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Posts Tagged ‘起源’


5月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 4th, 2021  Posted 12:00 AM

5月4日 先勝(壬子)

『始計としてのデザイン』

デザインのための
デザインの計略づくりから
始めること、
デザインの起源に遡求し、
その原点での
優秀と愚劣を検証し、
なおかつこれまでの
経緯に縛られない
デザインゆえの
強さを保持し続けること。

artificial heart:川崎和男展


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4月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 23rd, 2021  Posted 12:00 AM

4月23日 友引(辛丑)

『始計としてのデザイン』

そこで、
デザインの起源を、
ひとまず生活のなかに
芸術の意義を革命として
志したあの
ロシア・アバンギャルドに
置くことで、
昨今の世界的事件の
意味するところをとらえ、
今後への展望、
すなわち
デザインを
計画のための計画、
忘れ去られたことば
「始計」に求めてみたい。

artificial heart:川崎和男展


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『武器も兵器も、戦争ではなくて「スポーツ」である』


   


     8月 3rd, 2019  Posted 12:00 AM

戦争という言葉だけで、特に日本人は大嫌いです。
様々な技術開発が戦争の武器や兵器となることは当然危惧しています。
同時に、デザイナーとして武器や兵器には
造形と技術の知識に、ダ・ヴインチの如く関心を持って見ています。
知識と発想がなければ開発することも、正しく有効利用することも、
問題解決することも、平和的利用にもつなげられません。
「戦い」はそれこそ戦争ではない勝敗で、
新しいスポーツ化されないものかと考えています。
サッカーの起源が、戦争で勝った敵国の将軍の首を蹴って
祝ったことからとされていますが、
今はその競技には行き過ぎた行動を伴うほどに
血が騒ぎ熱狂を持って楽しむスポーツです。
そしてスポーツ選手は、英雄になり多くの人達に、
感動や勇気を与えています。武術や武道も戦闘法から、
その型の美しさや技の強さを競う勝敗をつける戦いとなり
身体と精神とも自分との闘いにより磨かれ、
その道を学び、極めていきます。
空手などの美しい動きの型はロボットの動きにも転用されています。
例えば、伝統工芸としての打刃物、刀剣も、
武器から神格化までその時代で役割や技術その継承が重ねられています。
日常の道具としての刃物も武器になる、人を傷つける可能性をもつ以上、
それを産み出すモノづくりには、
「生」をかけて、取り組まなければなりません。
結構な刃渡りの刃物をどこにでも持ち運んで使いましょうという
軽快なコンセプトでスタイリッシュなデザインされた刃物ケースは、
素材も相応しくなかったけれど、県か市のデザイン賞が与えられており、
銃刀法も知らずに「馬鹿が選んでいる」と想像がつきました。
話は展開してしまいましたが、
さて、コレはまた進化している「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦」です。
「そして私は、戦争ではないスポーツとして、
その駆逐艦を考えていた男がいた」と言われたいです。

*駆逐艦


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『C.I.が先鋒でブランドは歴史が創っていく』


   


     4月 20th, 2019  Posted 12:00 AM

ブランドとデザインについては、その起源は「牛のタグ=耳標」ですが、
一斉にブームになってきたのは、「ゆるキャラ」だったと思います。
幸い、東芝では企業留学で「C,I.」=Corporate Identityの理論や戦術を
身につけデザイン部内で共有され、独自性をもって練り上げられました。
私は、AurexのHi?Fiブランドでのブランド戦略よりも、
Identityの概念をE.H.エリクソンの8段階説から賢明に学びとり、
C.I.戦略によって、フリーランスから学者として歩いてきました。
だから、相当数のクライアント企業の戦略に携わってきました。
私はブランド戦略とC.I.戦略をしっかりと分けて組み立てています。
今もある企業の沿革とその精神を表すC.I.戦略をやっています。
これは新作を発表する時に全てを見せる予定です。
おそらく、新作も新たな素材を2種使います。
日本でのブームとなってしまったブランド戦略は、
勝手な政策をも産み出し、随分と蔓延しています。
私は「デザインあるいはデザイナー」の役割として
不易流行に取り組んでいます。
その効果がAurexのHi-Fiブランドとして、
連鎖して、今も残っているのかも知れません。

*「牛」のブランド化

*E.H.エリクソンの8段階説


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『白川静先生(福井)と藤堂明保先生の漢字語源に興味』


   


     1月 8th, 2019  Posted 12:00 AM

小学生の頃、漢字についての講演を2度も講演を聴きました。
この講演が漢字への、つきない興味の起源となっています。
私は、父親の転勤に合わせ転校をしていて、
福井市の足羽小学校と、越前市(元・武生市)の西小学校に通いました。
このどちらの小学校でも、
漢字の語源学者である藤堂明保氏の講演会が開かれました。
あとになって分かったのは、
藤堂明保氏と、福井市出身の白川静氏は、論争対決をしていたのです。
白川氏は、福井県が生んだゆかりの人です。
どういう経緯かはわかりませんが、
藤堂明保氏は福井県内の小学校からの依頼で講演を行い
子ども達に漢字への興味を抱かせてくれました。
また、漢字は書として父から学びました。
「月」でも大きくは二つの書き方、止めや払いの違いを教わりながら
書に取り組みました。
今も漢字への取り組みは変わりなく、
藤堂氏の漢字語源字典と白川氏の字統、その見解を両方見比べています。
二人とも共通の解釈もあるのですが、
たとえば「口」などは異なる見解で争っています。
漢字の語源は、藤堂氏と白川氏から、その後の展開はしていないようです。
私は、漢字の象形文字から会意文字、指事文字、形声文字などには、
日本人として誇りがありますし、素晴らしい文字展開です。
一字一字、大切に扱いたいと思います。


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『アップサイクリングの真のリサイクルとは!』


   


     6月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

「アップサイクル」が一つの話題になりつつあります。
大阪大学の私の研究室にも、社学連携課経由で、
ある行政と企画企業から依頼が持ち込まれました。
幾たびかの打ち合わせ後、この企画はデザイン職能団体に、
企画・運営・ワークショップ・コンペの開催などを一任しました。
ワークショップはデザイン学生などを巻き込んで開催され、
その報告書などを読みました。しかしどうも違和感が残っていました。
論理的な内容を時系列的に再確認をしました。
まず、「アップサイクリング」という新たな産業形式の創案は正当でした。
しかし、根本的な過ちを発見しました。
この発見をリサイクルに照合して実際のデザイン実務との結びつきを、
あらためて検討し始めています。
まず、大きな過ちはリサイクルがサスティナブル思想であるという、
経済理念の間違いがありました。
従来のサスティナブル(持続可能)は
欧州の酸性雨対策を起源としています。
よって、リサイクルとは本当は無関係です。
このことにより、
工業生産しかも大量生産時で発生した素材廃棄物を再利用することで、
大量生産されたモノ以下の製造物に落ち着いてしまいます。
アップサイクリング(up cycling)ならば、リサイクルされた生産物は、
リサイクルされる前以上の性能性・効能性によって
新たな機能性を獲得する必要があります。
この発想が根本的に欠落しているという、
新規デザイン実務上では最も希求されている
現実生産を知ることができました。
ただ単に廃棄される素材=端材を利用する
製造システムでは無いという、この再確認が必要です。
そのサンプルとなるプロジェクトを開始します。

*『サービスの勘違い・地球に『優しい』?』
*『石畳の街、その文明と文化』
*『カーボン素材の3D-Printing開発をめざすことは・・・』
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』
*『デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから』


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『思考の「考」は思うことを経験が判断する』


   


     1月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」の前に僕は「思」についての概説をしました。
「思」という象形文字は頭蓋骨と心臓の組み合わせにより、
直感的で即応性のある認知を表しています。
そこで、次には「考」についても漢字の象形文字から、
系譜としての意味=原意を僕は求めておきたいと考えます。
これは「思う」という感性的即応的なことではなくて、
象形文字に至る系譜を見詰め直さなければいけません。
なんといっても「考」という漢字は、「老」にその起源をもちます。
「老」とは、白い髪が伸びて腰が曲がった人間、
つまり老人を意味していると言われています。
まさにこの老人とは、様々な人生経験を積んできた存在の姿形です。
この「老」という姿形をシンボル化している象形文字に対して、
老人が杖を持って佇んでいる姿形、
その象形が「考」となります。
これは経験がある人間が立ち止まって何事かを思い続けている風景です。
経験が直感を思い続けて思い込んでいる姿形だと考えることが可能。
思いの連続性に経験での判断が認知を支えて認識につがっています。
「思」があくまでも頭蓋骨の泉門と心臓での感情のままの生理性に、
体験や経験がその判断を再構成することは、
老人の佇みを後継の世代にも受け継がせることです。
それは教育で培ってしまうことでそれを人類の教養に継承させられます。
結果、直感として思うことを停止させて認知判断させることが可能です。
「思考」と「考思」が本来はあったのですが、
今では一般的にどうしても「思い考える」ことと、
「考えて思う」ことがあっても、「考思」は忘れられています。
しかし、僕はこの二つを再配置することで、一方に思慮があり、
一方に考慮があり思惑と考察が見事に直感=主観と客観があるのでしょう。
思識・思念と考証・考査も直感と判断のために思って佇んでいる姿形です。
「思」と「考」が時間軸と経験軸を認知の行動を明確に分離しています。
僕は
「・・・と思います」
「・・・考えます」、この二つには
思的な考証と考的な思識があるということです、
僕らが思惑することに決着するには考証が必要だということです。
思うことは考えることで認識がまとまるということになります。


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