでしょう。
彼らの「生産」成果とは、「美しい外観や体裁の整備」、その審美性に価値をおいていたのです。
この種族や島民に最も注目し、
「労働」・「仕事」その生産による「富」を見失ってはならないという指摘はありました。
いわゆる構造主義者の示唆・分析を無視してきたことは事実です。
エコロジー・リサイクルが問題解決にあらず
「労働」とは、真に肉体労働であり、
人間という種の生理=発汗行動を忌み嫌ってきたのかもしれません。
頭脳集約が果たして、新たなイデオロギーを世界観、共通感覚にしてくれるのだろうか、
という「文脈」をもう一度引き込み直すことかもしれません。
もっと直裁的に言ってしまえば、
私の視界には、声高なエコロジーとかリサイクルが問題解決だとはまったく思っていないことを、
1989年コンピューター黎明期に訴求して以来持ち続けています。
「富の生産・配分・蓄積」という文脈で、私たちは、見失っていることが余りにも多かったのです。
エコロジーもリサイクルも、まだ「富の分配式」のままなのです。
見失っていたのは、「審美的な富」だと私は考えています。
「審美的な富」はデザイン対象・問題解決の「解答」だと確信しています。


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