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『極めつけの万年筆で「白」を確かめる』


   


     11月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM

「白」工業製品で確認するには、
この万年筆とボールペン・ローラーボールペンで明らかになります。
もういい加減にこの趣味は辞めるつもりですが、
カーデザインにしても、皮革の白にしても、「白」には、
実は大変な「白」が一杯あるということです。
右から、ベルサイユ、スーベレン白、そしてグレタガルボ、
私が万年筆で選び抜いた最高の白とその比較ができます。
ベルサイユでの金との組み合わせは、これは多分最高の商品性です。
スーベレン白は、やっと完成した最近の商品であり、
スーベレンというこのメーカーで、
ほぼなんとか出来上がったそんな気がしてなりません。
無論、万年筆の黒・ブラックには、つや消しと光沢仕上げで、
黒と言えども明確な差異性があります。
ところが、白に至っては、
スーベレンでもおそらく何度も試しことでしょう。
やっと商品が出来上がったという印象です。
グレタガルボについては、この形態言語での白と黒の対比、
形態=かたちにおけるまさしく女優ラインには、
造形デザインのある意味では極致性が明白です。
ともかくこの三つだけでも「白」には色んな色があるとわかります。
最も、ここまで拘って見詰めているのは、
昨今の車や新幹線、飛行機の白には納得いっていないからです。
たとえば、色彩論的な考察で考えると、
古典的にはマンセルとオストワルトがありますが、
これらはほとんどが減算混合でした。
しかし、デジタルの世界になってからは、XYZ系で
アナログとデジタル相互性が必要です。
おそらく、一般的には拘りがないかもしれませんが、
繊維で綿と絹ではまったく白が異なるように「白」はどうするかです。
エスキモー民族が一番白表現の言語を持っていると聞いています。
ともかく、たとえば皮革での「白」は日本でしか染色出来ない、
そのようなこと程度ぐらいは知るべきです。

* 「ボールペンスケッチのためのモレスキン」
* 「欧州の紋章とタータンチェックから学ぶこと」
* 『ペンホルダーある組み合わせの筆記具は自分表現』
* 『手づくりから物事デザインと事物デザインを決める』
* 「書くための万年筆の真の意味」


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『新製品のモニターとして万年筆を試す』


   


     8月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

筆記具の王様は万年筆だと思っています。
「文字を書くこと」にはとても強い想いを持っています。
そして不思議なことは筆記性には遺伝があるのではと思っている次第です。
父の兄弟と私は筆記力がそっくりなことです。
確か、自分と父は筆記力の検定試験を受けて、
筆記検定1級になったことがありますが
その証明証は実家に残っているはずです。
ともかく、父方の伯父や叔父とは筆記力は毛筆であっても、
楷書についてはとても似ています。ソックリな文字を書きます。
「書く」という行為は「欠く」=知識を埋める作業だと考えてきました。
そして筆記具では、
毛筆の筆先は柔らかくボールペンや万年筆のペン先は紙より硬いのです。
これが筆記具の文明論の下敷きだと考えています。
実はドイツの有名なブランドあるメーカーの
新製品すべての書き心地を試してほしい、そんな依頼があり、
そのシリーズで自分の好みのモノは進呈されるということなのです。
何と言っても万年筆・ボールペン・ローラーボールペンは、
少なからず、出張でも使わなくても持ち歩く性格です。コレクターです。
国産の万年筆は性能はとても優れていますが、
グローバルに闘えないデザイン不足を感じています。
やっと先般も紹介した日本製で2500万円の万年筆が登場しました。
ところがこのドイツの有名な鉛筆から様々な筆記具メーカーの
新製品である万年筆は廉価版でした。
ペン先の硬度はこのメーカーの鉛筆硬度にとても似ていました。
スマホやパッドなどデジタル筆記具が進化すればするほど、
万年筆とそのノート類はますます進化しているようです。
ただ自分としては
21世紀ならではの発明的な進化があってほしいと思っています。
自分の筆記力は楷書と読みやすい行書や草書が
日本語だからこそあってほしいと願っています。

* 『書く事のモノは最初から進化を続けている』
* 「プロとして元気の素は鉛筆への作法」
* 「今年革新だった万年筆を再度確認」
* 『万年筆メインテナンスから見えている現実』
* 『最高級品=最高価格であるべき万年筆の登場の意義』


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『モノに無頓着であってはならない!』


   


     10月 31st, 2014  Posted 12:00 AM

iPhone6 Plusがあれば、もうそれでいいのかもしれない。
そんなことを自分の生涯にいくたびも納得をつけてきたようです。
いわゆる携帯電話が車載用になったときから、
車倚子の私は、いち早くほぼ国会議員の人が車載用からのように
使い始めてきました。
私は職能的にも、モノ(人工的な物)を多分詳細に自分用に、
拘り続けてきたと思います。それはなるべく自分用は、
自分のデザインでと考えてそれを職業の対象にしてきました。
なんといっても、時計、メガネ、万年筆、そして今ではiPhoneです。
したがって、この周辺もこれでなくてはならないという不文律が
私には明確にあります。
それこそ、今やケータイもはっきりいえば、2機種しかありません。
それほど、実際のダンディズムにはモノを身体化する意味ありです。
大きな理由があります。
「大物主の命」と「事代主の命」に日本人は従うべきです。
結果、身に付ける特にモノは決定されているのです。
この手帳をみれば、おそらく、人類が最も「手帳」の最高は、
いわばこのブランドに決まってきます。
万年筆って、最高のモノと尋ねれば、それが2500万円のモノもある、
ということまではほとんど知られていません。
これはローラーボールペンですが現在、最高のモノづくり成果です。
したがって、いわゆるファッション雑誌を見ていても、
なんとセンスの無いモノ選び雑誌は、必ず、消滅していきます。
まして、スマホとなれば、何を選別して使っているかは、
その人物の存在性=価値感を表していることになります。
私は尋ねられればそのモノを選んでは本当は間違いですと言いますが
最も身近にするモノを見れば、その人物の生き様は、
自ずと、「大物主の命」と、会話不能の知性を知ってしまいます。
とりわけ、現代ツールであるスマホは、
「事代主の命」の伝統と対峙していなければならないのです。
したがって、商業主義としての商品ともなれば、
その商品供給、その企業家のダンディズムの品性は明らかです。
恥ずかしくもなく、よくこんなモノを商品にしてまでも
儲けたいのか、とか思うと、殴ってやりたくなるものです。


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