kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘KazuoKawasaki’


5月31日Staff Blog


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:14 AM

5月31日

iPadでスケッチを描くべく、
タッチペンのセレクトと自作を続ける
BOSS(川崎和男, KazuoKAWASAKI)

今のお気に入りのタッチペンは、
手前のモノ、pogo sketch。


目次を見る

5月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 29th, 2010  Posted 10:26 AM

5月29日 先勝(己卯)

本当の生涯はいつから始まるのだろうか。

まず、想像力を意識し始めたときから。
そして、大きな転機になるような
出来事が起こった時だ。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


目次を見る

5月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 28th, 2010  Posted 10:20 AM

5月28日 赤口(戊寅)

点と線と面・・・・・・
これは造形の要素である。

視点・視線・視野・視界は、
点と線と面で、
より詳細に説明することができる。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


目次を見る

5月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 27th, 2010  Posted 10:36 AM

5月27日 大安(丁丑)

想像力を拡大するには、
常識の中では限界がある。

常識をくつがえすような
イマジネーションが必要なのだ

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


目次を見る

5月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 17th, 2010  Posted 11:50 PM

5月17日 先勝(丁卯)

デザイナーは最初に
想像図を描くことから、デザインを始める。

それは、想像したモノを
透視図に配置することである。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


目次を見る

5月16日Staff Blog


   


     5月 16th, 2010  Posted 10:57 PM

5月16日

様々な精度、サイズがある人体模型。
専門的な模型から知育玩具まで見る
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

これは、8才から対象の玩具です。


目次を見る

5月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 16th, 2010  Posted 9:00 AM

5月16日 赤口(丙寅)

考えるとは、
老人が杖をついて
たたずんでいる形象である。

老人のごとく経験や知識に身を任せて、
ともかくたたずむことである。

『プラトンのオルゴール』
あとがき


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「ひかりとあかり・信号あるいは記号として時空間」


   


     5月 15th, 2010  Posted 12:33 AM

信号・記号やりとりの手段
「のろし」を上げます。
これは、太古時代のシグナル=信号でした。
鏡面に太陽光線を当てて反射させます。
そうすると、その眩い反射光が信号になりました。
暗闇に蝋燭の灯りが点々と灯されています。
それは、道筋を教えてくれる記号でした。
さて、こうした信号、あるいは記号を人は手段にしてきました。
光線を見詰める
太陽光線はまぶしい光です。
眩しくて、見つめることができません。
月の明かりや蝋燭の灯りは、見つめることができます。
私は、単純に、
「見つめられない目映い光線」を「光・ひかり」だと思います。
それこそ、網膜を焼いてしまう「光」は存在します。
可視光線には、「色」があります。
色は見詰めることができる明かりと言うことは出来ます。
「じーっと見つめることの出来る光線」を「明かり・灯り・あかり」だと思います。
光っているからといって、眩しくなければ見詰めることが可能です。
一本の蝋燭の灯りを見詰め合っている恋人がいたとします。
それは、灯りを沈黙し合って見詰めることで、
何か、二人の間に沈黙の会話が流れているのかも知れません。
この場面には、蝋燭の灯りが二人の共有する「記号」です。
そして、その見詰めている明かりが、ひょっとすれば、
「別れ話」の「信号」になっているのかもしれません。
「ひかり」と「あかり」には、時空間が生まれているのです。
情報の時空間
今、私たちは、情報という記号or記号という情報を信号として、
「ひかり」が時空間でのコミュニケーションをしています。
「光通信」、それは、太陽光を鏡面で反射させた光速でやりとりをしていた太古から
現代に至って、鏡面が光ファイバーになったのです。
となれば、人間が時空間での情報は、「ひかり」信号の記号なのでしょう。

人間は、明かりもしくは灯りに包まれれば、気持ちは和むでしょう。
しかし、光に包まれたとき、それは「生」の瞬間だったのかもしれません。
そしてもう一度、光に包まれるのは「死」の世界に入っていくのでしょう。
私たちが時空間から消滅させられるのかもしれません。
人は、ひかり、あかり、そして、
信号と記号の情報で、生から死までの時空間に私たちは存在しているのです。
絶対にそうなんだと私は思っています。
あらためて、「ひかり・あかり・信号・記号」、
この四句分別を、現代そして未来に、私たちは求められているのです。


目次を見る

5月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 14th, 2010  Posted 2:00 PM

5月14日 仏滅(甲子)

体感とは、
まさしく「野生」のままの自分を
保てるかということではないか
という気がしてならない。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「『観』を『感』としている現代性をみつめる」


   


     5月 12th, 2010  Posted 2:31 AM

観自在
「観自在」は、般若心経の書き出し、冒頭文です。
般若心経は、かつては暗記させられた思い出があります。
もっとも、私は幼稚園も転園しています。
最初はキリスト教系の幼稚園でしたが、
「もう来ないでほしい」と母は言われたらしくて、
仏教系の幼稚園に「入れられました」。
とっても厳しい園長さんは尼さんだったのです。
尼僧さんでしたから、
いつも尼僧黒衣姿でいつも叱られていた記憶があります。
その園長さんに対して、私の反抗は、
ほとんど「泣き叫んでもわがままは通らなかった」のです。
「観自在」は、その頃、体の中に入ってきた気がしています。

自在性
観という言葉には、端的に「心で見る」という意味を重ねると、
私なりには、想像力の自在性にほかなりません。
しかし、私の幼児記憶には「自在性」などわかるはずはなく、
デザイナーというプロになって、あらためて、
「観自在」という言葉と対峙しなければならなくなったと思うのです。
そして、結論は、
「観」には、洞察的な深度=哲学的ということが含まれている気がします。
ところが、なんでも「感性」だとか「感覚」ということへの価値感が言われ、
まさしく、デザインは「感性」の極致などとまで言われます。
私はデザインと感性とには相当の距離観があります。距離感ではありません。

感と観
そうなると、「感・観・?・・・なに、それ?」と、
私は思ってしまいます。
 直感なのか、直観なのか、
 野生なのか、野性なのか、
「感自在」もあり・・・?とか、想像してしまいます。
私は、「流行感覚」の大事さや大切さも理解できます。
しかし、観音はあっても、感音はありえないのです。
となれば、
あらためて「観」と「感」をデザインの論理に照合させる必要性を「感」じています。
その感覚は、私の「観想」だと考えます。
現代、「感覚」だと感じることを、
佇んでこそ、「観自在」を見直す必要を観るのです。
そこから、現代性、現代感覚、時代性、時代感覚を再考するべきと思っています。


目次を見る