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Posts Tagged ‘民族性’


「この日からの再出発、再認識」


   


     1月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

年末年始、多分、大学人としては最終の論文作成をしています。
国外向けは、いつもながら英文の文字数調整に苦しみました。
国内向けは、なんとしてもこの正月休みに書き上げたいと念じるほどです。
国外向けも、アブスト査読は昨年夏に合格しましたが、
やはり、3.11が及ぼしていることについての論説が求められました。
今世紀に入って、
経済的には多大なグローバルな変動に人類すべてが翻弄されていますが、
とりわけ、私たち日本人にとっては、多くの同胞を失いました。
そして、政権交代によっての政治的な指導力の欠如は甚だしいものでした。
私自身、被災地や内閣、
大企業の復興姿勢には怒りと落胆と情けなさを存分に味わいました。
よって、今度の自民党政権には大きな期待を持っています。
公共投資の方向性など決して間違わないでほしい限りです。
大企業の被災地支援も間近で体験しましたが、
企業トップの指導力や理念など大疑問ばかりでした。
たかが、デザイナーに何が出来るのか、という声が明確に聞こえています。
しかし、私は、来春阪大を退官と同時に、
自分のミッションは決定しています。
私は、2011年1月から5月までの、この映像を見る度に、
日本列島のコンニャクのような脆弱さを再認識させられます。
したがって、今年の4月からの活動こそ、
わが人生、その最期の「行学の実践」にしたいと意気込んでいます。
3.11直後に、大きな活動をしながらも、
ほとんど匿名的な活動も紹介していくつもりです。
それは、昨年8月に創設した「危機管理デザイン賞」の対象にしています。
私たち日本人は、すぐに醒めきってしまう民族性が残っていますが、
もし、自分たちが、この時代との共時性を共有するには、
どこまで、復興と再興に、
自分のプロフェッションを差し出せるかということでしょう。
そんな気持ちに、
この画像は決定的なプライミング・エフェクトを与えてくれています。


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「資本主義からの逃走」
     「多様性の前に意識の中の『維新』を再検証」


   


     1月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

歴史的DNAの言葉・維新
意識には先天性・後天性があります。
その先天性には、民族性・個人性が関与しています。
民族性はきっと「歴史で培われたDNA」があるでしょう。
したがって、日本人には多様性意思が皆無であるDNAを確認します。
私は「維新・restoration」について明記しておくべきでしょう。
日本の歴史・日本人意思に革命・改革・改新という事例は、
「維新」という言葉で曖昧さと平和性に変位させています。
これが、私は意識・意思・多様性に多大な精神性を与えると判断しているわけです。
だから、「維新」という言葉への暗黙性を研磨し光沢を与えます。
「維新」は古典書二つから、「百事一新」という意味があります。

   ■ 『書経』
        <旧染汚俗、咸(みな)共に維(こ)れ新たなり>
   ■ 『詩経』
        <周は旧邦と雖も(いえども)、其命維(こ)れ新たなり>

1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書では、次のように記載されました。
「百度維新、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし」という、
神道のイデオロギー、これは流血を最も嫌悪させます。
この嫌悪感をもって日本人をある種洗脳したしまったのかもしれません。
したがって、この日本人・一言語一民族を理想的に結集させるマニフェストになったのでしょう。
それは、昭和維新や平成維新という、
本来は革命とするタイトルを意識心理とインプリンティングしていると考えます。
このイデオロギーは、統一感であって多様性を拒絶しているのです。
この拒絶感が歴史的なDNAとして、私たち日本人には残存していると私は思っています。


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『資本主義からの逃走』
   「解答とSolutionとの狭間にみえること」


   


     10月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

解答←・・・・・→Solution
問題=Problem:対:解答=Solutionは対訳です。
したがって、解答=Solutionには日英(米)訳語関係があります。
ところが、仏・独・伊・西・での解答・答には、
いわゆるreply的な言葉が多いと思います。
reponse(仏) ・amtuort(独)・risposta(伊)・ respuresta(西) です。
無論正直なところ、こうした「答」を表す単語の由来までたどりついているわけではありません。
私が、応答=replyや回答=answerを詳細に検討し、解答=solutionなら、
これにはsolveという原義との距離感をみておくべきではないかと考えるわけです。
理由は、私は解答の「かたち」を一文字「容」としました。

問題の溶解=解答ということ

それは、まさしく問題の分解と溶解をしていく行為過程や結果の効果が答、解答の質であり、
それがあらためて問題の本質になっているからだと思うからです。
私は日本語の「解決」に私は三つの過程があり、
答にも応答・回答・解答が、それぞれに問題に対する「容(かたち)」があるとまで断言しました。
ところが、英米語のSolutionには、
問題を「溶解してしまった結論」=解答・答があるということです。
少なからず、これは問題意識に対する文化観、哲学感、
さらには宗教観があるのではないかと考えざるをえません。
したがって、私は問題認識ということには、
民族性、国民性、宗教性、政治性が反映していると思うのです。
デザイナーとして、デザインが問題解決とするなら、
国際的にはreply的要因のある応答的な形態による解決が、
一般性と価値性を持っているのかもしれません。
あらためて、「答」から、「問題とは何か、何が問題か」を突き詰める必要があると思っています。


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