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Posts Tagged ‘障がい者’


12月09日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

12月09日 先勝(庚午)

障がい者イジメは、
「差別」である。
よって、
差別はあってはならない。
商品の「差別化」は、
ユーザーの差別である。

川崎和男の発想表現手法


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「哀しみのデザインから楽しみのデザインへ」


   


     8月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

1989年にあるメーカーいくつかの支援で、
私デザインの車倚子を名古屋にて発表をしました。
それはアルミハニカムコアの車輪、これはセスナ飛行機の羽根部蒸着炉と
すべてチタニウム溶接、ゴム製でのエアー制御のローホークッション。
これは世界的な評価を受け受賞と収蔵になり、MoMAのコレクションです。
以来、この車倚子を乗り越えたモノはまだ無いと判断しています。
しかし、私も年齢とともに身体には変形が起こるとともに、
電動がとても重宝するようになりました。
最初の車倚子デザインは「哀しみにデザイン」を掲げました。
デザインは喜怒哀楽を主眼とすべきがテーマでした。
そして、このところは「楽しみにデザイン」を主眼として、
電動車倚子=これは私の足ですから全くの「一人称デザイン」です。
今では電動車椅子が多種多様に商品化されていますが、私の評価では、
肝心のいくつかが全く気づいていないことが多すぎます。
デザイン賞授賞であっても「これは歩けない老人には」使えるでしょうが、
とても脊髄損傷で、頸椎・胸椎での障がい者には「全く使えないモノ」が、
やたらと氾濫していて、私はデザイナーである前に障がい者として、
絶対に認めるわけにはいきません。交通や建築のとの不都合さが増大し、
ユニバーサルデザイン?、バリアフリー?、これが私の気持ちです。
そんなことを解消解決するには、ひたすら新素材の開発と、
美大同期の光野氏がシーティングエンジニアリングにて、
三つの方向を組み立て、そのスケッチもすべてiPad上で行っています。
三つの方向は
● シーティングエンジネアリングでの「身体保持性能と機能」の高度化
● 電動車椅子として超軽量の折り畳み可能な「走行性能と効能」の充実
● 前輪駆動によるインバーターと無線化での「インターラクション効能」
これらがすべて障がい者補助者への機能に合致させるべきと考えています。
さらに、iPadでのスタイラスも決定してきたことです。
今iPadでのスケッチでとても有効なことは左右利きなので、
右手でも左手でも本当にペンシルスタイラスで何枚も描けることです。
ただ困難だろうと予測していることは、
新素材や新しいキャスターなどの支援出来うる技術企業の発見です。

* 『哀しみのためから楽しみのための電動車椅子開発へ』
* 『二人称のデザインをめざす超軽量と収納性の車椅子開発』
* 「車イスデザインのための文脈づくりに気づく」
* 『超軽量で収納コンパクトな電動車椅子をめざして』
* 『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


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『レジリエンスデザインチームで少しでも支援を』


   


     4月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

熊本の地震状況は日毎に悲惨さを増してきました。
正直、何も出来ません。
自分のような車イス使用者は活動停止を強いられます。
九州の障がい者の知人たちからも実情が届きます。
現地の崇城大学で教員の後輩、九州大学の元私の准教授が
中心になって「レジリエンスデザイン」活動をしています。
そこで、大阪大学で中核整理をしたwebsiteに、
いくつかのデザイン系、建築系の大学からも支援を受けて
「レジリエンスデザインチーム」をつくっています。
何が出来るかといわれても、デザイン・建築の教員とその学生で、
少しでも「レジリエンスデザイン」の知恵を集めることが出来るはずです。
レジリエンスとは、ストレスやプレッシャーに、
身体的・精神的に克てること、それをデザインできうると考えるからです。
自分はコンシリエンスデザインを提唱して、
その対象の一つにレジリエンスデザインがあると主張してきました。
しかし、「まさか」ということが熊本、九州で発生してしまいました。
九州大学では丁度、「レジリエンスデザイン」がデザインテーマだけに、
即、実務活動でその実績を上げていってもらいたいと願っています。
改めて「レジリエンス」がデザイン・建築で再補強されると思っています。
自然、その天災は、とてつもなく人間を活動停止させてくるものです。
しかし、人間は天災のストレス・プレッシャーに克たなければなりません。
そんなチームになってほしいと素直に期待しています。

*『コンシリエンスデザイン看医工学の学際化』
*『あれから20年・・・阪神淡路大震災のこと』
*『コンクリートから解放されること・今世紀のテーマ』
*『Consilience Design Phenomenaの形態・制度設計の効用』
*『「土地の記憶」は鳥居の位置その変遷にある』


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『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


   


     4月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

「Inclusive Design」があたかもユニバーサルデザインや
バリアフリーデザインとの明確な差異があると言われています。
これらはこれまで以上のコンセプトとして次世代デザインとなってます。
InclusiveにはExclusiveが対極しているために、
排他的なデザインということがこのデザインの論理背景になっています。
が、これほど根本的な論理性を逸脱したデザイン解釈は大間違いです。
理由は二つあります。
まず、電子工学的なXOR回路を考えれば、Inclusiveとはどういう回路?
もう一つはInclusiveとExclusiveは人称関係という正確な言語論理です。
つまり、一人称のデザイン=私だけのデザイン、
二人称=配偶者、恋人、身内や友人の対面する貴女のデザイン、
そして、彼、彼女、彼ら、彼女らという三人称のデザインが
言語学の人称としてインクルーシブ性があるということです。
一人称・二人称ははっきりと対面しますから、
デザインしたモノ・コトについて直接的な対話が可能です。
ところが、三人称で対面出来ない彼らは
すでにエクスクルーシブ性が含まれてしまいます。
つまり、エクスクルーシブ性とは、対話・メッセージ性が
排除されたグルーブ全体を指示しています。
したがって、インクルーシブ性という排他性を無くすという論理、
それはすでに成り立っていないということです。
もっと、明言すればデザインには、
インクルーシブ性は人称デザインとして
まず自分のため、そして、
その評価をあなたにというインクルーシブ性があり、
第三者には排斥してきた老人や障がい者も対象とすることは
デザインの進歩が語れるに過ぎないだけのことです。

*『ケータイの人称会話からのオントロジー』
*『Inclusive Designの定義に向かって』
*『一人称・二人称がInclusiveの基本定義』
*『つつましさによるインクルーシブデザインへ』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


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『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』


   


     1月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

この車輌を準備していただく方々には大変申し訳ないのですが、
車椅子対応車輌として、このデザインは大間違いです。
かねて、グッドデザインの審査員・審査委員長時代に、
私はこのデザインは、認知症の車椅子使用の方々には必要なデザイン、
ということで認めてきましたが、
車輌メーカーデザインの車椅子認識大間違いだと主張してきました。
まず、30分程度の移動なら、車椅子で車輌に乗っていることができます。
しかし、車椅子で車輌内で固定されて乗っているのは苦痛です。
おそらくこうした発言を私はする義務があると思っていますから、
あえて「間違いのデザイン」と言っておきます。
最近は、車輌のシートがそのまま電動車椅子になっているのが、
わが国の進化した車椅子使用者の車輌デザインだと認めます。
先般もベンチャー企業で「車椅子開発」を見ましたが、
これも大間違いのデザインを進めていました。
健常者の人が車椅子に座って移動するのは「腰」を使うことができます。
ところが、車椅子使用者は腰では車椅子移動は不可能です。
明確なデザイン使用者に対応したデザイン設計無くして開発は不可能です。
車椅子にて移動をする障がい者と、
健常者使用車椅子へのデザインは区分・分別されることが肝要です。
また、腰椎・胸椎・頸椎での障害程度によって車椅子デザインは、
それぞれが全く異なることを述べておきたいと考えます。
正直私は1989年から自分のデザインした車椅子(MoMAコレクション)
使ってきていますが、加齢とともに、細部の変更をしてきています。
そしてもはや手動は諦める年齢になってきました。
今、メーカーと「電動車椅子の設計」に苦しんでいます。
なぜなら、私が納得できる電動車椅子が皆無だからです。
したがって、せめて車輌の車椅子対応デザインは熟考と実現を望みます。
また、車椅子使用の運転者のための車輌変更部品設計も、
「国際化」が望まれます。
その詳細については、わが国の制度設計へのデザイン提案が必要です。
高齢社会のわが国はもはやその制度設計が必要になってきたようです。


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「題名(差別用語ゆえ)で語りきれない作品」


   


     7月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にとって題名=タイトルは、作家の意図です。
けれども、当時は社会的制約の無かった言葉表現が、
時代と社会によって、題名の絶対的な変更を余儀なくされたら、
作家の狙い・意図・思想は欠損します。
この絵画は描かれた頃、このような人たちが存在していた証です。
四つほど欠損と切断の症例があるものと解釈されています。
 ・先天的な下肢欠損
 ・戦争負傷ゆえの切断
 ・後天的な病気での切断
 ・この絵が存在する場所性・風土病での切断
絵画登場の4人は、上記のそれぞれですが、
彼ら集団を当時は「●●●」(現地呼称)と呼び、
そのまま題名=意図にしていました。
後ろ姿の2人も明らかに障がい者です。
ピーテル・ブリューゲルは、
「●●●だからどうした」という理念があったようです。
●●●の日本語訳はすっかり差別用語です。
「足なえ達or足の不自由な人々」というタイトルになっています。
こうした芸術作品タイトルを差別用語は公認されるべきとの
私の見解と主張を持っています。
私自身が●●●と自称するのは構わないと思って、
講演などでも自称を意図していたところ、
差別用語消去団体から、徹底的な「差別」攻撃を受けました。
この団体との闘争は2年間かかりましたが、
私の主張を彼らは容認では無く、
それ以来、私には「攻撃停止」の旨まで伝えられました。
私が学んだことは、二つあります。
作家の創造性のタイトルは「意図すること」ゆえ、
「意図されている」ことは、
人間社会として容認するべきでしょう。
もう一つは、差別用語が人格否定では無い限り、
人類の資産として語りつぐべき言葉文化です。
これを人類から欠損させるべきではないと確信しています。


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「最も、障がい者の存在を描いた画家」


   


     7月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

オランダ・フランドル地方に画家がいました。
その画家はピーテル・ブリューゲルです。
彼はその当時のルネッサンス華々しさを多分知らずに、
一般的には「農民生活を描いた画家」として有名です。
ところが彼の絵画には多くの障がい者が描かれています。
彼の描写力はほとんど写真的な写実正確性があります。
だから、障がい者はいっぱい存在していたと思います。
当時はそんな彼らを周囲はどう見護ってたのでしょう。
16世紀中頃です。
ただ、彼の絵は多分、そうした人たちの存在を、
ある種の教訓的な意味もあったという解説も見かけます。
しかし、私は人間には全ての人には、
外観の差異性が多様であることを描き分けたのでしょう。
それは、彼の農民生活を描いていた視線、
彼の眼差しの方向を詳細に見れば分かってくることです。
たとえば、農民の結婚式情景は、
どの方向から画面設定をしていたのかなどが実例です。
彼の障がい者を描いた絵を追いかけたメモを残します。
さて、この絵画にはどれだけ多くの、
どのような障害を持っていた人物がいるか、
確認をして下さい。


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「ヒエログリフにも障がい者は描かれている」


   


     6月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子生活、障がい者になって以来、
私は徹底的に歴史的、絵画的、文学的など、
その領域に登場する障がい者を
趣味のごとく収集してきました。
このヒエログリフは、
元来はヒエログリフ文字という象形文字から、
アルファベットの形態を探っているときに発見しました。
女性は、確実にヒエログリフでの説明があり、
現代医学的には筋ジストロフィーではという予想があり、
もう一つは確実にその時代にも、
小児麻痺があったことを示しています。
最近では、クロマニヨン人の時代に、
障がい者を家族が看ていたという推測もあります。
この推測の系譜を私はまだ追いかけています。
要は、人間の心情に備わっている「同情」と言う心理、
心理学的には他愛主義に結びついているでしょう。
しかし、自己主義の極点は、非情です。
この非情性に宿るのが「差別感」が入り込むのです。
結局は、人間の心理の異常性を自己認識することです。
この自己認識ができるかどうかは、
自分自身の無知性が引き込んでくるものと思います。
私は多分、車椅子にならなかったら、
ヒエログリフ世界に入り込むことは無かったでしょう。
ヒエログリフを知ることは、
無知性から開放される大きな手がかりでした。
無知性への直接的対決は、
「知識」の獲得であることは間違いありません。


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「資本主義からの逃走」
 「喜怒哀楽すべてに『痛み』あり、母の形見」
  


   


     2月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽の痛み
私はある日突然、障がい者になりました。
交通被災直後、手術麻酔覚醒直後はじめ、
ともかく病院で、命を限界で支えているときの
身体的・生体的な痛み=苦痛は耐え難きものです。
痛い経験なんて生まれてから数え切れないほど体験するはずです。
にもかかわらず、損傷した部位の痛みは天候季節、
さらに精神的に自分を確認しなければならないとき、
その『痛み』は激痛を超えるほどのものです。
しかし、生体的な痛み以上のものが、
喜怒哀楽すべてに潜んでいます。
どんなに考え込んでも、最も哀しいことは死別です。
痛みを識るという母の形見
私は、被災後、自分が激痛のときになんとしても置き換えてイメージしていたのは、
癌で苦しんでいた母のことでした。
47歳で逝ってしまった母は、
当時、腸捻転で腹膜炎の疑い程度ということで手術を受けました。
そして開腹したらすでに消化器系すべてに癌はひろがっていました。
手術室に呼ばれた父が卒倒し、今度はすぐに私が呼ばれて、
ドクターは胃から小腸までを両腕で抱き上げて、
「手遅れだから、このままで縫合する」と告げられました。
この時の場面を思い出せば、
『痛み』は二重になりつつもかき消されたかのようになります。
喜怒哀楽の痛みから確認すること
人は、喜怒哀楽が生涯に連山のごとく高低ある振幅に乗せられ揺すぶられ、
時には、喜びにも楽しみにも『痛み』は潜んでいます。
当然、怒りと哀しみの『痛み』は、自死を決意しようというほどのことも起こります。
そして、この喜怒哀楽は、各自だけの同一性、その確認に密着しています。
つまり、『痛み』は自己の存在性、その確認に直結しているということです。
障がい者になって、たった47 年間の生涯、
その21年間を私に与えてくれた『痛み』から学んだ「母からの形見」です。
私は、同一性の確認とは、
喜怒哀楽すべてにある痛みを識ることに尽きると確信しています。


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『資本主義からの逃走』
  「生産と消費、その資本主義の構造化の破壊」


   


     12月 18th, 2009  Posted 10:00 AM

18seisan

「生産」と「消費」の世界で、
大量生産と大衆消費の構造に私は生息していました。
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私はすでに資本主義に何の疑いもためらいも無く、
大企業で社会人デザイナーとなりました。
ただ、その企業が儲けるよりも、
自分の提案デザインが、
「商品化」されることに驚喜していました。
そんな私ですら、「生産」と「消費」の構造の中で、
「デザインは付加価値」ということに対して
やり切れない憤りがありました。
もっと賢明なデザイナーとしての発言力を持ちたい、
その想いをぶつけたのが、
構造主義、記号論、マルクスの形態価値論に出会います。
ミシェル・フーコーに出会います。
ジャン・ボードリヤール
の批判に、「かたち」で、
この思想と対決したい。
ソシュールモーリス・メルロー=ポンティデリダ、のとめどなく
深い思考の森の中に入っていきました。
この森の中でも、せっせと「モノのデザイン」は、
決して、「付加価値を生み出しているのでは無い」という
直感を信じていました。
おそらく、私にその啓示がめぐってきたのは、
「言葉と物」、「物の体系」をはじめとするどこかで、
マルクス臭のある論策でした。
結果、
結論は、「デザインは付加価値では無い」ということ。
「デザインは全体価値」、
だから、
091218desire2

であったデザインをどう解放し、
その証拠立てをしていくことだったと思い返しています。
point of contactという「生産」と「消費」の結合点に、
デザインを配置し直そうとしましたが、
すでに、時代は、「生産」して「消費」することが、
どれほど、今度は私たち自身の「存続」、
地球環境の破壊が私たちを取り囲んでしまったわけです。
それでも
●「欲望」あるいは「フェティシズム」は、誘惑的です。
●「希望」あるいは「ダンディズム」は、魅力的です。
そうした私が障がい者になって、思い知らされたことは、
「喜怒哀楽」でした。
091218kidoairaku

091218kanashimi1

には、「医学」と「デザイン」によって、
「生」と「死」を
根底から見つめ直すことでした。


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