4月 24th, 2014 Posted 12:00 AM

私のふるさと福井は江戸後期から開国時には、
繊維産業の先進化をめざした先駆者がいました。
私は繊維産業の再活性化を25年前に取り組みましたが、
諸般の事情で一度諦めました。
しかし、繊維産業には幼少時代から私の傍らにありました。
私の母の実家周囲には、機織り屋さんがいっぱいありました。
私の伯父も、この繊維産業の指導者の一人でした。
デザイナーとして、なんとしても繊維デザインを求めています。
この2年、繊維産業へのデザイン導入を私のスタッフ達とともに、
「日本」だから、さらに未来づくりを求めてきました。
私は、地方産業の歴史伝統をデザインの基本にします。
今回も、「やはり、これだけの人物たちがいたんだ!」。
特に、越前藩の指導は、橋本左内の影響があって、
由利公正が第一の指導者でした。
彼は、「五箇条のご誓文」を著実した人物として有名ですが、
この繊維産業の指導者でもあったのです。
私のスタッフたちが、この産業の先駆者を歴史に再配置しました。
したがって、私の役割は、こうした先駆者がどれほどのことを、
明治開化に果たしてくれたかを、産地ブランドの下敷きにします。
これは、繊維産業のコンテクストをまとめる大切な役割です。
最近は、あまりにも軽薄なデザイン活動を目にしますから、
私は徹底的に歴史コンテクストから国際的なブランド化を対象に、
繊維=素材産業の最先端化をデザインしていくつもりです。
本日、この提案が万一受け入れられなくとも、
私のデザイン活動の中に記述しておく覚悟です。
現状でのデザイン活動が単なる流行化をめざしていることへ、
私は自分の活動をもって、叩き潰すことも決意しています。
なぜなら、先駆者たちの闘い方を大参考にするつもりです。
『布の感性評価はこれまで無かったからこそ』
「『はぶたえ=羽二重』の目立たなかった布の美しさ」
「ふるさと福井の織物・繊維を世界の標準にデザイン主導する」
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4月 23rd, 2014 Posted 12:00 AM

韓国のこととはいえ、海難事故はとても悲しすぎる事件です。
この海難事故を知ってから、製造が日本であったことからも、
またしても日本と韓国とのあらたな災難かと心配しましたが、
韓国でさらに改造されたということでした。
私自身、「関西海洋教育アライアンス」の教育者であり、
Ship of the Yearの審査員もしてきて、
海事・港湾・造船・船舶とデザインを「海洋デザイン戦略論」で、
今も授業をしていますから他人事ではありません。
とりわけ、Ship of the Yearでは、海事関係の一流の専門家に、
本当に鍛えられてきたと思っています。
Ship of the YearはCar of the Yearまでは知られていませんが、
船舶は、あらゆる船が対象となって審査され、日本でトップの
船舶が決定されます。
審査員は、造船、船長、建築、報道、芸術家、作家、そして、
私=デザイナーも加わり審査でのプレゼンは、
専門的にはとても厳しい質問が投げかけられています。
審査員は、船舶や海洋交通にも大変に詳しい人が多くて、
知らなかったことを沢山知りました。
今回の沈没事故では、必ず海難事故につながる要素や要因が、
これほど多かったということにはびっくりしますが、
なんといっても、高校生たちが亡くなったことは残念なことです。
私自身、船舶乗船経験はせいぜい青函連絡船に乗った程度ですが、
審査員、特に、世界中の海での船長さんの話はびっくりです。
たとえば、あの大きな客船から、万一、大洋に落ちたなら、
あるいは、サメに襲われたら、などを教わりました。
しかし、今度の沈没事故で亡くなった若い命はすべてが溺死です。
溺死がどれほど苦しいことであったかを考えると、
海事関係でも、安全と安心は大きなデザインテーマです。
「関西海洋教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」
「Ship of the Year審査会・・・海洋国家だから」
「関西海洋教育アライアンス・6年目」
「『Ship of the Year』審査委員会・日本学士院会館にて」
「海事システムデザイナーが必要」
「Ship of the Year・日本船舶海洋工業界の今後」
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4月 22nd, 2014 Posted 12:00 AM

昨日はロボッティクス研究会で、安全と安心を話しました。
私が「ロボットデザイン基礎学」として体系づけてきたことを、
安心と安全についてを焦点にしました。
この会合で初めて「安心ロボット」の定義が出来てくるでしょう。
まず、「安」という文字には簡潔な意味が含有されています。
女性が屋根の下に居ます。
それはこのまま、女性を守護していく大事さが象形されています。
私は、女性とは世代交代をする性の存在であり、
人類は世代交代する性を最も大切にするという意味があるのです。
そして、「安全」と「安心」は常に二つの概念で守られるべき、と
私は考えてきました。
この考えからは「安全工学」では全く不十分だと確信しています。
そして、四句分別が必要であり、この思考こそ、
安全だから、安心が可能になること。
安心だから、安全が当然になること。
このことを定義づけるべきだと考えてきました。
端的に言えば、安全とは客観的な判断力での査定であり、
安心とはとても主観的な分別力になっているということです。
したがって技術=Engineeringでは、安全の要因のまとめは可能、
しかし、この可能性は極めて客観的であることから、
いくら安全性が確約されていても、安心にはつながりません。
では、安心なことという主観性をまとめ上げることで、
それは客観性につながってようやく安全を取り入れられるのです。
安心と安全が充分になってこそ「安泰」が実感できるでしょう。
これまで「安全ロボット」ではとても主観的な安心性や安心感は、
決して創出はできないと思っています。
そして安全+安心に寄り添うことが清潔さと品格性だと思います。
「安心ロボット」こそ、わが国のある種の技術性の反映だと、
私は信じ切っています。
「安心ロボット」にこそ、性能性・効能性があるから、
ようやく「機能的なロボット」を生み出す基礎概念があるのです。
『ロボットデザインは安全と安心、そして清潔と品格』
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4月 21st, 2014 Posted 12:00 AM

本日、ロボット学者相手に「ロボットデザイン基礎学」として、
安全と安心をテーマにこれまで実際デザインを提案します。
私が本格的にロボットデザインをデザイン学識のテーマにしたのは
阪大フロンティアの特任教授になってからでした。
ひとつは、当時はメカノイド系とヒューマノイド系がありました。
それはロボットの形態論的には、ロボットの存在が、
人間社会に対し安全な存在かという議論の結果だったのでしょう。
私には形態論だけではなくて、中村雄二郎先生からの指導で、
身体論を徹底して学び直していました。
それは安全だけではなくて安心をどう配置するべきかでした。
身体論的には、スポーツとダンスの身体論を選びました。
それはどのスポーツやダンスでも身体の強靭性が重要でした。
端的には「受け身」に代表されるように、
まず、このトレーニングが基本的に大事です。
そこから、私は「舞踊」をテーマに、
「舞」=足裏を見せない能や日本舞踊を参考とし、さらには、
「踊」=足裏を見せて飛び舞うことから、いづれもの美しさを
デザインの効果にするべきという結論から、
私なりのデザイン領域に位置づけることができました。
それは、ロボットという名辞から離れて、ロボット工学を
Roboticsとし、私はNomenclatorというエージェントで、
三つの心の要素を持たせた知能感性ロボットをと、
「ロボットデザイン基礎学」を提案してきました。
その提案を日本のロボット学者にすることになっています。
まず、ロボットを私たち社会の隣人のごとくには、
「かわいさ」という存在意義には、私は次の四つをあげています。
安全で安心な存在は、清潔で品格があることが必要十分条件です。
「ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ」
「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
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4月 20th, 2014 Posted 12:00 AM

「幸」という漢字は幸不幸という言葉となって登場したのです。
私は、幸運がなければ幸福には至らないことを中国の古典書から、
学び取ることができると考えてきました。
三つの例示文があります。
説文では、「幸とは吉にして凶を免れるなり」とあり、
「まさに死すべくして生きたるを幸という」は、論語にある。
小爾雅では、「分に非ずして得、これを幸という」と言われます。
断崖絶壁で立たされて突き落とされれば、そこにはじめて、
幸不幸が試されるということです。
すなわち、生きていれば、これは「幸」であり、
死んでしまえば、これを「不幸」と定説されてきました。
果たして、それは「幸」という漢字の象形性に源があります。
手かせ、手錠をかけられた状態で人は生きているというわけです。
それは全く社会で人間が生きていくには不自由さを強要され、
この状況で断崖絶壁に立たされているのが人生だということです。
したがって、幸運さが吉であり、凶を免れています。
さらに人は分を乗り越える幸運さで、不自由さから解放されます。
一般に人は、「幸」こそ自由で奔放さがると誤解していますが、
形象文字は、手錠をかけられた日常が「幸」そのものなのです。
だからこそ、不幸は解放にも関わらずそれは死を意味しています。
まさにデザインは、その手錠にあたるほどの不自由さでしょう。
だからこそ、幸運をもたらすモノによってこそ、
初めて、幸不幸を区別することで生という幸運さをもたらします。
決して、「幸」とは自由ではなくて不自由さを示しています。
私は、あらためて、一般的な認識を再度学び直すべきと考えます。
幸運であること、そして幸福な人生であること、
その根本は「不自由さ」=「幸」と考えるべきでしょう。
「幸不幸の連鎖の中で」
「災難犠牲=幸不幸の原則なり」
「あらためて『幸』文字の意味をかみしめる」
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4月 19th, 2014 Posted 12:00 AM

子どもの頃に、水栽培を理科で実験したことがあります。
球根を試したことが記憶の中にあります。
未来住宅を企画提案していたときには、システムキッチンよりは、
多分これからはキッチンシステムを考えるべきであり、
それはキッチンには、水耕栽培のシステムで、
緑野菜や根菜類を自家栽培するシステムがあるべきだと、
そのような未来図を描いていた経験があります。
しかしまだそのことは想像力の世界観であしかありませんでした。
ところが、知人から、本格的な水耕栽培を知り、
しかも、その現物=水耕栽培された緑野菜を送ってもらいました。
早速、サラダにして食べましたが新鮮であり美味しくて、
私は未来があると実感しました。
これからの海洋養殖をデザイン企画した経験からも、
「水耕栽培」には大きな未来があると実感しました。
そうなると、問題は、
デザイン対象としての「水耕栽培デザイン」が明確にあります。
いわゆる、液状だけで土壌を全く使わないシステムデザインです。
それは「水」とその量や温度などいくつかのテーマがあります。
すでに日本の農業技術として貿易プラント商材だそうです。
次世代のデザイナーには、こうなると「水耕栽培」デザインを
深く知識とデザイン解決による成果案を求めたいと思います。
大急ぎで、新技術としての水耕栽培をシステム空間化が必要です。
私は、三つの方向があるようだと推測しています。
どのような農産物を栽培していくか、ということの私的公的方向。
水耕栽培商品開発のデザインとその企業化デザイン。
もう一つは、?にしておきたいほど、私の発想が膨らみます。
ともかく、新農業技術とデザインの目標があることは確かです。
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4月 18th, 2014 Posted 12:00 AM

昨年7月に阪大では、3D-Printerがこれからの産業革新という
東京流ブームを一撃すべく、シンポジウムを開催しました。
その再興をインテックス大阪にて、大きな展示会に、
私の研究室からの展示と講演をしました。
韓国からのTV取材も、研究室展示ブースで受けました。
「3D-Printer戦略・3D-Printing戦術」についての講演は、
100名申し込みを超えて多くの人に、私は「モノづくり」を
この米国からのブームを一刀両断して語ることができたはずです。
展示会場にある3D-Printerが米国流の産業革新には、
決してならないことも確認できました。
私の「モノづくり」論は、結局、
3D-Printer機器そのものが国内からは生まれていません。
そして、3D-Printingは技術開発であることを証明し、
戦略・戦術・制作から製品と商品、さらには企画・計画を
企業内活動する「モノづくり」から情報化までを伝えました。
聴衆は想像以上に熱心でメモを取る人がとても多かったようです。
韓国からは大手TV局から報道陣が取材をしており、
私には以前から取材申し込みがありました。
国内ではかつてNHKは米国の流行そのままの報道をしましたが、
これは大間違いを国内に流布した元凶だと私は断定しています。
3D-Printerが決して産業革新するわけではありません。
私はこの大衆化しようという根本は、光造形システムや、
今後、日本が創出していくのは、欧米とは全く違うことを、
やがて発表していくことになると思います。
すでに私の研究室が産業革新していく実例を発表していきます。
光造形でも私が開発を目指してきたのは、人工臓器でした。
これからの3D-Printingでもやはり究極は医療関係も、
とても大きなテーマになっていくと思っています。
「『MAKERS』の正しい受け止め方」
「TV番組の役割は終わっていることを再確認!」
「光造形から3Dプリンター時代に来ただろうか」
「日本の倫理性が3Dプリンターの根本を変える!」
「光造形から3Dプリンターへの系譜は人工人体へ繫がるか」
「3Dプリンターの誤解が未来性を語っている」
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4月 17th, 2014 Posted 12:00 AM

指揮者・コンダクターは、イタリア語・スペイン語では、
尊敬される芸術の専門家として「マエストロ」といわれています。
音楽、特に、オーケストラでの指揮者のパフォーマンスは、
舞踊のごとく好き嫌いがありますが、
最近は、ビデオでも観賞できるようになって、ことさら一段と
とても興味深く面白くなってきています。
指揮者のパフォーマンスには、演奏される音楽内容には、
指揮者独特の自然体の演技性までがありますが、
これを峻別、分別できるのはクラッシックでは重要だと思います。
私は、出発がオーディオ機器のデザインであり、
それは美大の卒業制作も、オーディオシステムでした。
入社したのは東芝で当時、総研の音響研究所で特訓を受けました。
それまではほとんど、ポップスやジャズだったのが、
厳しい特訓でクラシック試聴をほとんど受けたと思っています。
今では、その特訓のおかげで、それなりのオーディオシステムに
自宅の室内が今なお改変をし続けていると思っています。
そして、いわゆる指揮棒も、時代進化してきているのを、
その素材選別に最も注目しています。
私自身は、気に入った木質とタクト部位がプラスチックを
好んで持っています。
たまには、講義の時、黒板ではこれが極めて使いやすいのです。
ワイフには、時折、新しい指揮棒を説明しますが、
収集出来ないのが残念です。
だから、指揮者がどんなタクトを使っているかは気になります。
願わくば、演奏会のパンフレットやCDでも実際は、絶対に、
指揮棒と指揮者の写真は必須だと思い続けています。
マエストロは、音楽の演奏にあたっては、
音楽性とそのパフォーマンスで、確実な音像という音質までを
創出するべきだと思っています。
「ビデオアート・現代音楽・オーディオの統合化をめざす」
「多次元な音響空間はプロクセミクス」
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4月 16th, 2014 Posted 12:00 AM

私は、美大時代にそれなりにカメラを独学しました。
自分の作品撮影をするためにはとても重要なことでした。
東芝時代は、プロ撮影に立ち会ってプロの先生へ質問をしました。
フリーになってからは、ある時、デザイン系誌の編集長から、
「そろそろ君もF氏に撮影をしてもらいなさい」と、
有名カメラマンF氏を紹介してもらい、
以後、肝心な写真撮影をお願いし、その際も色々教わりました。
私なりに決めていたことは、
決してカメラ機器の収集は絶対にしないでおこうと思ってました。
それは多分、私の収集癖では格好の機器だと知っていました。
だから、カメラ選択には相当に調べあげて購入していますが、
気づくと、それなりのカメラが収集はしていませんが、有ります。
絶対にこのカメラなら大丈夫と思って、
デジタルカメラになってからは、私は収集はしていませんが、
集まってしまったようです。何しろ進化しています。
ところが、
この二つのカメラは撮影テクニックを再勉強の要ありです。
ライカは本当に難しいと思っています。
これで「瞬間的一枚」が撮れるとはとても思えません。
一応、レンズは揃えましたが、確実な一枚を撮れるかは不明です。
また、いわゆるポラロイド写真も、機器の進化で、
プロ撮などを見るとここまでこの機種を使いこなせるでしょうか、
そんな不安に襲われます。
ともかく、部屋の一隅に置いて、なんとか撮影力量を上げたい。
ただ、こうして三脚に取り付けておきだけで、
なんとかなると思っている自分がいます。
どうしても精進して撮影の腕を上げたい機種が私を見ています。
「カメラ修行は今なお・・・」
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4月 15th, 2014 Posted 12:00 AM

私は「ロボットデザイン基礎学」というのを提案しています。
恩師の紹介でいくつかの大学にも
シラバスの構成その基本理念として提示しました。
ロボットのデザインに関与したのは、
阪大フロンティア研究機構の特任教授として2006年からでした。
現在、ロボットデザインには「安全と安心」を、
身体論・形態論から、あらためてまとめ直しています。
その時に基本とする書籍はこの二冊が基本と決めています。
「モノの体系」と「心の社会」です。
「モノの体系」は英文原書と読み比べるべきものだと思っています。
特に、安全と安心はこの技術成果オブジェクトとしての形態論、
これを身体論で書き換えることだと思ってきました。
つまり、身体論にとっては、スポーツする身体の安全性訓練です。
たとえば、柔道では受け身の練習が必須です。
スポーツは何事においても、安全な身体訓練が必要です。
それは徹底的な安全な身体づくりです。
いかなる危険な状態でも、受け身のごとく身体が防御可能なこと。
これはトレーニングが必要です。
そうしたことと心の問題は、日本では「道」という思想が、
たとえば、剣道、柔道、さらには野球道というように、
思想で、安全を培ってこそ、安心を確保できるという思想です。
私はロボットの形態はそのままロボット機器の体と同値なのです。
ロボットは、まさに、未来的な技術を思想で取り囲んで、
まず、「安全」である機器として存在し、
その存在性そのものが「安心」を何の抵抗なく受け入れられる、
そんな存在として、人間社会との関係を創りあげていくべきです。
「ロボットデザイン基礎学」にとって、
この二冊の書籍は定本だと考えています。
『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
「ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ」
「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
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