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Posts Tagged ‘社会構造’


9月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 29th, 2020  Posted 12:00 AM

9月29日 友引(乙亥)

『技術としてのデザイン』

つまり、
テクノロジーであれ、
エンジニアリングであれ、
テクニックであれ、
集積された技術の集約化が、
人間本来の快楽的感性に
個別にベストマッチングしながら、
統合化された感性の集合体としての
社会構造化につながっていくこと、
これこそ技術成果の
理想郷であると考える。

artificial heart:川崎和男展


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『贈与と収賄が「新しい生活様式」の経済様式』


   


     8月 15th, 2020  Posted 10:55 PM

コンビニに行ったら、私の社名どおりの「オー・ザック」がありました。
OUZAKはカズオの逆読みです。
これで、お客さんに瞬間的に贈れると思いました。
そこで、 贈与と収賄がレビ=ストロースの
「野生の思考」などが思い浮かびました。
贈与と収賄が、今も法的な大きな罪になっています。
それが現代の社会構造が「経済社会」になっているという罪悪感なのです。
ひょっとすると、贈与と収賄が
今後の「新しい生活様式」を成し遂げるかも知れません。
私は贈与と収賄をもう一度再考するべきかなと思います。
 ■ 贈る行為=経済
 ■ 受けとる行為=経済
 ■ 返すという行為=経済
こうした行為=経済は新たな生活様式に必要なのかも知れません。
もはや「経済社会」での贈る・受け取る・返す、という
現代の経済を壊すのかも知れません。
「オー・ザック」というお菓子で、「贈れる」と思った瞬間でした。


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『イートピア』新しい都市創造の原理のチェックシート


   


     5月 14th, 2020  Posted 3:33 PM

『e-』トピア
新しい都市創造の原理 
ウィリアム.J.ミッチエル・著

現在、私たちは地球規模の大変な医療崩壊に入っている。
これには、情報化と情報の社会構造の変革が述べられている。
これを「手がかり」にして、
パンデミックの都市構造とインターネットでの
新しい改革をチェックしている。


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『やっぱりamazon goが登場してしまったようだ』


   


     2月 7th, 2017  Posted 12:00 AM

商品を売る、これは歴史的には大きな変遷がありました。
まずは、「商」の国が物を売る方法から始まったから、
「商」の人が扱う品物で「商品」となり、それは店舗販売。
その店舗が百貨店になり通信販売はインターネットにまで進化しました。
百貨店が駄目になり、スーパーマーケットはコンビニに変貌。
そしてamazonの登場は、このロゴタイプでのA→Zが
見事に情報社会とコンピュータ技術進化とともにさらに進化したのです。
正直、私自身は書籍からそれこそ電気製品・生活用品・文具に至るまで、
ほとんどの商品購入がamzonになってしまっています。
日に必ず一つから5つぐらいがamazonから届く有様です。
さて、もう一つ重大な技術には人工知能=AIの様々な応用があります。
商品の集配でのロボット化や商品流通での新しい流通方式です。
すっかり、今ある大学に一つの職業を求めたところで、
その学生が卒業したときには、
その職業は無くなっているという予測があります。
AIによって、職能変化のスピードはさらに変化すると言われています。
そこで街中のコンビニ形式では、
AIの具体化が明確になろうとしているのが、
これからの販売形式の大変革であり、その第?段目店舗が
amazon goとなりました。
おそらく、この店舗での商品購買方式は、
すでに店舗形式が大きく変わってきました。
私はAIとロボットがこうした販売形式や店舗方式を変えるとは思っていません。
AIもロボットも超えた新たな方式が登場してくると推測しています。
おそらく、街の景観はとんでもなく変貌するでしょう。
それは、自然と人工での最先端がリサイクルどころか、
もっと変化と変貌を新たな人間意識に入り込んでくるものと想像しています。
その最初がamazn goとしての存在がわが国にやってくるときの
AI、ロボット、さらにはリサイクルからシェア方式など、
社会構造の大変換が待ち受けていると想像するべきでしょう。

* 『車社会は必ず大変動を起こすだろう・カーシェアリング』
* 『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』
* 『リトルコンピュータピープルの顔色は人工知能要素かも』
* 『アップサイクリングの真のリサイクルとは!』
* 「光造形から3Dプリンターへの系譜は人工人体へ繫がるか」


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『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


   


     8月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

哲学というと「機械について記せ」ということが浮かびます。
それは美大時代に哲学という一般教養の試験問題だったからです。
その正解が何であったかということよりも、
次に思い浮かぶのは「独身者たちの機械」とか、
それを題材にした大ガラス作品を芸術の一ジャンルというより、
芸術とは何か?を聞くよりも「何が芸術か」という接し方を教えられた作品。
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という理解困難さです。
大ガラスは二分され、上部は花嫁であり下部は独身者たちの機械という対比。
これはコラージュより明らかにアッサンブラージュという形式でした。
少なからず花嫁と独身者は女と男であり、社会構造での人間の欲望装置。
花嫁と独身者たちの機械を結びつけているのはチョコレートです。
あたかも、女性が男性への恋の手続きとしてチョコレートは
独身者である男達のチョコレート粉砕の機械になっていることです。
自分は「デジタルアッサンブラージュ」を提案しています。
その根幹には、
これまでの芸術が幾たびも才能あるアーティストによって、
芸術作品は社会構造への訴訟を繰り返す表現で裏切りを重ねたことでした。
そして最も重要なことは、これまでのアーティストは、
まったく「デジタル」、まさにデジタル文明を知らなかったことです。
しかし数学者たちが気づく以前に点は限りなく正方形に近づいているとか、
色の多様性はアナログ的な理解よりもデジタル的な解釈が先行していたこと。
おそらく、デザインとアートの差異性から、
デジタル的な大ガラスの実体は自分にとっては、液晶画面に映し出されて
しかも動いているというデジタル性を語り切る必要性があるのです。
その表現性には主観性を残すことはあり得ないのでしょう。
デジタル機械としてマルセルデュシャンが、レディメイドを残し、
アッサンブラージュを残したこの大ヒントを引き継ぐことで、
「デザインとは何か」が終焉し、
「何がデザインとなるか」というデザイン解答を用意したということです。

* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


   


     8月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

芸術作品、特に画家はその表現対象を社会に向けます。
そしてアーティストという枠組みは大きな変化をしてしまいます。
芸術という主観的な造形言語がとてつもなく一瞬にして、
芸術の概念を破壊し、一般からは「なぜ、なんで、これが?」という
大疑問を投げかけられます。
マルセルデュシャンの作品は、彼の生きた時期に、その現実を
彼の芸術で社会構造までを破壊することで多くの表現者に
自分の造形言語=表現意志・意欲・意図を変革させてくれました。
彼の作品が及ぼした表現力については建築家の著作では見かけましたが、
建築家自身の講演会では敬愛する北川原氏が
講演の中でマルセルデュシャンの現実の社会構造を
彼の建築で示そうとしていたことが明白。
マルセルデュシャンと言えば、
市販されている便器に彼のサインをほどこし、
便器存在にサインがあることで、
芸術家作品のこれまでの認識を一辺に破壊。
これは立体的作品の立体性をアッサンブラージュ化させて
現代芸術そのものを提訴していました。
レディメイドでの作品によって、改めて表現者は自分の表現、
その社会性での位置を再確認させられたと自分は理解しています。
ところが、彼のアッサンブラージュは、
丸椅子に自転車の車輪を組み合わせることで
コラージュの限界を示しています。
続いてパピエ・プレでは
アッサンブラージュそのものを提訴しているのでした。
そのように思わせる作品を発表しましたがその作品は写真しか無く、
まったく現存していないのです。
自分はアッサンブラージュでの限界どころか、そのデジタル化、
すなわちその否定を提案していると思っています。
おそらく彼にはデジタル表現においての
芸術表現は想像不可能だったと判断できます。
そこで画面にある様々な映像化は、
デジタルコラージュ、デジタルパピエ・プレなどを引き継ぎ、
デジタル的な映像表現がさらに人間心情にまで
表現内容が伝わることとデザインで拡大を意図しています。

* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 『意識して見つめたい「光」を』
* 「絵画に惚れることの重大さ」
* 「大好きな画家・これが私のまなざし」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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『アッサンブラージュの進化を原点・コラージュから』


   


     8月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

芸術家=アーティストとデザイナーは、
違っていますか?、この質問を自分はよく受けます。
端的に答えることができます。これは回答です。
アーティストは「主観的」に表現をします。
デザイナーは「客観的」に表現をするのです。
主観性でモノ表現と客観性でのモノ表現は、
表現された内容=形態言語がどれほど客観的に解釈されても
造形言語そのものの意図が、自分中心なのか=主観と
自分以外のことも考慮する=客観に大きな違いがあると思っています。
しかし、アーティストの主観が表現意志・意図に込めたことは、
必ず歴史・現実、そして未来を呼び込もうとしているコトが明らかです。
美大時代に、いわゆる現代美術が全く理解できなかった自分に
「アンフォルメル以後」という宮川淳の著作は人生をすっかり変えてくれた
芸術・美術・デザイン・建築への思考方法の大転換でした。
さて、この三点の作品は、いわゆる美術でのコラージュが次の段階へと
芸術表現形式や形態言語化されたときに再問された手法に関わっています。
ピカソが残したキュビズムでのコラージュは、
ジャスパージョーンズによって、新聞紙を何枚も何枚も重ねた上に、
「フラッグ」と名付けられた国家が新聞報道の上に成立しているという
国家観を表すというコラージュを超えて「アッサンブラージュ」になりました。
この芸術手法はさらに昇華された表現にロバートローゼンバーグが進化。
それは「モノグラム」という題名に結実しました。
まず、ペーパーが積み重なりしかも立体化、しかも産業用のペイントで
アッサンブラージュそのものが、芸術表現的な進化を見せるのです。
これは明確に芸術、その表現が現実を批判し批評して、
次世代への疑問形をちりばめてくれたと解釈することができます。
コラージュという手法すら時代を驚愕させたことを起因として
アッサンブラージュは立体にも向かってその主観性を
次の人間社会に社会構造の疑問を差し出したと考えることができました。

* 「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」
* 『経緯が敬意に、形態言語から自分の造形言語化を』
* 「アーティスト、デザイナーにだけ降りてくること」
* 『アートからの革新=フォンタナの作品から』
* 「この画家をもっと知らせたい」


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『看医工学としての介護のコンシリエンスデザイン』


   


     4月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

医工連携はすでに論理的には無理です。
この考え方をデザイン手法にして「看医工学」を提案。
そして、
「反健康」=病気そのものであること、
その問題解決としてのデザイン。
「半健康」=一病息災といわれるように、
時には医師の医療看護が必要とされます。
これは人としての存在価値を効能として、最も重要になるのは
介護までの環境でしょう。
「範健康」=健康を望んでの模範的な生活環境が必要です。
それこそ、未来、明日ある自分の健康の維持デザインです。
公的な国家プロジェクトの資料によれば、
特に、2010年から2025年には、
65歳以上が709万人増加というデータが出ています。
僕たち団塊の世代が、基本的な社会構造、少子化と高齢化国家になり、
わが国がデザイン対象に「看医工学」を成し遂げれば、
他の先進国家からこれからの地球のあり方、
そのモデルケースになることは間違いありません。
高齢化による介護者が2012年には170万人が必要とされ、
2025年には250万人が求められるということも明らかになってきました。
この世代がどれほど社会を破滅させていくかを正直に自覚してしまいます。
そこで僕の使命は「コンシリエンスデザイン」で
「看医工学」の実務を
これまでの経験で即応できるかということになります。
僕は改めて、看医工学での介護に焦点を当て、
医療にはメディカルケアを
介護にはヘルスケアを
健康にはライフケアをデザイン、デザイナーとして、
コンシリエンスデザインに集中させなければと提案し実施しています。
そのためのスマートハウスよりは、
スマートシェルターが正しいと思っています。
それは、衣・食・住がfood, clothing and shelterだと考えるからです。

*『講演テーマで最近もっとも多い医学とデザインの「範」』
*『病院という悲しみの日本語に「もてなし」という意味は無い』
*『滋賀医科大+EDGEで紹介をKK塾でも紹介』
*『医工連携など妄想である!』
*『「コンシリエントデザイン」・・・新しいデザイン定義』


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『変だ! おかしい、狂っている、それは・・・私か?』


   


     12月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

私は歩けなくなったときにこの時代と私はもう共時できない、
そう思ってきました。
だから正直に言えば、現代は「変」になることをめがけて進んでいます。
駅と新幹線、列車。=列車の進化に駅ホームは不適合!
空港と飛行機。=エアポートという駅に飛行物体は不適合!
港と船舶。=港は何も変わらず、船舶の工夫進化に不適合!
この組み合わせには何の疑いもありません、が、「変」です。
高速になった列車とホーム、ホームの危険度は柵程度では駄目です。
新幹線も、これまでの汽車座席がただそのままの形式が進歩しただけ、
それが、まともだと思っていること自体がおかしいのです。
だから、列車のデザインにホームの設計要素が必要であり、
飛行機への乗降者にエアポート=駅形式は大間違いであり、
現港の沖合まで新しい港は建設し直せば、
船舶の形態デザインも変わるはず。
これが私、デザイナーとしてのアイディアです。
極論すれば、歴史の進化がすべてバラバラのままに、何が進化?
歴史的な実例をひっくり返してこそ、本当の進化のはずです。
景観の哲学に、景気も病気も「変」に除外されてきました。
景気も病気も哲学にその項目がないからこそ、「治せない」から「変」。
景気に向かう、経済と経営ではもう無理なことは明白です。
病気に向かっている医学、看護学では無理なこと分別がつきます。
前例をつくればもう前例以外はこぞって進めてはいけないらしいのです。
こんな「変」な時代、このような社会構造と共時していくには、
気づいてしまった、この不適合性を明確に問題解決する手法、
その具体化実務=デザインしかありえません。
そろそろ、「変」さを除外していく私には、
この不適合さの景観を傍観するだけの無常論に
生き着いていくそんな気がしてなりません。


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『資本主義からの逃走』
 「社会保障としての医療制度は、資本主義では不可能」


   


     2月 11th, 2010  Posted 10:00 AM

医療というFormation
DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
医療こそ、人間の「生老病死」への科学的対応です。
したがって、「生老病死」を経済論理では語れません。
生老病死
「生老病死」はまさに、Dynamics論理が不可欠です。
さらに、医療はFormationによって、
その解決を計れれば、「幸運」であり「幸福」です。
経済活動の格差が、
そのまま医療制度に反映されることになれば、
「生きる」という連続性は経済とはLogarithm的です。
無論、「死」は万人に平等です。
平等は、「生きる時間」が限定されていることであり、
その平等性は、Dynamicsであって、
いわゆる寿命には格差があることは明確です。
医療制度を社会保障する、というのは、経済論理が
まったく適合していません。
むしろ社会主義としての平等性を、
担保する必要があります。
それは、資本主義的な医療は「生死」すら経済性で、
決定づけてしまうということになります。
せめて、「生死」と医療を結合させる論理は、
Formationを社会構造に組み込んでいくことですが、
その論理あるいは制度設計の方法は発見不可能です。
したがって、
医療Formationを社会保障制度にするには、
それを医師・看護師・医療従事者だけに委ねることから、
決別する時になっているのです。
ましてまだ治癒不可能と言われている難病・癌などに、
「社会保障としての医療制度」は、
デザインが入り込んで、制度設計と環境設計に
「向き合う」必要性が見えています。
私は、デザインは、「命を護る・守る」ことまでは、
決して出来ないけれど、
いのちと向き合うデザイン
「いのちと向き合う」ことは出来るということを、
実践第一から制度設計へと、
向かわせることをめざしています。
Formationというのは、
本来自然の中での生物の「生死」競合性の制度です。


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